情報共有の盲点

athome-008-01 企業のマネジメントでは「情報共有」と「コミュニケーション」という言葉がもてはやされている。企業向けの階層教育の大半がこれに関係しているといっても過言ではない。上司も部下も情報共有してコミュニケーションが改善されれば全ての経営課題が解決されるかのようだ。

 外部要因の経営課題を内部の情報共有で解決できるとは思えないが、それはまた別の機会に書くとして、ここでは情報共有という言葉自体に潜む問題点について書く。

 サンプルは自分がよく知っている某企業や一般のニュースやセミナー等で聞かれる他社事例なので、一般的なのかどうかは検証できていないので、違う事例が有ればお教えいただきたい。

 某社においても、数年前から「情報共有やコミュニケーションを改善しなければならない」ということを管理職や経営者が言うようになった。社内が停滞しているのはコミュニケーション不足のせいで、情報共有が進みコミュニケーションが活発化すれば改善されると考えていることが分かった。

「出せ」と言う前に自らが出せ

 ここまでは分からなくはない。問題は情報共有のあり方が分かっていない経営者や管理職が多いというより皆無なことだ。何をすれば情報共有できているというのか、どういう状態をコミュニケーションが良いというのかのイメージがなく、旗を振っているだけだ。これが致命的。

「情報共有」というのは「情報を共有すること」だ。両方が同じ情報を持つということだ。ところが、レベルの低い企業は情報の共有手段を導入すれば情報共有が進むと勘違いしている。そして、「持っているものを共有スペースに置け」と号令をかける。

 ところが、役職者は進んで共有のスペースに置こうとしない。自分は出さないのに部下には情報を出せという。ところが、公開すべき情報を持っているのは管理職なのだ。情報を提供しようとしないところに情報は集まらない。情報共有を阻むのは管理職の行動だ。

 号令ではなく行動で示すこと。

情報共有はキャッチボール

 では、管理者が率先して情報を公開し、他のメンバーも公開するようになったら情報共有が進むというほど簡単ではない。むしろそこから先のハードルのほうが高い可能性がある。

 たしかに、各人が個人のローカルHDDや机の引き出しにしまっているのでは情報共有はできない。しかし、各人が公開したからといって情報共有は進まない。これを見落としていているケースが多い。このため、情報共有ができているという頂上ゴールに対して残り数キロで道に迷っている組織が多いのではないだろうか。

 自分はPCトラブルが怖いので業務上のデータはサーバ上の部内公開スペースに置いている。メモがわりのWikiもそうだ(Wikiの中には全社公開のものもある)。しかし、情報共有はできてない。プロジェクトの進捗を部内で説明してくれと管理職が言ってくる。共有データを見ていたら分かることなのにだ。

 つまり、公開された情報を周囲が受け取って初めて「共有」になるのだ。ここまでやってゴールだ。受け取る側の意識改革というのか、参画意識や当事者意識が無ければ共有にならない。

 これは、どんなツールを使っても一緒。レベルの高いメンバーならMLだけで十分なところが、レベルの低いメンバーが集まるとメール、共有サーバ、イントラネットを使っても足りなくて、「やっぱり顔を突き合わせての会議が必要だね」となる。足りないのは情報共有の手段ではなく、受け取る側の意識なのだ。

 情報共有は会話と同様にキャッチボールだ。投げても受けられなければ続かない。投げたボールを受けたり打ち返したりされて初めて次のステップがあるのだ。Twitterのように投げっぱなしで満足しているのは情報共有とは言わない。(Twitterを批判しているわけではない。Twitterは情報共有の手段ではないと言っているだけ)

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