アイデンティティとは・・・

 「三十代あずましくない乙女たち」のありあどねさんが興味深いツイートをしていた。自分の都合で呼び方をかえようとする御堂筋君のようなマイペースっぷりは流石だが、同時にヤスノさんの切り返しも素晴らしい。アイデンティティについて考えるヒントになった。

 自分が何者かは、「どう呼ばれているか」によっても形作られているのだ。心理学の先生方には当然だろうし名前も付いているのかもしれないが、自分はなるほどと思った。

 白紙の人間が記憶を持ちアイデンティティを形成する時に、周囲にどう呼ばれていたかは重要だろう。名前は記号でしかないが、社会性を獲得し社会的な役割・名称(一般に肩書)を持ったときに、その肩書で呼ばれるような職業だとその肩書を自分のアイデンティティの一部にするだろう。それが役職(課長とか部長とか)だったり、職業(お医者さんとか先生とか)だろう。そして、その肩書を自分のアイデンティティの一部にした人間はそのように振る舞う。というか、自分がその役割としてイメージしているもののように振る舞う。なので、例えば役職に着いた途端に偉そうにするような人間は、役職で人を見上げたり見下したりするチッサイ人間だろう。また、そのような人間がこれを外されると別人のようになる(良く言われるのがバリバリの辣腕部長が退職した途端気力を失って老けこんでしまうといった例)のだろう。

認知と錯覚

black&blue or whte&gold 今週は面白い経験をした。まず、ネット上の話題をかっさらった右の写真。昼休みに会社のPCで見た時には青・黒にしか見えなかった。なので、全然疑問に感じなかった。「モニタとかアプリとかのせいでそういう見え方がすんのかな」程度の気持ちでいた。

 ところが、家に帰って風呂に入りTLを遡っていた時に、昼間に見たツイートの写真が金・白に見えた。その時に使っていたのが janetter だったので Twitter に切り替えて見た。すると青・黒にしか見えなかった。同じツイートなのにだ。そこで、再び Janetter に戻ったら青・黒にしか見えなくなった。


sakkaku それについて、周囲の色との関係で説明することが多くあった。右の図は有名な画像だ。A と B のパネルは同じ濃さだが、Bのほうが明るく見える。周囲の明るさに引きずられて濃さを脳が勘違いしてしまうのだ。

 こういった例はこれまでも見てきたし、分かっていてもBが明るく見えることは変わらない。

 ドレスが不思議なのはこれでは説明できない。なぜなら再現性がないからだ。これまでに見た錯覚の図ではこのようなことは無かった。下の図のように、頭でわかってもいつもAとBは違うように見える。これが時に寄って同じように見えることはない。

 人によって違うとか、環境によって違うのは分かる。今回はまったく同じ環境で同じ人間が同じ対象物を見て違う色に見えたのだ。しかも、元に戻ることはない。一度だけ白・金に見えたのに見なおしたら青・黒にしか見えなくなったのだ。全く同条件でだ。こんな経験は初めてだった。

 次は、よく経験することだし、これまでも何度か書いた経験だが、今日も同じことを経験した。

 部屋を掃除している時に、テーブルの近くに紙袋に入れて置いていたのだが見当たらなかった。娘に聞いたら「棚に置いてあるよ」。そして、見たら確かにあった。

 ところが、そこは2〜3回前に行って、視界には入っていたはずだ。なのに、知覚できなかった。こんな脳なので、ニセ記憶植え付けは容易だろう。更に、その記憶が自分にとって都合の悪いことや今の自分から考えて心地悪い事実だとしたら積極的な上書きとリライトが繰り返されるだろう。歴史はそうやってできてきたのだろう。(ニセの記憶

ニセ記憶植え付けは容易

 繰り返し取り上げている「自分の知覚・記憶は他人と同じくらい信用出来ない説」を補完する実験結果といえる。

「虚偽の記憶を減らす方法 」というより「記憶に影響するバイアスを排除する方法」

 これを考えると、いかに目撃者証言があてにならないかが分かる。目撃者の偽証という意味ではなく、本人には全く悪意がなく誠実に受け答えしていてもどのていど事実かどうかは分からない。

 しかも、おそらく証人は、何度もその時のことを思い出し記憶を再構成するだろう。そしてそのたびごとに記憶が強化されるだろう。それだけでなく、証言の間に読んだマスコミの憶測記事によって刷り込まれた偏見が加わっているだろう。

行っていない犯罪のリアルなニセ記憶植え付けは容易、心理学者チームが実証
「人の記憶はあてにならない」とは、程度の差はあれ誰しも実感する話です。しかし自分の犯罪歴という重大な事柄についても、特定の技術を用いることで多くの人にリアルな偽の記憶を植え付けることに成功したと、英国・カナダの心理学者チームが発表しました。
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待ちくたびれびんぼう(´・ω・`)

 色々と待ちくたびれたのは Up3 や フィットネス・トラッカー、SJ5000 を待ちくたびれただけではないと思う。

 待たされ感の原因は仕事のストレスだ。今、大きなプロジェクトを二つ手がけているが、非常に進みが悪い。何かというと会議、打ち合わせ・・・自分の分担部分は終わっていても先に勧めない。会社にいてもすることがない。その後に修羅場が待っているのに手を付けられないのだ。更に、来年には別のもっと大きな環境変化があるかもしれない。これらが進展するのをただ待っているだけの状態が疲れる。自分は変化大好き人間なので、じっと待っているのは苦手だ。

 後、使えない人間に仕事を任せなければならないのも辛い。どうでもいいことに時間を取られて忙しそうに、そして満足そうにしているのを見ているとイラッとする。何回も同じことを言わなければならないのも飽きた。自分で問題点を見つけて解決策を考えるということは先の先というか、彼には一生無理ではないか・・・自分が土曜日に出勤するのはこいつの雑音がないからだ。心も安らかでいられる。

 もう、今の職場は離れたい。変化への欲求が待ちくたびれにつながっているのだろう。フィットネス・トラッカー、SJ5000、Jawbone up3(これはまだ注文すらできないが)、早く届かないかなぁ。って、子供かwww

人間病院Wiki にかける青春

1384132141 今、一番熱い Podcast が人間病院だ。(自分調べ)

 人間病院は様々な社会現象に潜む病原菌を白日の下に晒す番組で、取り上げた症例だけでなく認識されている病気について Wiki にまとめられている。これが「編集可能な Wiki を見たら編集しなくていられない病」の重症患者である自分に火をつけた。

 以前は、一覧のページの編集にはロックが掛かっていたが、最新エピソードでフリー化の宣言がなされて、ログインIDが無くても編集できるようになった。とりあえず、エピソード化された病気のページとそれへのリンクを整備した。次は、エピソードを遡って聴きながら個々の病気の症状を書き起こしたい。

 これを読んだ病人と編集合戦を繰り広げられたら嬉しい。

人間病院podcast(iTunes):https://itunes.apple.com/jp/podcast/ren-jian-bing-yuan/id410856608?mt=2
番組サイト:nandeanotoki.com
人間病院wiki:http://www60.atwiki.jp/ningenbyouin/

歪曲記事:PC・スマホ・タブレットなどを同時に使い分けるマルチタスクは脳の認知機能を低下させるおそれ

 元の実験結果とこの記事はかなり印象が違う。この記事では「同時に複数のデバイスを使うことが脳に悪影響を及ぼしている」ように読めるが、研究結果はそんなことを調べてはいない。

 この記事ではデジタルデバイスの並行使用について調べたかのようなタイトルが付いているが、調査はメディア全般について調べられていて、紙媒体やテレビ、音声電話なども含まれている。メディアを同時に長時間使っていればスコアは高くなる。それが、「音楽を聴きながら本を読む」とか「テレビを観ながら新聞を読む」であってもだ(自分が読み違えて無ければだが)。これらを「PC・スマホ・タブレットの同時使用」と考える人はいないだろう。

Graph MMI / ACC volume また研究は、記事にもある通り、アンケート調査とfMRIを使った脳構造の検査しか行っていない。なので、「低下させる」ということは言えない。元の調査には書いていない(ように自分には読めた)。そして、この調査では因果関係は分からない。この記事を書いた人間は相関と因果関係の違いが分かっていない。というか、因果関係があるかのように書いたほうが読者の関心を呼べると思って、歪曲して書いたとしか思えない。

 このグラフが正しいとしても、このグラフからは「PCやスマートフォンなどの複数のハードウェアを同時に使う「マルチ端末同時利用」をよくする人の脳を調べた研究から脳機能が低下しているという事実が明らかにされ」ない。他のストレス要因について考慮していないからだ。

 長時間労働により自由にできる時間が少ないために同時にメディアを使う時間が長いことは「脳の認知機能や社会的感情の悪化」をもたらすだろう。そんな生活環境なら人間関係にも問題を含んでいる可能性が高く、ストレスも大きい。

 どちらが先かは結論づけられない。家庭生活にストレスを抱えて仕事に打ち込む人もいるだろうし、長時間労働により夫婦関係が悪化した人もいるし「ネット依存症とパチンコ依存症 ~プチネット断食のススメ[5]|三谷流構造的やわらか発想法|ダイヤモンド・オンライン」に挙げられるような依存症かもしれない。デジタルデバイスに限らず、メディアに依存しているような人が示す症状は「認知機能や社会的感情の悪化」と一致しているのではないか。

PC・スマホ・タブレットなどを同時に使い分けるマルチタスクは脳の認知機能を低下させるおそれ – GIGAZINE

複数の作業を同時に行う「マルチタスク」は忙しい現代人にとって避けられないことですが、作業効率の低下だけでなくストレスの増加や脳機能への悪影響といった心身への負担が近年、指摘されています。そんな中、PCやスマートフォンなどの複数のハードウェアを同時に使う「マルチ端末同時利用」をよくする人の脳を調べた研究から脳機能が低下しているという事実が明らかにされました。

Higher Media Multi-Tasking Activity Is Associated with Smaller Gray-Matter Density in the Anterior Cingulate Cortex
(PDFファイル)http://sro.sussex.ac.uk/50361/1/KanaiPone.pdf

News : News and events : University of Sussex
http://www.sussex.ac.uk/newsandevents/?id=26540
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ATに対する違和感の正体

 最近のATは本当によく出来ていると思う。1300cc なのにそこそこの出足がある(Alfaromeo 145 のようなパンチ力はないが比較の対象じゃないだろう)し、シフトのショックもない(CVTなので当然かも知れないが)。20年くらい前に乗っていた 三菱Lancer の 1500cc よりはるかにパワフルでスムーズだ。エンジンの最大出力は大差ないので、EFI とATの制御が貢献していると思う。

 しかし、どうしても馴染めない気持ち悪さがついて回る。これは Fit や CVT だからという意味ではなく、Lancer から Rantis 2014 にも共通する違和感だ。

 AT に乗っていて違和感があるのは、慣性走行出来ないこと、停車前のクリープ、パーシャールがないこと、エンジンブレーキの強さの調整ができないことだ。

慣性走行

 数百m先の信号が赤になったのが分かった時に、MTではクラッチを踏んでギアをニュートラルに入れる。その時点の速度と距離、道路の勾配を計算しブレーキで速度を調節しながら車列の後ろに付ける。右足はブレーキペダルの上に置いたままだ。145 だと 60km/h で平地なら 300m くらいは余裕で転がった。

 Fit はアクセルペダルから足を上げた時点で強制的にエンジンブレーキがかかり、速度が落ちすぎるので前が赤信号で並んでいる車が見えているのにアクセルペダルから足を離せない。これが気持ち悪く怖い。

 また、田舎の見通しの良い下り道でニュートラルでもスピードが落ちないようなところをニュートラルで下っていくのが好きだったがATでは出来ない。

 惰性で走っていて、カーブが見えたり交差点に差し掛かったら、その時の速度に合わせて任意のギアに入れてクラッチを繋ぐ。ギアの選択とエンジンの回転数が合えば全くショックはない。

停車前のクリープ加速

 上記のような状況で停止位置に近づいた時、MTの場合はブレーキを緩めなが近づく。10mクラ手前になったらブレーキペダルを踏む力はほとんどゼロだ。慣性モーメントが減っているのでそれに伴ってストッピングパワーを弱めて停止位置で自然に止まるような感じに持っていく。

 しかし、AT車ではこれが出来ない。停止位置のかなり前でアクセルを緩めエンジンブレーキを効かせながら近づき、50mくらい前でブレーキペダルに足を置く。速度と相談しながらブレーキペダルを踏み込み更に近づく。速度が十分に落ちて徒歩くらいの速度になった時点でブレーキをゆるめて近づくとシフトダウンしてクリープで現象で加速する。というか、減速のカーブが寝てしまう。これが心臓に悪い。

 自然に速度が落ちて、目の前に停止してる車が見えてきたところで意に反して加速するように感じるからだ。ATレバーをニュートラルにするという手もあるが、ATトランスミッションを傷める原因になるらしいのでお勧めしないし、自分でもしない。

コーナーリング時のトルク変動

 カーブを加減速せずに通り抜けることが出来ない。コーナーのRにもよるが、MTの場合にはコーナーに入る前にブレーキング・シフトダウンをし、右足はアクセルペダルに置いて加減速しないようにアクセルペダルを調節しながらコーナー出口に向かい出口が見えた時点でそのままアクセルを踏んで加速する。これがスムーズで安全だ。無理な負荷がタイヤに掛かることもない。

 ATの場合にはこれが出来ない。前もってギアを選んで置くことが出来ないからだ。車は車速とアクセル開度によって使用するギア比を選ぶ。ATのアクセルは加速か減速かしかないのだ。だから、等速で抜けようと思っても、エンジンブレーキがかかったり加速したりする。予期せぬ加速でラインが膨らんだり減速でタックインしたりしかねない。当然、その瞬間タイヤにはコーナーリングフォースとは別に前後の摩擦まで要求され斜め向きの負荷がかかる。

 理論的には、コーナーリングに使える摩擦力が減ってしまう。路面とタイヤの摩擦力は路面の状態とタイヤとトレッド面の面積と圧力によって上限がある。コーナーリングフォースは横向きにそれを使うが、無駄な加減速によってコーナーリングフォースのマージンを削ることになってしまう。まあ、ここらは限界ギリギリでしか問題はないし、そんな走りをする人間はATに乗ってはいけないだろうが。

エンジンブレーキの制御の難しさ

 MTの場合はアクセル開度とギアの選択だけでなく、半クラッチによってエンジンブレーキを制御できる。田舎のワインディングなどでは、コーナーに入る前に2速に入れて減速し、コーナーリング中はクラッチを踏んで回り込みながら右足は回転をキープし半クラッチでトラクションをコントロールしながらコーナーを抜けるといった走り方をしていた。

 ATでは当然無理。

結論

 こうやって、気になる挙動を列記していたら共通項がわかった。エンジンに伝わる動力をコントロール出来ないことだ。動力を伝える(エンジンブレーキを効かせる)度合いを自分のコントロール下に置けないといい変えると分り易いだろうか。

 MTで走っている時には常に先の状況を予測している。「この先赤信号やから加速する必要はない。距離があるからエンジンブレーキも要らない」とか、「このカーブは急だから速度を落として、回り込みはパーシャルでエンジン回転数を右足で3,000rpmくらいに保って、立ち上がりは半クラッチ」といった感じだ。これを、ほぼ無意識でこなしている。

 ところが、ATは先の状況を読むことが出来ない。速度センサーとアクセル開度、ブレーキの踏力、エンジン出力(回転数)しかない。これらをフィードバックしているので挙動がどうしても後追いにならざるを得ない。AT の性能に問題があるのではないから、根本的な解決は不可能だ。停止時のトルク変動などはチューニングで軽減できるだろうが、カーブの先を読めない限りコーナーリング中に立ち上がりに備えた動作は不可能だ。そうするための情報が得られないのだから。

 ただ、このような感覚も不要になる。早く自動運転の時代が来て欲しい。すべての車が自動運転になり、道路のインフラもそれをアシストするようになれば事故は大幅に減らせられる。スピード違反や一方通行無視、一旦停止無視なども出来ないから取り締まる必要もない。警察の大幅な人員削減が可能になるだろう。

 ETCというような中途半端なシステムも不要になる・・・って、思考実験は前にもやったなww

自転車の前照灯は点灯(非点滅)でお願いします。

 先日のエントリについて参考になるコメントをいただいた。

 どちらも自分の感覚と一致している。

※以下は全て、素人考えなので、間違っている可能性が高い。お気づきの点が有ればコメント頂きたい。

 点滅というコントラストの変化が人間の知覚に対して影響を与えているのではないだろうか。マジシャンの手に意識を奪われるように、点滅する光には注視しようとしていなくても視線を引き付ける効果があるのだろう。

 後、人間の目の明暗順応速度とLEDライトの点滅間隔のシンクロが考えられる。特に、暗い田舎道を走っている時に対抗自転車がLEDライトの点滅させていると非常に眩しく感じる。ライトの光量自体は弱いし、点滅することで時間あたりに受光するエネルギーは減っているはずなのにだ(これには、自転車のライトの配光と角度の設定に問題があるかもしれないが)。

 ライトが点滅し受光エネルギーが減ることで虹彩が開いてしまうのではないだろうか(周囲は暗いので)。その状態でLEDの光が届き脳に送られるので眩しく感じるのではないか。これに対して、リアのランプがは赤いので、発する光の周波数帯が短くエネルギーが小さいために、虹彩が開かないのではないだろうか。

 なぜシンクロだと考えたかというと、Panasonicの高級通学自転車に付けられているカゴ下マウントの5灯LEDライトは点滅しているが点滅間隔が短いせいか、光量は圧倒的に多く明るいが眩しくない。それに、蛍光灯レベルの点滅になると感知できなくなる。

 LEDの点滅モードは明るい時間帯に使うべきで暗い道では使ってはいけない。後、ライトの取付角度と配光にもお気を付け頂きたい。ハンドルにつけるLEDライトは簡易的な取り付け方をするものが多く、振動によって角度が変わりやすい。ライトが上を向きすぎていると対向車に迷惑なだけでなく自転車が進む方向を明るく照らせない。

自動車トマソン

eco idle badge 自動車には何故か仕様を誇示するステッカーが貼られている。自動車の仕様などは買う時の判断基準にはなるが、買った後は関係ない。機能があれば便利に使えばいいし無ければ使わないだけだ。大半の機能などは走っている時には意識することすらない。まして、人に知らせる必要のない情報だ。しかし、自動車を自分のアイデンティティに使っている人にとっては重要らしい。今ではどうか知らないが、数十年前までは「ステッカー(エンブレム)チューン」という言葉まであった。

 自分は全然興味はないしどうでもいいが、こういうアイテムに現れる意識が興味深い。これを見るだけで、その頃に開発・搭載されたものが分かる。同時に、社会の関心事が透けて見える。そして、それらが貼られなくなるということは、それが普及しコモディティ化したか廃れたかのどちらかだ。

 1970年代は基本が4速MTだった。なので、AT車には「AT」、5速MT車には「5MT」が貼られていた。自動車のグレードがステータスシンボルとして機能していた時代だ。この時代には高いグレードや性能を表すステッカーやエンブレムが多用された(今でもV6とかいうエンブレムを付けた車が時代錯誤の老人には愛用されていてゴルフ場周辺で見かけるが)。

 同様に、コモディティ化によって貼られなくなったステッカーとして思いつくのは、ABS、エアバッグ、イモビライザーがある。古くはエアコンとかもあった記憶があるが、思い違いかもしれない。

 Fitには排気ガス基準クリアとか燃費性能というステッカーが貼られている。これは、排気ガス規制や低燃費への関心の高まりを示しているだろう。2014年の車にはもっと最近の基準や燃費性能をクリアしたことを誇示するものが付いているのだろう。

 今流行りなのはハイブリッドだ。ステッカーというよりエンブレムが付いているものが多い。Prius のように全車がハイブリッドの場合には控えめだが、Fit のようにハイブリッド車とそうでない車とが混在する車種の場合にはエンブレムだけではなくボディデザインも変えて差別化を図っている。2014 年にはハイブリッド車に乗ることをステータスと考えている人が多いことが伺える。

 先日気づいたのはアイドリングストップだった。それ用の仕様はおそらくオプションなのだろう。だからそれを誇示するためのバッジが貼られていた。これも全社がアイドリングストップになれば消える運命だ。

 また、「カーナビ盗難防止ビス使用」というものはステッカーそれ自身に存在価値がある。これは、カーナビの盗難を防ぐことが目的では無く、カーナビを盗もうとする行為を抑止するためのステッカーだ。カーナビ盗難防止ビスでカーナビの盗難を防げても、盗難行為のためにガラスを割ったりドアをこじ開けたりされるだけで修理費用はかかるからだ。というより、盗まれたカーナビの価格より車の修理の値段のほうが高くつくというケースも有るらしいから、その気にさせないのは重要だ。

 イモビライザー装備というのも同様の効果が期待できるのに、イモビライザーが一般化したのか、自分のFitにはイモビライザーが着いているのに、イモビライザー装備というステッカーは貼られていない。残念だ(因みに、Fitにはカーナビは付いていないので盗難防止ネジは不要だ)。

 これは自動車メーカーの自動車に対する考え方が未だにステータスシンボル又はフェティッシュに留まっていることを示す例だ。コモディティ化し差別化に繋らないステッカーは貼る必要を感じないのだろう。それがユーザにメリットになるとしても。

 こういう自動車メーカーの意識はその広告で良く分かるが、話がそれるので、気が向いたら書く。

情報共有の盲点

athome-008-01 企業のマネジメントでは「情報共有」と「コミュニケーション」という言葉がもてはやされている。企業向けの階層教育の大半がこれに関係しているといっても過言ではない。上司も部下も情報共有してコミュニケーションが改善されれば全ての経営課題が解決されるかのようだ。

 外部要因の経営課題を内部の情報共有で解決できるとは思えないが、それはまた別の機会に書くとして、ここでは情報共有という言葉自体に潜む問題点について書く。

 サンプルは自分がよく知っている某企業や一般のニュースやセミナー等で聞かれる他社事例なので、一般的なのかどうかは検証できていないので、違う事例が有ればお教えいただきたい。

 某社においても、数年前から「情報共有やコミュニケーションを改善しなければならない」ということを管理職や経営者が言うようになった。社内が停滞しているのはコミュニケーション不足のせいで、情報共有が進みコミュニケーションが活発化すれば改善されると考えていることが分かった。

「出せ」と言う前に自らが出せ

 ここまでは分からなくはない。問題は情報共有のあり方が分かっていない経営者や管理職が多いというより皆無なことだ。何をすれば情報共有できているというのか、どういう状態をコミュニケーションが良いというのかのイメージがなく、旗を振っているだけだ。これが致命的。

「情報共有」というのは「情報を共有すること」だ。両方が同じ情報を持つということだ。ところが、レベルの低い企業は情報の共有手段を導入すれば情報共有が進むと勘違いしている。そして、「持っているものを共有スペースに置け」と号令をかける。

 ところが、役職者は進んで共有のスペースに置こうとしない。自分は出さないのに部下には情報を出せという。ところが、公開すべき情報を持っているのは管理職なのだ。情報を提供しようとしないところに情報は集まらない。情報共有を阻むのは管理職の行動だ。

 号令ではなく行動で示すこと。

情報共有はキャッチボール

 では、管理者が率先して情報を公開し、他のメンバーも公開するようになったら情報共有が進むというほど簡単ではない。むしろそこから先のハードルのほうが高い可能性がある。

 たしかに、各人が個人のローカルHDDや机の引き出しにしまっているのでは情報共有はできない。しかし、各人が公開したからといって情報共有は進まない。これを見落としていているケースが多い。このため、情報共有ができているという頂上ゴールに対して残り数キロで道に迷っている組織が多いのではないだろうか。

 自分はPCトラブルが怖いので業務上のデータはサーバ上の部内公開スペースに置いている。メモがわりのWikiもそうだ(Wikiの中には全社公開のものもある)。しかし、情報共有はできてない。プロジェクトの進捗を部内で説明してくれと管理職が言ってくる。共有データを見ていたら分かることなのにだ。

 つまり、公開された情報を周囲が受け取って初めて「共有」になるのだ。ここまでやってゴールだ。受け取る側の意識改革というのか、参画意識や当事者意識が無ければ共有にならない。

 これは、どんなツールを使っても一緒。レベルの高いメンバーならMLだけで十分なところが、レベルの低いメンバーが集まるとメール、共有サーバ、イントラネットを使っても足りなくて、「やっぱり顔を突き合わせての会議が必要だね」となる。足りないのは情報共有の手段ではなく、受け取る側の意識なのだ。

 情報共有は会話と同様にキャッチボールだ。投げても受けられなければ続かない。投げたボールを受けたり打ち返したりされて初めて次のステップがあるのだ。Twitterのように投げっぱなしで満足しているのは情報共有とは言わない。(Twitterを批判しているわけではない。Twitterは情報共有の手段ではないと言っているだけ)