次なる退場者または夜明けはあまりにも遠い:NTTの電子書籍ストア「地球書店」終了

 「電子書籍元年」は数年続いた。ビジネスモデルはシンプルなので、「権利関係者との契約さえできれば、既存のサーバと回線を使い回せば楽勝」とばかりに多くの挑戦者が現れた。しかし、元日の初日の出を待たずして淘汰は始まった。

 今日の退場者は「地球書店」。NTTという名前が付いている時点でキャリア縛りへの意図が透けて見えるようだ。自分なら絶対にこんなところの電子書籍は買わないだろう。デジタルコンテンツは普及率が命だ。ロックのかかっていないファイルを売ってくれるのなら話は別だが、著作権保護がかかったコンテンツはサービスが終了したり対応する専用端末がなくなったら読めなくなる。

 「ダウンロードしたタイトルはそのまま読めるのだから紙と一緒だろう」というのは受け入れられない。端末の寿命は紙の本よりはるかに短い。互換性のある後継機が出ないと端末が壊れた時点で購入した本を読む権利まで喪失だ。専用端末を使わなくても事情は一緒だ。著作権保護がかかった特殊なファイルは暗号を解除するための仕組みが必要だ。それをサービス側で管理しているのであれば、認証サーバが止まったらPC上のファイルも読めなくなる。専用のローカルアプリで読むような場合も寿命はある。PCを入れ替えたりOSのアップデートを行った場合にアプリがアップデートされなければ動かなく可能性が高い。

 電子書籍を買うとしたら購入先は限られる。Amazon kindle、Google play、Apple iTunes のどれかだろう。プラットフォーム・ネイティブな端末やソフトが使えなくなる心配がない。

 しかし、「地球書店で購入した金額分のポイントを電子書籍書ストア『コミックシーモア』のポイントで進呈」というのは、「買ったものはダウンロードできたんだからあとは知らん」とした楽天に比べれば良心的だが、ユーザにしたら「コミックシーモアだっていつ終わるかわからん」だろう。

スマホ向け電子書籍ストア「地球書店」終了 購入代金を「コミックシーモア」ポイントで返金 – ITmedia ニュース
 NTTソルマーレは、スマートフォン向け電子書籍ストア「地球書店」を3月31日に終了する。希望者には、地球書店で購入した作品金額分ポイントを、同社が展開する別の電子書籍ストア「コミックシーモア」のポイントで進呈する。

 2011年にiPhone、iPad向けに開始したサービス。現在はGooglePlay、au Market、LG Worldでも展開している。

 3月31日午前10時のサービス終了後は、サービスへのログインや作品の新規購入はできなくなるが、購入済みの作品の閲覧は可能。購入済み作品の再ダウンロードは、6月30日まで可能だ。

 3月31日午前10時までに申し込めば、1月31日午前11日までに地球書店で購入した金額分のポイントを、スマートフォン/PC/タブレット向け電子書籍書ストア「コミックシーモア」のポイントで進呈する。

本:錯覚の科学

錯覚の科学 まず、この動画を見ていただきたい。この実験を行った科学者が書いた本がこれ。「脳は進んでだまされたがる」や「超常現象の科学」に連なる人間の認知・記憶の限界や特徴について実例を元に詳細に語られている。

  自分は、「錯覚」という言葉に「とりちがえた記憶」といった印象があるが、ここで語られる「錯覚」はもっと広い概念だ。「自分が正しいと記憶し、思い込んでいることが自分で思っているほど正確ではない」ことが繰り返し実例を元に説明される。

 一般人が錯覚を意識することなく自信満々に生きていられるのは他者の検証に晒されていないからだと思い知らされる。

エントリが長くなりすぎるので引用は koukoku_no_ura Wiki 錯覚の科学にした。これはほんの一部なので、amazon で「錯覚の科学」を買って全文を読んで欲しい。

 また、この中の一部に、ワクチン陰謀論をブラックホールに叩きこむような実例があるが、それについては別にエントリを起こす。

春のような一日 RX3 で散歩

 Wilier のハブのメンテをするのが面倒なので RX3 で散歩。昼間にクロスを乗ることは少ないので、どんな服にするか迷う。迷ったあげく、通勤のときの服とほとんど同じ耐寒レベルにした。これが完全に裏目。暑くて困った。先週も同じようなことを書いたがそれ以上に汗だく。

 できるだけ強度をあげないように平地を選んでゆっくりと Foursquare でチェックインしながらゆるゆる走ってきた。しかし、我が家は山の上なので家に帰るには三田から150m近く登らなければならない(下の白い線)。帰ってすぐにベースレイヤーとミッドレイヤーまで選択しなければならなかった。こんなに暖かいと寒さが戻った時に辛そうだ・・・

 午後は図書館に行って、「錯覚の科学」を再び借りた。図書館でiPadに転記したかったが、受験生がいるので机は使えなかった。

 因みに、この本が電子書籍化されたら iPad に入れておきたい。

HR log

北条かやさん、ちょっとくらい調べよう|「売れない電子書籍、ライバルは中古本?」

 japan.internet.com の元記事を見ればこの記者の分析がアホなのはよく分かる。japan.internet.com のページも統計調査の結果としては不十分だが、販売用の見本だから調査自体について批判するのは見当違いだろう。この調査については別のエントリに書きたい書いた

 記事の前半部は取るに足りないアホ分析。北条かやさんはjapan.internet.com の調査を遡って確認しなかったのだろう。その根拠は下の表を見れば分かる。「読みたくない人の率」は一貫して増えているわけではない。傾向はほとんど読み取れない。
電子書籍意識調査

電子書籍意識調査 電子書籍の普及が進まない理由のひとつに古本を持ち込んだのは正しい。出版社の売上だけで出版不況を論じている多くのマスコミよりはましだ。

 しかし、これを電子書籍が普及しない理由にするのは間違いだ。それは右のグラフを見れば分かる。「電子書籍を読んだことがなく、今後も読まない」と思っている 492 人のうち電子書籍が高いからという理由を挙げているのは 10.2% 50人しかいないからだ。電子書籍を買わない理由として「そもそも書籍/雑誌を読まない 25% 125人」の半分以下だ。しかもこの調査項目は複数回答だ。複数回答で10%程度しか支持を得ていないようなことは解決すべき大きな課題ではない(このグラフにはもっと興味深い意識がありそうなので別エントリに書きたい)。

 Amazon の中古本流通について調べたことがあってそれを書きたかっただけだろう。また、表題を付けた人間がアホなだけかもしれない。

売れない電子書籍、ライバルは中古本?EconomicNews(エコノミックニュース)
2013年11月03日 16:05
「電子書籍元年」と言われた2010年から3年経つ。だが紙の本をおびやかすほど、電子書籍が普及しているかといえば、答えは「否」だ。それどころかこの2年間で人々の電子書籍に対する関心が低下していることが、インターネットコムとgooリサーチの調査で明らかになった。
続きを読む 北条かやさん、ちょっとくらい調べよう|「売れない電子書籍、ライバルは中古本?」

電子書籍調査定点観測をウォッチする夜

 興味深い調査だ。調査自体は安直なネットアンケートでしかないが(金を払えば見せてくれるのかもしれないが)、同じ調査項目を定期的に行っていることは評価できる。

 「電子書籍経験者」と「電子書籍非経験者の内読みたい意向のある人」を「読みたい」としているのは乱暴だ。これでは「電子書籍を読んだことはあるが今後読みたいとは思わない」人を「読みたい」にカウントしてしまう。「今後電子書籍を読みたい」と感じている人はもっと少ないかもしれない。

 調査方法に問題があるのかサンプリングに問題があるのかわからないが「電子書籍を読んだことがある」という人数が誤差と思えないくらい減っているのは謎。「読んだことがある」という人は一度でも読んだらそのまま一生「読んだことがある」はずなので、基本的に減るはずがない性格の設問だ。一回目の調査がおかしかったのかもしれない。

 後、基本的な調査結果の記事として誤差を示さないのは問題がある。また、サンプル数が少ない電子書籍端末保有者の調査は母数が20程度しかないので小数点以下のパーセントで表記するのはほとんど意味が無い。一人の違いで5%動くようなものはパーセント表記すべきではない。数字にすればもっとはっきり分かるはずだ。一向に増えない利用者と利用希望者―定期調査「電子書籍」(9)にあるグラフと印象を比較して欲しい。

電子書籍端末調査結果

 注意すべきはこの調査がインターネットのアンケートサイトで行われているということだ。答えている母集団は少なくともインターネットにアクセスしてアンケートサイトに答えるだけのリテラシーは持っているということだ。どちらかというと電子書籍に馴染みやすい層だと思われる。にも関わらずこの結果ということは、日本で電子書籍が普及するのは相当先のことになりそうだ。

「読書量>新刊書売上」|出版物売り上げ減 約30年前の水準に

書籍売上推移 ダラダラと数字が並んでいて分かりにくいので表にしてみた。記事からは2013年度に急激に下がったような印象を受けるが、右の表を見れば昨年までの傾向が続いているだけだということが分かる。ピーク時の比較で言えば去年と今年の差はピーク時の 2% に過ぎない。

 17 年かかって60%まで減ってきたのだから年間平均減少率は2%前後でも不思議はない。途中経過の情報がないのでこの記事からはどのようなカーブを描いたか分からないが、もっと急激に減った時期を挟んで減少率が減ってきているのかもしれない。

 雑誌の減少率が高いのは分かる。以前にも書いた気がするが、インターネットの充実で印刷物の雑誌の存在価値は消滅した。以前は速報性ではテレビに勝てなかった雑誌にも情報の幅広さや深さにおいてテレビを補完する価値があった。F1のテレビを見た後で数日後に発売されるF1雑誌を読むのは楽しかった。また、テレビが取り上げないような種類の情報(アメリカンフットボールの試合結果や MacWorld Expo など)について最速の情報は雑誌しかなかった。ウェブ情報はここを直撃した。テレビより広く深い情報が雑誌より短いタイムラグで読めるようになった。

 人々が雑誌で得ていた情報をウェブで読むようになったために、雑誌に出稿していた広告もウェブに流れた。雑誌出版社は売上金額の減少と同時に広告料も失った。実は、雑誌廃刊(休刊)の原因は売上の低下より広告料収入の減少の方が大きいだろう。同時に起こっているので分かりにくいが、広告出稿者の選択肢が広がったために雑誌広告に対する競争が激化したことは間違いない。雑誌とネット広告と費用対効果を比べて雑誌の広告が不利なら雑誌の売上にかかわらず広告主は雑誌広告を取りやめる。

 また、この統計が電子書籍の売上を出版物に入れているのかどうかわからない。もし入れていないのなら、売上に加算する必要がある。

 出版物業者はともかくとして、新刊書の売上と日本人の読書量とは無関係だ。読書の方法が変わったのだ。この統計は日本人の読書量を1996年は示したかもしれないが、今のものは示していない。テキスト情報を媒介するものが紙からネットになった。今ではネットでテキストを読まない人も多く残っているが、この比率は減る一方だ。30代以上の女性にもスマートフォンが普及してきているタブレットを持っている人も増えている。雑誌の売上は減る一方だろう。

 なお、紙の出版物の販売数量が減ることを「読書離れ」というのは早計だ。これについては別の機会に書きたい。

出版物売り上げ減 約30年前の水準に NHKニュース
ことしの国内の出版物の売り上げは、去年よりおよそ550億円減り、29年ぶりに1兆7000億円を下回り、ピーク時の5分の3程度にまで縮小する見通しとなりました。

出版業界の調査や研究を行っている東京の出版科学研究所のまとめによりますと、ことし国内で出版された書籍と雑誌の売り上げは推定で、合わせて1兆6850億円程度と去年よりおよそ550億円減る見込みです。
これは、昭和59年以来、29年ぶりに1兆7000億円を下回り、売り上げが最も多かった平成8年の5分の3程度にまで減ることになります。
このうち書籍の売り上げは、村上春樹さんの新作や人気テレビドラマの原作の小説など、文芸書で大ヒット作が続いたものの、全体では去年よりおよそ120億円減り、8000億円を割り込むと見られています。
また、雑誌の売り上げは430億円減って8950億円前後になるとみられ、30年前の水準にまで落ち込む見通しです。
出版科学研究所では「書籍は売れる本と売れない本の二極化が深刻だ。雑誌はネットの普及や少子化により、購入する若い世代が減っている。一方で、30代以上では女性誌などが好調で、当面は雑誌に親しんだ世代の動向が売り上げを左右する」と分析しています。

本:今さら人に聞けない疑問650

quetion650 「今さら人に聞けない疑問650」QMA DS を買った頃、参考書として読んだ本。

 内容は、クイズに向いているようなものではなく、純粋な雑学系だった。知らないことも多かったが、疑問に答えていないものの方が多かった。古本屋の100円コーナーで見つければ買ってもいい。移動中に暇を持て余すようなときにはちょうどいい。QMAの得点アップには繋がらなかった。

 この中で一つだけ記憶に残したいものがあった。

なぜ、みんなで決めると危険なのか
A社は、超ワンマン型の社長がひとりで経営方針を決定する独裁型。B社は、重役会議で慎重に議論して経営方針を決定する民主型である。

では、どちらの会社のほうが、海外進出など、より積極的な事業展開を進めるか?

 ちょっと考えると、いかにも独裁型の会社という気がするが、アメリカの心理学社ストーナーらが実験によって明らかにしたところによると、正解は民主型の会社である。

 理由は三つある。ひとつは、集団で討議すると、議論が単純化され、一見して威勢のいい意見、過激な意見が通ってしまうこと。二番目は、集団の中でリーダーシップのある人は、往々にしてリスキーな意見の持ち主に多く、参加者がその意見に引きずられるということ。そして、最後は、集団で議論すると「責任の拡散」が起こるということである。

 こうした現象は「リスキーシフト」と呼ばれているが、戦前の日本も、軍部や内閣がこうした討議をするうちに戦争のドロ沼にはまっていった。「みんなで話し合う」ことには、つねにこうした危険が潜んでいる。

紙の本をしっかり読んだだろうに・・・久保田雄城、中川雅文

DAZZROIDS  上手いタイトルだ。完全に騙されて PV を献上した。エコノミックニュースにとっては目的は十分果たしたといえる。エコノミックニュースが読むに値しないサイトで、今後 economic.jp のURLは絶対踏まないと記憶したが(まあ、ディスプレイ上の記事を読んで判断しただけなのですぐに忘れるかもしれないがwww)。

研究の妥当性

「個体差がない非常にシンプルな生理学的反応から、少ない被験者数(6名)でも安定した結果を導き出せるのがこの装置の特徴だという。」とあるが、NIRSがそのような万能機械であるという情報はネット上には無かった。ソースを示してほしい。この装置の信頼性が十分かどうかは以下の実験の信頼性に直結するのだから。(NIRS

そもそも、トッパン・フォームズという広告印刷会社が行った調査にどのようなバイアスがかかっているかは予想ができる。この調査は「印刷物のDMのほうが広告効果が高い」ことを証明するための調査だ。調査機関もそういう答えが出るように「調査」を行った可能性が高い。安倍政権が「日銀の規制緩和の効果」について行った調査結果と同程度の信頼性しかない。ということはほとんど意味が無いというより国民をだますための恣意的な結果でしかないということだ。

結果の分析

「同じ情報であっても紙媒体(反射光)とディスプレー(透過光)では脳は全く違う反応を示し、特に脳内の情報を理解しようとする箇所(前頭前皮質)の反応は紙媒体の方が強く、ディスプレーよりも紙媒体の方が情報を理解させるのに優れていること」がどのようなプロセスで分かったのか説明が必要だろう。これが証明されれば少なくとも教科書は紙本にすべきという根拠になる。

この一番重要な部分の説明がなされていないので記事の中身が全くない。

広告効果

「DMは連続的に同じテーマで送った方が深く理解してもらえることなどが確認された」らしいが、これも説明不足だ。

そして、同じテーマのDMを何回も送られたら嫌でも深く理解される(というより記憶される)だろうが、悪い印象にもつながることについて言及されていない。嫌いなDMを何回も送られたらメッセージが深く理解された上で嫌悪される可能性も有る。自分などは、同じ内容のメールを連続で送ってくるようなDMは速攻ゴミ箱で電子メールだったらフィルタで自動削除の対象にしてしまう。

こういったことはトッパン・フォームズの広告効果についてネガティブな印象につながるので書かれれない。

筆者

「筆者は「脳を創る読書」(実業之日本社刊)を読んだ。この本が説いていることが、今回の脳科学実験で検証された形になったわけである。」とあるが、あのゴミ本を読んで、こんな感想につながるとは恐れいった。あの本にはまともな論拠を示していないチラ裏しか書かれていない(ここと同レベルだ)。あんな本を読んで感銘を受けている久保田だからこんな記事しか書けないのだろう。

まとめ

とにかく、記事の内容が薄すぎてどうしようもない。実験の妥当性について検証もできない。もし本当に「同じ情報であっても紙媒体(反射光)とディスプレー(透過光)では脳は全く違う反応を示」すのなら大変な発見だ。まさか、透過光と反射光で見え方が違うので知覚のプロセスが違うとかいう程度の話ではないだろうな・・・脳の反応の仕方が違うことと理解や記憶が異なるのかどうかまで調べないと優劣は決められない。というか、そこまで分かってないんじゃないだろうか。

残念ながらこの記事はゴミでしかない。必要な根拠を全く示さずに、クライアントの都合の良い情報だけを書き募っただけだ。紙の本をしっかり読んでもこの程度の記事しか書けない久保田結城さん。おつかれさんです。もうちょっといい本読んだほうがいいですよwww

脳を創るのはディスプレーではなく紙媒体EconomicNews(エコノミックニュース)魚拓版
2013年07月28日 09:55
筆者は、自他ともに認める活字中毒で、なおかつ新しモノ好きだ。電子書籍も、今から14年前、ソニーの広辞苑などがバンドルされた電子ブックプレーヤーも購入したぐらいだ。そして3年前の「電子書籍元年」の時も、いろいろと試してみた。しかし結局、今も読書の90パーセント以上は紙媒体である。

トッパンフォームズは、ニューロ・テクニカとダイレクトメール(DM)に関する脳科学実験を国際医療福祉大学の中川雅文教授(医学博士)の監修のもと実施した。実験では、近赤外分光法(NIRS: near-infrared spectroscopy)を用いて、人がある特定の活動をするときに脳のどの部位が関わっているのかを調べることができる近赤外光イメージング装置を利用し、DMに接したときの脳の反応を測定した。個体差がない非常にシンプルな生理学的反応から、少ない被験者数(6名)でも安定した結果を導き出せるのがこの装置の特徴だという。

その結果、DMのメディアとしての特性や他のメディアと比べた優位性など、これまで実証されなかったことが脳の生体反応レベルで判明した。なかでも、同じ情報であっても紙媒体(反射光)とディスプレー(透過光)では脳は全く違う反応を示し、特に脳内の情報を理解しようとする箇所(前頭前皮質)の反応は紙媒体の方が強く、ディスプレーよりも紙媒体の方が情報を理解させるのに優れていることや、DMは連続的に同じテーマで送った方が深く理解してもらえることなどが確認されたとしている。

トッパンフォームズでは、今回の脳科学実験により判明したデータの分析をさらに進め、そこから得られた知見を今後のダイレクトマーケティング戦略策定に活用していくとしている。先日、筆者は「脳を創る読書」(実業之日本社刊)を読んだ。この本が説いていることが、今回の脳科学実験で検証された形になったわけである。(編集担当:久保田雄城)

ゴミ本|脳を創る読書 なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか

久しぶりにひどい本を読んだ。古本にも出したくないので資源ごみに直行だ。

この本がゴミなのはレビューを読んでだいたい分かっていた。これを読んだのはもっとひどい記事で賞賛に近い形で言及されていたから。「まともな本を読んでいるならこんな記事にならんやろ」と思ったが案の定この本はまともな本じゃなかった。それを確認できたのは収穫だった。

読まないほうが良いゴミなのでリンクは貼らない。

脳を創る読書
なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか
帯「書籍・雑誌など、紙に印刷された「文字」が『脳』に与える効果とは?
東京大学大学院総合文化研究科教授 酒井邦嘉著実業の日本社 2011年

P003 本書が良識ある慎重な議論の呼び水になることを願ってやまない。
>ならんだろう。こんな思いつきと矛盾だらけの本出しても喜ぶのはアホな雑誌編集者くらいだろう。

P005 この本を、地球の裏側まで旅を共にした畏友、故光森道英先生に捧げる。
>迷惑だろうなぁ・・・お気の毒としか言いようがない。

P034 アナログとデジタルの表面的な対立自体に問題の所在があるのではない。
P035 アナログとデジタルの違いだけで理解や記憶に差がでたり、脳における処理に違いがみられるなどということはない。紙の本と電子書籍の比較を、アナログとデジタルの比較に置き換えてしまうと、問題の本質が全くすりかわってしまうことに注意したい。

P036 手書きは活字より圧倒的に情報量が多いのだ。
>「情報」の意味をすりかえている。手書きだろうが活字だろうが本質的な情報。その筆者が伝えようとした情報の量は変わらない。付加されるのは別の情報だ。それこそ、問題の本質がすり替わってしまう。これは、絵を評価するときに額縁や美術館について評価するのと同じだ。旅行で美術館を訪れたときの苦労や感動、作品に見合うだけの額縁や展示室(広い展示室に一つしか置いてなかったりすること)は記憶に残るだろうし、それも絵を鑑賞する一部とも言える。しかし、それは絵画そのものの評価に加えてはいけない。画家は美術館に置かれて額縁に収められた状態で描いたわけではない。イーゼルに乗ったカンバスそのものが作者が鑑賞者に対して投げかけた課題なのだ。それと向き合うことが絵画を鑑賞するという行為だろう。額縁や美術館を作品の一部にして褒めるのは作品を愚弄するのと一緒だ。

P038 入力の情報が少ないほど、脳は想像して補うことはすでに述べたが、これとは逆に、出力の情報量が多いほど、脳は想像して補うことになる。人に伝えたいという思いは同じでも、電話や会話のように表現の自由が増せば増すほど、相手がどのように受け止めているか、自分の意志がうまく相手に伝わっているか、といったことを創造力で補いながら話す必要があるからである。(略)
このように、言葉を通して他人と話ができるためには、聞くことと話すことの両方に想像力が必要なのである。自分と他人の間でこの想像力に開きがある場合には、話が通じない事が容易に予想される。「馬の耳に念仏」という状態は、相手に想像力が足りないために起こるわけだ。
さらに言えば、相手に自分と同等の想像力が備わっているときに限って、「話せばわかる」ということが真実になる。
また、自分と相手が共通の価値観や問題意識を持っているときには、深い意味で本当にわかり合えることだろう。
脳の想像力を十分に生かすために、できるだけ少ない入力と豊富な出力を心がけるとよい。
もっとわかりやすく言えば、読書と会話を楽しむことが一番だ。これこそがもっとも人間的な言語の使い方であり、創造的な能力を活用する読書の最善の方法だと言えよう。
>つっこみどころが多すぎる。読書をするときに電子書籍より紙の本がいいという趣旨と全然噛み合っていない。何がいいたいのかさっぱりわからない。それは置いても、矛盾した点がある。
入力の情報が少ないほど想像して補わなければならないから「創造的な能力を活用する読書の最善の方法だと言えよう。」というのなら、「言葉を通して他人と話ができるためには、聞くことと話すことの両方に想像力が必要なのである」と矛盾するだろう。だって、会話の情報量が多いなら、受け取るときには豊かな情報があるから想像力は必要がない事になる。
「「馬の耳に念仏」という状態は、相手に想像力が足りないために起こる」という態度もおかしい。相手の表情や態度返事を見て相手が理解しているか聞いているかを想像して話してやる事が必要だろう。馬耳東風の人間を相手にして「こいつは想像力が不足している」という態度のほうが想像力がないだろう。本当に能力がある人なら子供にでも分かりやすく語れるはずだ。自分と同等の価値観や問題意識を持っていない相手と話しないようなのはそれこそ相手の気持を推し量れない想像力欠如野郎だろう。

ここらか50ページ全く電子書籍と紙書籍の問題と無関係な話。面倒くさいので突っ込まない。

P087 直線は、人間固有の能力の反映であり、人工物の象徴である。
>いやいや、鉱物や雪の結晶見てよ。直線だらけだから。それに、この本の中でもフラクタル扱ってたやん。フラクタルの最小単位は直線だよ。それに、直線も曲線なんだよ。それは数学的に証明されている。

P088 「円」を描く能力である。自然界で見える円といえば、太陽や月くらいであろうか。・・・地球上で円が描ける動物は人間以外にいない。
>いやいや、いっぱいあるじゃん。植物の花とか果実なんか円のものは多いだろう。水滴を平面においても円になるし。円や球は合理的で自然な形といっていい。むしろ、ほっておいたら円になるのが自然なんだ。だから天体は球なんだろう。動物でも丸い巣を創るものはある。卵だって上から見たら人間がフリーハンドで描く円より丸いだろう。

P089 想像力が働かないと、記憶するのが難しくなる
>ふつうのコトが書かれている。間違いではないと思うが、新しいことは全くない。そして、電子書籍と無関係。

P109 (文字コードの限界について)この点だけをとっても、電子書籍によっては限界が現れる。・・・統一規格がないと・・これが文字のきわめて豊かな日本語にとって一つの障碍となっているのだ。
>UTF-16や超漢字など克服への努力はなされている。漢字が増え続けない限り克服される課題だ。単に過渡期の問題でしかない。紙書籍が電子書籍より優っている本質的な問題ではない。

P118 電子書籍の違和感はどこに原因がある
>違和感はない。様式って何?それは単に、そういう予備知識があるからに過ぎない。最初から電子書籍で育てば違和感など存在しない。つまり、違和感を持つのは比較対象を知っているからに過ぎない。つまり電子書籍の本質的な問題ではない。作者も書いている「これは過去の経験に基づいて脳に自動的に作られる鋳型のようなものだ」と。だから、鋳型がなければ違和感などない。

P121 読書量が多ければ多いほど、言語能力は鍛えられる。
小さいときに想像力を十分身につけないまま大人になってしまったら、どうだろう。文字通りの意味がとれるならまだしも、思い込みだけで読むようになったら、その間違いを決して自分では修正できない。そして、自分勝手に書いた文章を、他人がどこまで時間をかけて読んでくれるだろうか。相手は自分の文章をどう受け取るだろうか、という想像力こそが必要なのだ。自分の真意を相手に伝え、相手の心を動かすような文章を書くのは本当に難しい。
>全面的に同意するが、紙書籍の優位性と無関係。電子的なテキストのやりとりでも十分身につけられるだろう。

P123 マジックは人の想像力がなせる不思議
>同意できる内容だが。「人はだまされたがる」とくらべて浅薄な内容でしかない。また、紙書籍の優位性と無関係。

P124 想像力が言語コミュニケーションを円滑にする
>題名については同意だが。これも紙書籍の優位性と無関係だ。そして、問題意識があさっての方向を向いている。何がいいたいのか分からない。ここでは、「メールは情報量が少ないから誤解を生じやすい」としか言っていない。「書き手が想像力を働かせて情報を盛り込めば誤解は防げる」とか「読み手は想像力を働かせて行間を読め」なんて、当たり前であって、読書の方法とは無関係だろう。それに、「情報量が少ないほうが想像力を鍛える」という意味で言えば、曖昧なメールのほうが脳のトレーニングとしては良いということになるだろう。なのに、「メールだけですまそうとせず・・」って、繰り返しになるが、何がいいたいのか分からない。筆者は想像力を伸ばすための読書について紙書籍がいいということを書きたいのではないのか?

P132 読書を通して想像力を培うことができれば、言語能力も同時に鍛えられる。すると、言語能力に裏打ちされた思考力が確かなものになる。これが本書の「脳を創る」という意味である。
>だったら、上のメールの話なんか要らないだろう?後、紙書籍の優位性と無関係だ。それに、情報が少ない読書が想像力を創るといいながら、電子書籍には紙書籍の持つ情報がないからダメというのは矛盾しているだろう。情報量が少なければ少ないほどいいのなら電子書籍のほうが良いといえる。

P134 コンピュータの画面上では、文字と画面の位置関係は一定していない。長い文章に慣れば、必ずスクロールする。・・・紙の上では、文字と紙の位置関係は常に一定であり、各ページごとに行きつ戻りつ参照できる。・・・紙は画面よりも注意を向けやすい対象なのだ。
>全く本質的な問題ではない。大体、スクロールして読む電子書籍なんて見たことがない。kindle でも iBooks でもページメタファが使われている。その後の、認知の実験についても全く無意味。電子書籍でレイアウトを固定することは簡単だからだ。この実験は有効かもしれないが紙書籍の優位性とは無関係だ。この実験を引用した意味が分からない。

P142 電子辞書ではあまり働かない量的な感覚が、紙の辞書では有効に使える。漢和辞典などはその典型で、使えば使うほど、ある一つの部首を持つ漢字がどのくらいあるかが、辞書の実際のページの厚みとして感覚的にわかってくる。すると、ある部首の何画の漢字ならこのへんに載っている、というような勘が働くようになる。
>それがどうした。漢字(や外国語の単語)の意味を知るという目的達成と関係がない。これは、鈍行の旅を進めるようなものだ。鈍行の旅にはど運行の旅でしか味わえない経験があるだろう。だからといって、出張の時にも鈍行を使えとは誰も言わないだろう。紙の辞書を勧めるのは、出張にも鈍行を使えというようなものだ。

P143 電子書籍はここが問題 電子書籍では手がかりが希薄である。・・・全体のどのあたりを読んでいるかを把握しながら読むことができる。・・・
紙の本では、1行開けるとか、章立てによるページ替えというようなレイアウトにも明らかな情報があり、電子化の際にこうした情報を落としてしまうと、そうした視覚的な印象や手がかりが失われる。
P145 電子化されるときの問題点とは:辞書と本文を同時に表示できないこと、インデントがない作品があったこと、OCRで取り込んだときの誤植。
>これらは全て電子書籍化するときに発生した問題であって、ちゃんとした電子書籍を作れば解決されることだ。電子書籍の本質的な問題ではない。そもそも誤植なんて紙の本にも存在する。紙の本をOCRで読み込んで電子書籍にするという行為自体が過渡期のことで、最初から電子データで作家が書いて編集し作成した電子書籍なら、紙書籍の誤植と同程度以下の確率でしか誤植は発生しないだろう。少なくとも手書き文字を出版物用の原稿データに入力するときの転記ミスの可能性分減る。

P147 紙の本には独自の楽しみがある
>物理的なフェティッシュとしての楽しみであって、作者が書かんとしたことを読者に伝えるためのメディアとしての「本」の役割ではない。「書籍・雑誌など、紙に印刷された「文字」が『脳』に与える効果」と関係がないだろ。そもそも、「積ん読」なんて読んですらいない状態だろう。紙の本を買ってきて積んでおけば想像力が増えるのか?

P149 紙の本には「初版本」という代えがたい存在がある
>前章と同じ。初版であるかどうかは作者と読者との関係の中で何の価値もない。同じ版を再販した場合には情報は同一だし、再販時に作者が手を加えたとしたら、より作家の伝えたいことを盛り込んだのは再販版だろう。情報の価値としてはそちらのほうが上だ。

P156 手書きの手紙と共通する紙の本の新のよさとは たとえ全く同じ文面だったとしても、メールであれば、あまり印象に残らなかっただろう。
>全然主題と関係の無い話題だ。

P157 授業中に手書きでノートを取る意味はなんだろうか?
>プリントよりメモを取るほうが記憶に残るというのには賛同するが、手書きかどうかは関係がない。まして、出版物の配布方法としての電子書籍と紙書籍の問題とは全然無関係だろう。

P158 囲碁や将棋でも、基本のトレーニングは、一手一手自分で手を動かして盤上に石や駒を並べるところから始まる。
>こんなもん完全な偏見だろう。いまの棋士はPCで棋譜の吟味を行う。考える手段として石や駒を手で並べることとPC上の駒を動かすのと差はない。PCモニタ上の盤面だからといって考えられないなどというのはそれこそ「想像力の欠如」だろう。

P159 高価な石や駒を見てもわかるように、縞や木目、そして掘られた文字の一つ一つに個性がある。愛着を持って石や駒を使い込むほどにその人の思索の家庭が脳に刻まれていく。それは、紙の本でも同じことである。一冊一冊の個性的な本を通して考えた過程は、「脳を創る」ことになるのだ。
>前の方で「入力は少ないほうが想像力を鍛える」といっていた事と矛盾している。また、突然「紙の本でも同じことである」とあるが、なぜ同じなのか全く分からない。印刷物は手書きよりはるかに情報量が少なく印象が少ないのだろう。手書きの文書と高価な石や駒が同じなら、電子かどうかは別にして、マスプロダクトの書籍なんて無個性なメールと同じじゃないのか。
高価な石や駒にこだわるのも嫌味だ。高価な石や駒でないと「脳を創ること」ができないのか?安物の折りたたみの盤の持つ情報は高価な盤より少ないのか?今の名人達は高価な石や駒、盤で練習したから強くなったんだろうか?

P159 電子書籍で手軽に本が買えて読める文化ができた一方で、初版本が復刻されたり自筆原稿本が出版されて人気を読んでいるのはなぜだろうか。その背景には、急速に進んだ電子化の方向とは逆に、よりオリジナルに近い素のままの情報への渇望が根強く存在するためかもしれない。
>「素」というのはプレーンなテキストデータだろう。それこそが作者が紡いだ作品の本質だろう。紙の触感や重さ、表紙の材質や絵などは作者が作ったものではない。飾りだ。そんなものをありがたがるのはだたの懐古趣味でしかない。読書を作者の書いたことを読み取り味わうという行為とするならそれ以外は空虚な付加価値に過ぎない。

P162 「電子化」で脳が進化することなど、ありえない
>この主張には賛成だ。「進化」を種の淘汰による環境への対応という意味ではだ。そういう意味では紙の本だろうが高価な石や駒だろうが一緒だ。読書を通じて能力を伸ばせるのなら、紙媒体だろうが電子書籍だろうが同じように伸ばせるだろう。

P162 (外国語の習得について)考えようという意識のある人には、映像に頼らず、音声や活字だけの作品を楽しむほうが有意義だろう。
まずはラジオやCDを通して音声だけに集中する学習方法のほうがよい。
音声になじむようになったら、今度は活字の番だ。・・・また、海外の映画やドラマを言語の字幕で繰り返し見ることで、音声と活字に同時に触れる方法もおすすめである。
>あれ?前の方では映像に頼らずと書いていたのに最後の方では映画やドラマを視聴することがおすすめされているよ。それに、外国語の会話を覚えるには会話が一番だろう。会話というのはこの本の前半にあったように大量の情報を受け渡しする。子供が親や兄弟との会話から言語を学習するときにはこれに頼る。これによって数年でマスターする。音声だけや文字だけのトレーニングなんて不要だ。書くのも面倒くさいが電子書籍の話と関係ない。

P168 朗読は心に響く読書である 東日本大震災が起きた直後には、俳優の渡辺謙さんが『雨ニモマケズ』の朗読をユーチューブで発信し、多くの人に勇気と希望を与えたことが記憶に新しい。よく知っている作品でも、朗読で聴くと本当に情感豊かで味わい深いものが多い。
>あれえ?音にすると情報量が増えるから脳を創ることにつながらないんじゃないの?情報量が少ないほうが脳を創ると言ってたのと矛盾しているでしょ。

P176 学習支援プログラムでドリルだけをどんなに解いても、わかったことにはならない。
>それはそうだが、紙製のドリルならわかったことになるのか?ならないだろう。ここで批判しているのは電子書籍版のドリルの問題ではなく、学習方法の話で完全にすれ違っている。
ついでにいうなら、ドリルでとくことで身につけた知識で処理できることはそれで十分だ。九九を覚える方法にDSを使おうがノートに書こうがなんて問題はない。九九を使って応用的な問題を解く基本ができればいい。そのためには繰り返し叩きこむことが必要だ。これは言語の習得と一緒だ。トレーニングレベルの学習と応用力の研究とをごっちゃにして論じている。この人想像力が足りないんじゃないの?

P180 明らかな退行現象をこのまま進めて良いのか 文字を書くことを面倒くさがるようでは、書字の先に積み上げられていくであろう知的作業のすべてが雑になってしまう恐れがある。
>ない。関係ない。手書きするのは面倒くさい。手書きしたメモをビジネス文書にするために転記する時間は無駄でしかない。キーボードで知的作業が雑になるのはスキルが低いからだ。そして、電子書籍とは無関係の話だ。

P181 日本語入力には必須の「かな漢字変換」もまた、思考とは直接関係ないプロセスだから、思考の中断を生み、集中力を減退させるという負の効果もある。文字を書くほうがはるかに自然な表現なのだ。
>ない。漢字を思い出しながら手書きするよりはるかにスムーズに入力できる。そもそも文字を書くことを人類が日常的に使うようになったのは数百年のことだろう。まだまだ人類はこれに対応した状態に「進化」はしていないのだろう。まだ過渡期なのだ。そんなときに前のステップに拘泥するのは愚の骨頂だ。

P184 インターネット上の文章を自分のレポートにコピーして提出した学部生・・・明らかな剽窃行為であり・・・日常的に使っているコピーに麻痺してしまって罪の意識が希薄だったのだろう。
>このセンセーは論文もこんな希薄な予想や偏見で論文を書いているんだろうか?推測だけで全然説得力がない。手書き時代にだってレポートのコピーはあったし、ウソの論文だってあっただろう。昔は本を探して手写したのがインターネットからコピペで済むようになっただけの話だ。手書きにしたからといって本質的な解決にはならない。そもそも電子書籍とは無関係の話だ。

P188オーディオの電子化でなくしたものがある。
>ここでも、周辺情報やアナログ賛美。昔のレコードでは曲間にプツプツというノイズが常にあって不快だった。CDにはない。プツプツなどというのは元の演奏にはないものだからだ。それに、蓄音機の音が今のCDより良いなどということはない。そんなものは、その気になればCDから抜いた音にランダムノイズをかぶせたりイコライザー処理で再現できる。蓄音機はCDクオリティの音は出せない。トイカメラをありがたがるのと同じだ。悪くはないが本質ではない。電子書籍とは無関係の話だ。
大体、蓄音機もCDも再生音なのだ。管弦楽団の生の音圧に勝るものなどない。

P191 写真撮影の電子化は芸術性を損なう場合がある デジカメに大容量のメモリー・カードを入れてしまうと、フィルムを交換した時のように、「さあ、撮るぞ」というモチベーションは持続しにくい。フィルムは、限られた枚数しかとれないからこそ真剣勝負なのだ。そういう緊張感がデジカメでは失われがちである。
>フィルムの残枚数を気にするのは写真に集中できてないことだ。アナログ時代だってプロは一枚の写真をものにするために何十本ものフィルムを使っていた。36枚取りのフィルムを一本入れて「さあ、勝負」なんて写真家アナログ時代だっていなかっただろう。
それに、撮影可能枚数が増えたからといって集中力が削がれてしまうのはカメラマンの能力不足でしかない。フィルムカメラを使ったことのない写真家も現れる。彼らはそれを当然として受け止めて写真芸術を作るだろう。というより、すでに写真展とかに出品される写真も大半がデジタルカメラだ。だからといって以前より芸術性が落ちただろうか?この人、知らないなら黙ってたほうがいいよ。
後で処理できることについても、フィルムカメラは写真屋さんがやってくれていた(激安現像チェーンではオート)だけで、デジカメは自分でできるようになっただけだ。自分が見た(感じた)画像に近づけるための操作が自分でできるのは素晴らしいことだ。フィルムカメラがそうであったように、デジタルカメラでもプロは現像にも力を注ぐ。「デジカメは撮影半分、現像半分」と書かれていたプロがいた。

P194 白黒だからこそ表現できる、高い芸術性や精神性があることも確かだ。それを見た人が想像力で被写体の意味や写真家の意図を補うから、色などの要素が除かれても、その作品が芸術になるのである。写真家が本質を絞って表現するのも、想像力で補って鑑賞するのも、ともに人間的な創造性を高め、「脳を創る」ことにつながるのである。
>デジタルカメラでもモノクロで撮れるし、そういう写真を撮ってる写真家もいる。デジタルとアナログの話ではない。

P195 ユーサフ・カーシュの写真を見ていると、そのことがよく分かる。・・・著名人たちの写真を大判の白黒フィルムで撮った(少数ながらカラー写真もある)。・・・たった一枚の写真で、その人となりから意思の強さや哲学までが表現されている。カーシュ自身がその人と対峙し、語らい、そして人柄に惚れ込んだからこそ、このような写真がとれたのだと思う。モデルになった人たちも、カーシュに心を許していたからこそ、自然な表情をレンズに向けられたのだろう。写真とは、写真家と被写体、そして写真家と鑑賞者の対話なのである。
>白黒フィルムで撮ったと言っているが、それしか無かったのではないだろうか。「白黒だから」表現できたのかどうか?
「たった一枚の」と書いているが、撮影したのが何枚かは分からないだろう。伝わっている代表作が一枚しかないのとシャッターを切った回数が一回というのとでは全然意味が違う。この人は前に、デジカメは沢山とれるから作品のレベルが上がらないと書いていた。
「写真とは、写真家と被写体、そして写真家と鑑賞者の対話」というのは賛同する。そして、これを文章にも当てはめるべきだと思う。「読書とは、作家と作品、そして作家と読者との対話」だ。作家と読者の間にあるのは作品(このばあいテキスト)だ。写真の額縁ではない。

本:「ヤバい統計学」は全然ヤバくない。

http://ecx.images-amazon.com/images/I/41PhpxvzNxL._SL160_.jpg Kindle を日替わりセールで買っていたヤバい統計学をやっと読み終わった。気温に正比例して電車での読書の時間が減ってしまうから時間がかかってしまった(読み終わってからもだいぶ経っている)。

 胡散臭い感じのタイトルで定価の紙本だったら絶対に手を出さなかっただろう。しかし、原題の “Numbers rule your world” が示すように中身は至って真面目な本だった。統計学の教科書ではないので公式や数式はないが、「統計学者はこんな視点でものを見る」ということが例を引いて丁寧に書いてある。多くが実生活上の非統計学者の直感と相容れないものも多いが、説明されるとなるほどと思わされるもので興味深かった。

 ディズニーワールドの待ち時間を最短にする回り方を研究している統計学者とか待ち時間を負担に感じないようにさせるためのディズニーの統計担当者、高速道路の運送効率を高めるための方策やそれに対するドライバーの意識、飛行機の安全性に対する統計学者の意識などは特に面白かった。

 そして、ドーピング検査はこの本が出てからもランス・アームストロングを始め、多くの選手が自身が黒であったことを告白しており、複雑な気持ちになる・・・