「ニセの記憶」

 興味深い実験だ。自分の経験すらも覆してしまうのだ。汚職政治屋が「記憶にございません」というのを聞くと、嘘を付いているようにしか見えないが、記憶自体が都合よく変えられてしまっているのかもしれない。この調子で行けば、数年後には「2011年3月11日以前から原子力発電所に反対だった」という人間が大多数を占めるようになるのではないだろうか。
「社会への同調」で生まれる「ニセの記憶」 « WIRED.jp 世界最強の「テクノ」ジャーナリズム

 戦前を舞台にしたテレビドラマでは、主役は戦争に否定的感情を抱いているかのような描き方ばかりで、「じゃ、なんであんな政党を支持したの?」としか思えないことが多かった。今のテレビもマスコミも反原発を叫ぶTLにも、加藤氏のいう「歴史の外部に立つ者」のようにしか見えない。

 一番ひどいのは、このような原子力政策を進め、東京電力と癒着していた自民党と官僚、広告収入に目が眩んで黙り込んでいた(る?)マスコミだ。そして、そんな自民党に長期間に渡って安定的に政権を委ねていた国民にも非がある。

原発もあの戦争も、「負けるまで」メディアも庶民も賛成だった?
 大岡は、『レイテ戦記』で、非常にクールな書き方をするわけですね。出だしは、「比島派遣第十四軍隷下の第十六師団が、レイテ島進出の命令に接したのは、昭和十九年四月五日であった」となっています。

 それが読む人の心に訴える。なぜでしょう。それは、大岡にとっては自らが捕虜となり渦中にいたレイテ島での戦いを、極めて冷静に書くことで、大岡が、同時代の歴史を「引き受ける」感覚、軍部の暴走を許容したのは自分であり国民である、との深い洞察が読む者に伝わるからです。上っ面だけの批判では、大岡は歴史の外部に立つ者になってしまう。それが『レイテ戦記』にはないからです。

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