観る、見る、知る、覚える

 視覚(視神経から入ってきた刺激が脳内に描き出す像)が、脳内BIOSによって処理されたものであるかを教えてくれるのが、「だまし絵」だ。いろんな種類があって、絶対的な認識を行っているのではなく、差分だけをとって処理系の負担を軽減しているのであろうことが分かって面白い。デジタルハイビジョンと同じことを脳は行っているらしい(素人考え)。

 また、その上に位置する脳内OSともいうべき「意識」が、さらにそれにフィルターをかけるのだろう。だから、光の情報として入っているはずなのに、意識に上らないものがある。また、意識に上っていても、記憶に残らないものもある(というより情報のほとんどは廃棄しているだろう)。

 BIOSレベルの錯視で面白い例をA Late Summer Cicadaというblogのエントリにあったので、紹介。

> 目の錯覚?その2″href=”http://solaris.moo.jp/archives/2003/12/05/142521_000047.php”> 目の錯覚?その2

 通常の錯視画は意識することで克服(?)できる(矢印の長さや、平行線のもの)が、下のは難しい。特に上のは、視線が向かっているところだけが静止し、他の部分がモヤモヤと動くという不思議さだ。錯覚を起こしているのは目ではなく、脳だ。この絵は、同じ形で交互に塗り分けられている。脳内BIOSは意識外の視覚情報については、処理を軽くしているのかもしれない。そして、繰り返しパターンについては、一つのパターンと繰り返し情報として処理しようとするのではないか。ところが、同じ形なのに、色が違うというのでどちらの色を優先すればいいのか戸惑うのではないか。これは、裸眼立体視で見ようとしたときに隣り合った図形の異なる部分がちらついて見えるのと良く似ている。そのちらつきを脳は動きとして認識するのではないか・・・

 錯視で検索したら面白いサイト「北岡明佳の錯視のページ」を見つけた。のページの、「交戦」と題された錯視には興奮した。上下2列の白い列というのが俺にはどちらか一本しか見えない。その説明にあるとうりにその白い丸の列に黒いものがランダムに現れるし。

 他のものも面白いが、基本は繰り返しとちょっとした違いだ。これは、裸眼立体視でもよく使う手で、いくつかの図形は、そのまま裸眼立体視で立体感を感じることもできた。もう一つ面白かったのは、説明書きを読んで初めてその効果が分かるものがあったこと。つまり、脳内BIOSが正しく処理し認識したにもかかわらず、アプリケーションが誤った情報を入れたために、OSレベルで錯視を引き起こしたと思われる。しかも、一度認識した錯視(っておかしな概念だな)は、元には戻らず止めて見ようとしてもなかなか止まってはくれなくなる。

 もうひとつ、こちらはシンプル系でオーソドックスなものを集めた錯視の世界も面白い。

 「観る」つながりで面白いものを読んだので、併せて。どっかで見たようなもの経由で(こればっかりだな)、気紛れ映像論“月9”「ビギナー」に見る「虚実記憶の狭間」(2/2)を読んだ。番組は観ていないのでどうでもいいが、2ページ目で展開されている論は面白かった。

我々は記念写真を、プリクラを、そしてケータイで日常を「撮る」。どれも真実、現実だと信じたい。信じたいという気持ちだけで、現実が成り立っているではないかとさえ感じてしまう。

 これは、BIOSレベルではなく、認識と記憶レベルの話だろうが、人間の認識が「あるがまま」に行われるのではなく、記憶と経験に基づいた偏見(あるいは先入観、予備知識)によって行われるのだろう。見たいものだけ見、覚えたいものだけ覚える。そして、その判断のほとんどは過去のDBにより、OS層で処理され、アプリケーションレベルの意識に上がってくるのは、その層を通したものだけなのだ。そして、そのDBは毎日経験によって修正を受け強化されていくのだ。「そして世界が狭くなる」。

 新しい物事への判断基準が過去の経験に左右されるなら、環境による影響は大きいはずだ。日々の生活で、接しているものが全てなのだ。このことは、カルトに入った人間が、外にいる人間がどう考えても理解できない彼らの常識を振りかざすことや警察の人間が暴力団の人間とのほうが一般サラリーマンとより打ち解けられるのと一緒だ。いくら、テレビで餓えている人たちについて統計を見せられても、自分の痛みとして感じることはできないのが人間だ(これは、人間の想像力が今の情報や経済に人間の肉体感覚が対応できていないせいだが、これはまた別の機会に考えたい)。

 とまあ、ここまで来ると、「こぎゃるおじさん」について書いたのや、デジタルデバイドについて考えたことと重なってしまう。結論はない。

視線と差別意識

不可思議な人権ネイチャーデジタル : Nature Digital – ネイチャーでデジタルなコラム
今朝の新聞に「ノーマライゼーションを目指して!」と題した中学生の人権作文コンテストの優秀作品が載っていた。
金髪で長身で足に装具をつけている留学生と一緒に買い物をした時に、みんなにじろじろ見られた。中にはなめるような視線で下から上まで見る人もいたというのだ。
島国日本で金髪で背が高く足に装具をつけた若い女の子が歩いていれば、誰だって彼女を見るだろうに、そのような人間として普通の行為が、人権の名の元に非難される社会だとしたら、それこそノーマライゼーションの失われた社会と言えるだろう。

 そういえば、先日大阪駅で「こぎゃるおじさん」を見た。その人物が「こぎゃるおじさん」として認識されるまで数秒を要した。その間じろじろ見てしまった。断っておくが、俺は彼に対して何の偏見も差別意識もない。

 視野に日常生活でなじみのない組合せの外見をした人が入ってきたために、脳がパニックを起こしたのだ。そして、情報を整理し、組み込むのに時間がかかっただけだ。もちろん、彼が自分にとって無害であることは一瞬で判断ができたので、その時点で観察は中断し、後は、記憶の中のどこに分類して貯蔵するかに困っただけだ。さらに、俺は彼のことを以前にテレビで観て知っていた。このため、視覚から入ってきた情報を使っての検索に時間がかかってしまった。

 ここには、人間の認知・記憶抽出・行動・記憶貯蔵のプロセスが見えて面白い(俺だけか)。不断、見慣れた人物やモノ全てを人間は無意識のうちに判定し、意識の上に置くことはない。大阪駅で見かける数百人の人間一人一人に気を配ってはいられないからだ。視覚に入ってくるだけ、無意識のうちに判定されほとんどが廃棄される。メールのフィルターのようなものだ。自分にとって危険をもたらす相手。自分の好みといったフィルターを通した後でじろじろ見る相手を決めるのだ。

 だから、これまでの経験と照らし合わせて全く異なる組合せをした人間がいたら、じろじろと見て整理をするのだろう。時には新しいカテゴリーを作る必要もあるだろうし、俺のようにテレビの記憶からカテゴリーを引っ張り出すこともあるだろう。それらは、差別や偏見とは別の生物学的な反応だろう。

 その昔、危険な生物や敵が一杯いた時代(ほんの数百万年前だ)には、そうやって危険を避けること。危険な相手を脳にインプットすることで、すばやく反応することが必要だったはずだ。

 「じゃあ、お前は何で女性ばっかり眺めてるんだ?」。そんなの当り前。発情サインを発散しているメスを見逃さないのが発情したオスの本能だ。そうやって、自己の遺伝子の継続を願うのが俺たちの義務なのだ。まあ、実際には自分の遺伝子を相手の卵子と結合させる行為だけをしたいだけなんだが(^^;

 逆に、発情期のメスが発情期のオスの視線を集めることに快感を覚えるのも一緒。たくさんのオスから求愛を受けて自分によって都合の良い相手をチョイスしたい。その場合、できるだけ多くの相手から選んだほうがいいというのは経済原則だ。俺たちGEEKがいろんなショップやサイトを駆け回るのと一緒だ。

#どうでもいいことだが、ネイチャーデジタルの10000を踏んだ。

「有栖川宮」名乗った結婚パーティー、詐欺で3人逮捕

「有栖川宮」名乗った結婚パーティー、詐欺で3人逮捕:YOMIURI ON-LINE / 社会

 芸名を名乗って結婚パーティーというショーをやったというのならとがめられないだろう。一緒に写真を撮って金をもらったり、芸をしてお祝儀をもらったりすることは詐欺とはいえない。テレビのインタビューや講演で金を要求するのも合法的な経済活動だ。

 自分達が成りすました人物としての立場(権力や社会的地位)を利用して金をくれた人間に何等かの対価を保証することの見返りに金を受け取ったのなら明らかに詐欺だ。

 これは巧妙で痛快な「事件」だ。日本人の意識下に潜在する皇族への憧れや、無意識な崇拝を浮き彫りにしたのだ。この意識は、あらゆる差別と同じ源だ。そして、それらはある時は人種差別や国籍差別、弱いものいじめへと昇華する。

 ただ、この意識は年齢の低下とともに薄くなり、そこに割り込む形でオカルティズムやカルトが勢力を伸ばしていると考えるのは俺だけか。オカルティズム信奉者が見せる、「他者」への無関心や残虐行為は、この結婚パーティーに集まった人間(そして大半の日本人)に遍在していると思う。

 権威や権力を盲信したり過適応してしまう人間の弱点をついた詐欺については種村季弘の作品が面白く分析している。この件についても種村季弘のコメントが読みたい。

できる部下に育てる効果的な方法とは?

心理学ショートショートというメルマガにあった言葉。

 バーナム効果という現象があります。これは、心理テストの結果を、根拠なく受け入れてしまい、その通りに振舞ってしまうという効果です。人は、自分自身の性格等を判定されると、その判定が合っているかどうかをあまり詳しく確かめることなく受け入れてしまうのです。上司が部下の企画書を見て「君は○○○なタイプだな」と一言判定することで、部下は「いやあ、そんなことないですよ」と思いつつ、その言葉を受け入れてしまうのです。

 なるほどお。しかし、その上司に対する部下の評価も考慮に入れないと効果はない。軽蔑する上司にほめられても嬉しくないからだ。それどころか、仕事を理解できてない人間に「すごい」といわれても、腹立たしいだけ。逆のことをしてやろうと思ってしまう。

 あっ、忘れとった。俺は「できる部下」じゃなかった。只の問題社員だった。