本:おしゃべりな宇宙 不自然とは

おしゃべりな宇宙―心や脳の問題から量子宇宙論まで 「おしゃべりな宇宙―心や脳の問題から量子宇宙論まで」を読んだ。興味深い話題満載だが、特に興味深い所を引用する。ぜひお買い上げいただきたい(自分は図書館で借りたが)。

 このエントリでは「自然」に対する鋭い洞察に触れることができた。「自然」を無条件に礼賛する姿勢はここでも批判的に取り上げたと思う(未来の生き物)。

 大半の点で前から感じていたことだが、一つ大きな気付きがあった。それは、「地球の前住人である微生物が酸素と呼ばれる「毒」ガスで地球を汚染したからこそ、その酸素のなかで繁栄する私たち人類とその祖先は進化できたのだ。」という点。よく考えれば当然なのにこの発想はなかった。地球大進化で地球ができてから早い段階で栄えた種が酸素が増加するに連れて絶滅したという話を聞いていたのにだ。

 次の「今のこの時点が別に特別だというわけではない。私たちは皆、どこからか来てどこかへ行く途上にあるのだ」というのも同感。関心空間に書いた漂流教室への批判と同じ視点だ。そして、環境キャンペーンに感じる胡散臭さもここから来ている。彼らが何を維持しようとしていて、何のために維持しようとしているのかを明らかにせずに現状や現在の人類を特別視する考え方には違和感がある。マーク・トゥエインが「”神様の特別な思し召し”この言葉を聞くと、私は吐き気がする。人間がいかにも重要な存在で、神が軽薄な存在だと言ってるかのように聞こえるからだ。私の考えでは、この無数の天体は、神の動脈の中を漂う血球にしかすぎず、我々人間も、その血球にすくい、それを冒し、それを汚染している極微生物にしか過ぎない」と述べたのと同じだ。

 最後に、遺伝子組み換え食品についても、簡潔にまとめられている。自分の考えもこれと同様。「遺伝的組み替えの真の問題は、それが安全か、有効か、その利益はリスクを犯すほどの価値があるか、ということである。」遺伝子組み換え食品を全否定するのは、品種改良を否定するのと同じくらい愚かなことだ。

P308 不自然さ
 これほど豊かな自然界の誘いを無視できる人がいるだろうか? 草の輝き、かぐわしい牧草のかおり、ほとんど罪深く感じられるほど柔らかな薔薇の花びら。日曜日の朝市のうっとりするような匂いや、公園で戯れ、入り乱れて駆けまわる犬たちの匂いには、どこかしら心を惹かれるものがある。木目の美しい床や、暖炉、海の眺望ほど、家の売れ行きを早めるものはない。

私たちが人工品を嫌うのは、ごく自然なことだ。人工品を見ると、まるで肌を逆撫でされたような気持になってしまう。だから、最近増えてきた遺伝子組み替え作物を、人々が不安に感じるのも決して不思議ではない。それに対する抗議運動はヨーロッパ中のあちこちに芽生えており、フランスではそうした産物を「フランケンフード」と呼びだすありさまだ。そのような遺伝子は、トウモロコシを害虫から守るのかもしれないけれど、やっぱり細菌の遺伝子で「質を向上させた」トウモロコシを食べるのは、どうも気色が悪い。

ただし、私たちは次のようなことも念頭におく必要がある。つまり、ダリアや飼い猫はもちろんのこと、農夫の露店から私たちを招くうまそうなメロン、トウモロコシ、トマトなどは、完全な「有機栽培」と銘打ってあっても、どれ一つとして「自然」なものではありえないのだ。異種交配による遺伝形質の操作は、別に今はじまったことではなく、ほとんど文明の歴史ほど古い。白桃だって、私の台所の戸棚に入っている「自然食品」というふれこみのシリアルが木に実るわけでないのと同じに、「自然」な果物とは言えないのだ。パンやワイン、それにピーグル犬のどこにも、自然なところなどありはしない。

 しかしそれを言うなら、この私たちにも「自然」なところはちっともないのである。実のところ、地球の前住人である微生物が酸素と呼ばれる「毒」ガスで地球を汚染したからこそ、その酸素のなかで繁栄する私たち人類とその祖先は進化できたのだ。

これを聞いて頭がこんがらかってくるとしても、それはもっとものことだ。おまけにそれは生き物の世界に限ったことではない。たとえば、ほとんどの人はプラスチックが絶対に「不自然」なものだと言う。しかし、化学者のロアルド・ホフマンの指摘どおり、プラスチックの大部分は石油製品からできており、その石油は太古の植物が何百万年ものあいだ地球の臓腑の中で醸成されたあげくできあがったものなのである。したがって、ある意味でプラスチックは木に実ったことになる。

 物理学者でさえ、長いあいだ「自然」の法則をめぐつて混乱を続けてきた。たとえばアリストテレスは、雲のように軽いものが空に浮かび、岩みたいに重いものが沈むのは、「自然」だと思いこんでいた。また天体が輪を描いて動くのも「自然」なことだと信じていた。後の物理学者たちは、岩を地に、惑星を軌道に引きつけているのが、重力だということに気がついた。岩も惑星も「自然」のまま放っておけば、ただあてどなく宇宙にフワフワ浮かぶだけなのだ。それからさらにのち、アインシュタインは落下する物体や軌道上を回る惑星が、湾曲した四次元の時空に刻まれた「自然な」経路にしたがって動いているだけだということを発見した。一事が万事このとおりである。

 今日物理学者たちは、宇宙を構成しているいわゆる素粒子に不自然なところを見つけはじめた。地球上のすべてのものは、お馴染みの電子、陽子、中性子からなっている。けれどこうした粒子は一つ残らず、もっと重い「従兄弟分」をもっているのだ。それがなぜなのかは誰も知らないけれど、とにかくこれは不自然に見えてしかたがない。こうした「余分の」粒子の第一号「ミューオン」が発見されたとき、物理学者Ⅰ・Ⅰ・ラビが「だれがこんなものを注文したんだ?」と言ったのは有名な話だ。それ以来、物理学者はいまだにその間いに答えようと努力を続けている。アインシュタインによると、彼が最も答えたいと思う質問は、宇宙を創造したとき神にはもっとほかに選択の余地があっただろうか、ということだった。そもそも私たちはミューオンをもつ必要があったのか? 重力がもっと強いことがあったのだろうか?言い換えると、自然の法則自体、世界の「自然な」特徴なのだろうかということだ。それとも別な宇宙であれば、自然の法則も異なっていたのだろうか?

 何が「自然」であるかは、むろんその前後関係による。カウンターの上の角氷が溶けるのは自然だけれど、北極で溶ければこれは不自然だ。アメリカ大陸を最初に占領したヨーロッパ人にとって「自然」だった病気も、「自然」な抵抗力がなかった原住民のあいだでは、死病となって広がったのである。

 また数学にすら「自然」な数と「不自然」な数がある。好んで自然数(正の整数として定義される)ばかりに偏っていようものなら、私たちは代数は言うに及ばず引き算さえもできなくなってしまう。

 でもこのようなことと、遺伝子を組み替えた食べ物と、どんな関係があるのだろうか?私たちが世界的な農業関連産業の動機や方法に疑いの目を向け、進化をいじくりまわして未知の遺伝的雑種を野に放つ危険を懸念するのは、おそらく賢明なことだろう。

 ただし自然とか不自然とかいうことが肝心なのではない。遺伝子の組み替えは、常時起こっていることなのだ。恋に落ちるのも、種を遺伝的に改善する自然の方策だと言える。それをコントロールするのが、たち騒ぐホルモンであろうと、試験管のなかでこしらえた誂えのDNAであろうと、どこが違うというのだろう?

 われわれは進化する、ゆえにわれわれは存在する。その他のすべての植物も動物もまたしかり。トウモロコシであれ、人類であれ、犬であれ、どんな種の歴史であろうと、今のこの時点が別に特別だというわけではない。私たちは皆、どこからか来てどこかへ行く途上にあるのだ。遺伝的組み替えの真の問題は、それが安全か、有効か、その利益はリスクを犯すほどの価値があるか、ということである。

 もしかすると神は、宇宙の進化をどう指揮するかについて、選択の余地がなかったのかもしれない。けれど人間にはその余地があるのだ。

予防接種反対派に読んで欲しいテキスト|はしか大流行の陰に迷信あり「錯覚の科学」

はしか大流行の陰に迷信あり
 二〇〇五年の五月二十九日、親戚を訪ねてシンシナティにいた六歳の少女が病院にかつぎ込まれた。脱水、発熱、発疹の症状があり、入院後数日は人工呼吸器の装着が必要だった。血液サンプルがオハイオ州衛生研究所に送られ、検査の結果、最初の所見どおりと診断された。はしかである。

 はしかは、子供がもっともかかりやすいウィルス性感染症の一つだ。はしかにかかった人がくしやみをすると、同じ部屋の空気を吸ったり飛沫がついた物の表面にふれたりしただけで、感染する恐れがある−ウィルスは二時間ほど力を失わない。はしかを見分ける最初の手がかりが発疹だが、はしかは発疹がでる四日前から感染力をもつ。しかも、はしかにかかっても最長二週間まで、症状がまったくでない場合もあるのだ。

 症状が出るまでに時間がかかること、ウィルスのキャリアが自分の感染を知るまでに病菌をまき散らしてしまうこと、ウィルスそのものに感染力が高いことこの三つは伝染病には完璧な組合せである。一九七〇年代まではしかは猛威をふるい、アメリカ国内ですら子どもが感染しないほうが珍しかった。現在でも世界の多くの場所で、はしかは依然として脅威であり続けている。世界保健機関(WHO)の調査によると、二〇〇七年の一年間に全世界で二十万人近くがはしかで死亡し、いまだに子どもの死亡の最大原因になっている。

 はしかが引き起こす深刻な合併症には失明、重度の脱水症、下痢、脳炎、肺炎などがある。適切な健康管理がなされず、栄養不足になりやすい発展途上の貧困国では、はしかの発生が悲惨な事態を招きかねない。WHOはこうした地域ではしかが蔓延した場合、死亡率は一〇パーセントにまで達すると予測している。健康管理のシステムが行き届いた国々では、はしかで死亡することはめったにないが、ぜんそくなどの持痛がある場合は深刻な合併症につながるおそれがある。

 はしかの撲滅は、ワクチンの組織的な予防接種が功を奏した輝かしい物語である。現在アメリカで、はしかがめったに発生しなくなったのは、はしか、流行性耳下腺炎、風疹の三種混合ワクチン(MMR)のおかげだ。就学前の子どもたちにMMR接種を義務づけた結果、二〇〇〇年にはアメリカ全土ではしかが大幅に減った。伝染病の効果的な予防には、ワクチン接種を受ける人の割合が人口の九割を占めることが必要だが、アメリカはそのハードルを十年以上前に越えた。ではなぜ、シンシナティで六歳の少女がはしかにかかったのだろう。

 はしかは、予防接種が現在でも義務化されていないヨーロッパの一部でまだ蔓延しており、アフリカやアジアの一部では大流行が珍しくない。アメリカで発生するはしかの多くは、海外からもたらされるー予防注射を受けずにはしかが流行っている国を訪れ、そこで感染し、帰国後にその症状が出るのだ。シンシナティに遊びにいっていた少女は、インディアナ州北西部に住んでおり、外国にいったことはなかった。それなのになぜ、感染したのか。
はしかは症状がでるまでの潜伏期間が長いため、知らないうちにほかの人が感染する確率が高い。少女がはしかの流行っている場所にいったことはなくても、第三者から感染した可能性はある。だとすれば、おそらく二週間前の五月十五日、彼女がインディアナの教会で開かれた集会に参加したときだろう。そこには信徒が五百人ほど集まっていた。彼女の両親はシンシナティの病院スタッフに、集会にいた十代の子どもの一人が病気だったことを話したその少女は熱があり、咳をし、結膜炎にかかっていた。調べた結果、その少女は十七歳で、ルーマニアからインディアナにもどったばかりだったことがわかった。教会から派遣されてブカレストへ出かけ、孤児院と病院で働いていたという。彼女は飛行機で五月十四日に帰国し、翌日教会の集会に参加したのだ。その彼女が、二〇〇〇年以降アメリカで短期間に最も多くの患者をだしたはしかの″指針症例″(第一感染者、すなわちその後の患者全員の感染源)だった。

 二〇〇五年五月から六月にかけて、少女二人のほかに三十二人の感染者が出た。記録が残された三十四人のうち三十三人は教会のメンバーで、十七歳の第一感染者と直接接触した人か、接触した人と同じ家に住んでいた人だった。教会のメンバー以外ではしかに感染したのは、患者の一人が治療を受けた病院で働く職員だった。さいわい、死者は一人も出なかった。点滴を必要としたのは、シンシナティの六歳の少女と、四十五歳の男性だった。そして病院の職員が肺炎と呼吸困難のため、六日間人工呼吸器の助けを借りた。効果的な治療と予防措置−ウィルスに感染後、まだ症状がでていない人は十人日間隔離されたおかげで、大発生は七月末までに食い止められた。その後新たな症例が報告されることもなかった。ある試算によると、感染拡大阻止と治療に使われた費用は、総額三十万ドル近くにおよんだ。

 三十四人の患者の中で、予防接種を受けていたのはわずか二人。しかもうち一人(病院職員)は、ワクチン一回分しか接種を受けていなかった。六歳の少女とルーマニアヘ旅した十七歳の少女は、まったく受けていなかった。教会の集まりに参加した五百人の中で五十人が接種を受けておらず、うち十六人がはしかに感染した。感染拡大が防げたのは、その地域の住人の大半が予防接種を受けていたためだった。予防接種が普及していない国であれば、感染がもっと拡大していたはずだ。

 だが、アメリカで就学前の子どもの九五パーセントが接種を受けているというのに、なぜ教会メンバーの一〇パーセントが受けていなかったのだろう。アメリカでは公立学校に通う全児童に予防接種が義務づけられている。だが、多くの州で、親が「個人的信条にもとづく予防接種拒否」を申請できる。つまり、宗教その他の信条的な理由で子どもへのワクチン接種を拒否できるのだ。そして実際に、はしか発症の大半が接種を拒んだ数少ない家庭で起きている。そのような家族は、大発生を防ぐために保健所が働きかけても接種を拒み続けることが多い。
二〇〇五年にシンシナティで発生したはしかの大流行は、例外ではなかった。疾病予防管理センター(CDC)は、二〇〇八年の前半七か月のあいだにアメリカで一三一件はしかの発症があったと報告している。これは二〇〇一年から〇七年にかけての年間平均の二倍にあたり、一九九六年以降で最も高い数字である。大半が予防接種を受けるべき就学児童のあいだで起きたのだが、その親たちはわが子への接種を拒否していた。

 感染率の高い深刻な子どもの病気がワクチン接種で予防でき、効果的に排除できるというのに、なぜ親たちはがんとして接種を拒むのか。なぜ、人びとは承知のうえでCDCやWHOから提示された基本ルールを守らず、はしかその他の伝染病が流行っている外国へ、予防接種を受けないまま出かけるのだろう。四十年以上前から、効果的で安全なワクチンが手に入るようになったというのに、なぜ親たちは、わが子をはしかのような疫病の脅威にさらすのだろう、これらの行動の裏には、つぎにご紹介するように、もう一つの日常的な錯覚〝原因の錯覚〟がある。なぜ人がわが子に予防接種を受けさせないかを理解する前に、原因の錯覚を引き起こす三つの片寄りについて理解しておこう。三つの片寄りは、それぞれ独立していると同時に相互にからみあっている。これらの片寄りが生じるのは、私たちの脳が、ものごとをパターンで捉え、偶然のできごとに因果関係を読み取り、話の流れの前後に原因と結果を見ようとするためなのだ。

サンドイッチに聖母マリアの顔が!
 パターンでものを捉える能力は、私たちの生活にとって重要である。そして瞬時に重要なパターンを読み取る能力は、多くの職業で必要とされる。医師はあるパターンを形成する一連の症状を調べ、その真にひそむ原因を推理し、診断を下し、処置法を選び、患者の経過を予測する。臨床心理学者やカウンセラーは、思考や行動にパターンを見つけだし、精神障害の診断の手がかりにする。株のトレーダーは株価指数の動きを追い、自分の取引の決め手になりそうな一貫したパターンを探る。野球コーチは、バッターがどの方向にヒットを飛ばすか、そのパターンをもとに自分のチームのポジションを決める。そしてピッチャーは、バッターのスイングパターンを読み取って投球を変える。私たちの誰もが意識すらせずに、ものごとをパターンで判断している。友だちが歩いてくるのを、動作のパターンや歩き方の癖で見分ける。音声ぬきの短いビデオ映像から動作のパターンを拾い集めるだけで、学生たちは画面に登場した教師が、学期末にいい評判がもらえるどうか予測できる。私たちはたえず身の回りにパターンを見いだし、パターンをもとに予測をおこなう。

 このような並はずれたパターン感知力は、プラスに働くことも多い。おかげで私たちは、骨の折れる論理的な計算を使った場合は何分も何時間もかかりそうな結論を、瞬時に(千分の数秒単位で)引き出すことができる。だがあいにく、この感知力は私たちを誤った方向に導き、原因の錯覚を引き起こすこともある。私たちは実際にはないパターンをあると思い、実際にあるパターンをないと思ってしまう。くり返しのパターンが実際に存在するかしないかはべつとして、パターンの存在を感知したとき、私たちはそこに因果関係を読み取りたがる。私たちの記憶は、自分が記憶すべきだと考えるものにあわせて変形する。そして、自分があらかじめ期待していないものは、目の前のゴリラであっても見落とす。同様に、周囲のことがらに対する私たちの理解は、無作為なものに意味を求め、偶発的なものに因果関係を求める方向で、ゆがむことが多い。そしてたいてい、自分ではそのゆがみにまったく気づかない。

 原因の錯覚は、私たちが無作為のものにパターンを読み取り、自分にはそのパターンの生じた原因がわかると思い込んだときに起きやすい。そして直感的に因果関係を信じ込むと、その思い込みと矛盾しないパターンを見ようとしはじめる。そんなパターン感知力が妙な方向に向かうと、とんでもない場所になにかの顔が見えたりするような、驚くべきことが起きる。

 一九九四年のある日、ダイアナ・デュイサーは自分が焼いたグリルドチーズサンドイッチを食べようとして、不恩議なものに気づいた。焼いたパンの表面から、人の顔がこちらを見つめていたのだ。南フロリダでジュエリーデザイナーをしていたデュイサーは、すぐにそれが聖母マリアだとわかった。彼女はサンドイッチを食べるのをやめ、プラスティック容器にしまった。その中身は奇跡的に腐ることもなく、十年そのままの状能昔保った。そして、なぜかわからないが、彼女はその聖なる品物を、ネットオークションのeBayで売りにだすことにした。そしてオンラインカジノ会社ゴールデンパレスが二万八千ドルで落札し、社長みずからが品物を受け取りに出向いた。受け渡しのときにデュイサーはこう言ったという。「私はこれが聖母マリアであることを、心から信じています」

 無作為のものに意味のあるパターンを感じ取る心の働きには、パレイドリア(変像)という名前がついている。チーズサンドイッチの聖母マリアのように、パレイドリアには宗教的な絵柄も多い。「尼僧(ナン)パン」と名づけられたのは、マザー・テレサの鼻と顎の形にそっくりなシナモン入りツイストロールパンだった。一九九六年にナッシュヴィルのコーヒーショップで発見されたのだが、二〇〇五年のクリスマスに盗まれてしまった。「アンダーパスの聖母」では、またしても聖母マリアが出現した。聖母はこのときシカゴの州間高速道94号線の立体交差の下に浮きだした塩のしみに姿を変えており、大勢の見物人が押しかけ、何か月も交通渋滞が続いた。そしてイエス・キリストはホットチョコレートにも、海老料理のディナーにも、歯のレントゲン写真にも、チーザス(イエスの形に見えるコーンスナックのチートス)にも現れている。イスラム教ではアッラーを具象化することは禁じられているが、イギリスの西ヨークシャーに住む信者は、半分に割ったトマトの断面に「アッラー」とアラビア文字が浮きでているのに気づいた。

 すでにおわかりだろうが、これらの顔の出現について著者二人が好きなのは世俗的な説明のほうだ。私たちの視覚は、顔や物体や文字を認識するときに、難問を解かねばならない。ものが見える条件は千差万別である。光の強さ、光からの距離、光が射し込む方向、影になる部分、目に入る色彩などなどの要素で見え方がちがってくる。視覚は、弱い音を聞くために微調整がきくアンプのように、同じものでも見る者が重要と考えるパターンに対して敏感にできている。じつのところ、視覚をつかさどる脳の部位は、“重要”とインプットされたものに少しでも似た姿形を見ると、活性化する。わずか五分の一秒で、あなたの脳は椅子や車などの物体と顔とを識別する。そして、ほんの少し顔のように見える物体(パーキングメーターや三つ穴コンセントなど)を、一瞬にして椅子などの物体と区別する。顔に似ている物体を見ると、紡錘状回と呼ばれる脳の部位が活性化する。この部位は、顔に対してきわめて敏感なのだ。つまり、顔に似たものを見たとたん、あなたの脳はそれを顔のように扱い、ほかの物体と区別して処理する。私たちが顔に似たパターンを見ると、ほんものの顔と同じように思うのは、一つにはそのためだ。

 同じ原則が、べつの感覚にもあてはまる。レッド・ツェッペリンの(天国への階段)を逆回転で聞くと、「サタン」や「666」など不吉な言葉がいろいろ聞こえる。クィーンの<地獄へ道づれ>を逆回転させると、いまは亡きフレディー・マーキュリーが、「マリファナは最高」と語りかけてくる。この現象は、おもしろいだけでなく収入につながる場合もある。カレン・ストルツナウというライターは、ポップタルトの輪郭が教皇の伝統的な帽子に似ているのに気づいた。彼女はスナップ写真をとってeBayに送り、「ポープタルト」という呼び名でオークションにかけた。そして終了期限がくるまで、帽子に対する大勢の共感派や懐疑派と、愉快なeメールをやりとりした。最終的な落札価格は四十六ドル。ストルツナウはポープタルトにあまり高い値段がつかなかったのを、宣伝不足のせいと考えた−聖母マリア・チーズサンドのように、新聞やテレビで取り上げられなかったのだ。

 これらの例は、パターンに過敏な脳がもたらす現象の、ごく一部にすぎない。ベテランのプロでさえ、自分が予測するパターンには目をとめるが、自分の予測に反するものは目に入らない。ヘッジファンドのトレーダー、ブライアン・ハンターは自分が予測する天然ガスの値動きに賭けて、すべてを(一回ならず)失った。彼は自分がエネルギー市場の動きを理解していると思い込み、市場の動向パターンに対する彼の読みが、会社を破綻に追い込んだ。パターン認識がうまく働くおかげで、私たちはショッピングモールの人ごみで迷子になったわが子の顔を見つけだすことができる。だが、うまく働きすぎると、私たちは食べ物の中の顔や、株式市場の動向その他、実際には存在しないものや、ありえないものを見てしまう。

寒い雨の日に関節炎が痛むのは本当か?
 テレビドラマの 『グレイズ・アナトミー/恋の解剖学』 や『ドクター・ハウス』に登場する診療室や、キーティング医師の診断クリニックにやってくる患者たちの特殊な病気とちがい、医師たちが日常的に診るのは、ほとんどがそれほど変わった病気ではない。慣れた医師は一般的な症状を手早く確認する。そしてもっとも可能性の高い病気に、まず注目する。当然ながら鳥インフルエンザよりもふつうの風邪が、うつ病よりもたんなる落ち込み状態のほうが多いことを学んでいるのだ。

 たいていの人は医師が診断するときは、可能性を限定せず多くの選択肢を考えるはずだと、直感的に考える。だが、本当の意味での専門的判断で求められるのは、選択肢を沢山考えられる能力ではなく、不適切な診断をとりのぞける能力なのだ。たとえば救急室に運ばれてきた子どもが、ぜいぜい息をあえがせていた場合。もっとも可能性が高いのは喘息であり、その場合はアルブテロールなどの気管支拡張薬で処置をおこなえば、症状がおさまる。もちろん呼吸困難は、子どもがなにかを喉につまらせたのが原因ということも考えられる。はじめての患者には、第二次感染症もふくめて、あらゆる可能性が考えられる。『ドクター・ハウス』のようなドラマでは、もちろん、子どもの症状にめったにない疾病の原因が潜んでいることがわかる。だが現実の世界では、喘息か肺炎という可能性のほうがはるかに高い。ベテラン医師は、喘息患者を大勢診た経験もあり、そのパターンを読み取って短時間に間違いのない診断を下す。キーティング医師のような仕事の場合や、特異症例であることが明確な場合はべつとして、めったにない病因に注意を向けすぎるのは逆効果だ。ベテラン医師は、症状パターンの説明にもっとも有力と思われる診断にしぼって、まず考える。

 医師は言ってみれば、裏づけのある自分の予測に合致するパターンに注目するわけだが、予測のレンズを通して世界を見ると、それがいかに理にかなった予測であっても、裏目にでかねない。バスケットボールのパスの回数を数えることに注意を奪われた人たちと同様、医師は〝ゴリラ〟(パターンの裏に潜む、予期せぬ異例の病因)を見落とす可能性がある。それは、都会の大学病院で働いていた研修医や特別研究員が、開業医になり、地域で一般診療や内科診療をはじめたときに起きやすい。都会の大学病院で医師が扱うことが多い病気の内容は、地域の診療所で扱う内容とは大きく異なっている。そこで専門家としての診断能力レベルを維持するために、医師は自分のパターン認識を、新しい環境にあわせて再調整する必要があるのだ。

 予測のせいで、実際にはないものをあるかのように感じる場合もある。クリスの母親は、両手と両膝に数年前から関節炎をわずらい、寒い雨の日にとくに痛みが激しくなるという。そう感じるのは、彼女一人ではない。一九七二年におこなわれた研究では、関節リウマチ患者の八割から九割が、気温も気圧も低く、湿度が高いとき(つまり寒い雨がちの時期)に、激しい痛みを訴えたと報告されている。以前の医学書には、一章をついやして気候と関節炎の関係が述べられていた。慢性関節リウマチの患者に、温暖な乾燥地帯へ転地を勧める医師もいた。だが本当に気候は、関節炎に影響をあたえるのだろうか。

 医師のドナルド・レーデルマイヤーと、認知心理学者エイモス・ツヴェルスキーは、十五か月にわたって十八人の関節リウマチ患者を対象に調査をおこない、毎月二回、痛みぐあいを報告してもらった。そしてこれらの報告を同時期のその地域の気象データと照合した。患者のうち一人をのぞいて全員が天候変化は自分の疹痛に影響すると答えた。だが、レーデルマイヤーとツヴェルスキーが疼痛のデータをその当日、および前日と二日前の天候に照らしあわせてみたところ、なんの関連性もなかった。被験者たちの強い思い込みにもかかわらず、天候の変化は関節炎の痛みとまったく無関係だったのだ。

 クリスはこの研究結果を、母親に話した。彼女は、「それはそのとおりかもしれないわね。でも、わたしはやっぱり雨の日に痛くなるの」と言った。たしかに、痛みが続計結果と一致しないことはありえる。だが、なぜリウマチ患者は、実際には存在しないパターンを信じるのだろう。天候とはまったく無関係とわかっても、なぜ関連性があると考えるのか。レーデルマイヤーとツヴェルスキーは、第二の実験をおこなった。大学生を集め、一組になった数字を見せたのだ。片方は患者の痛みの度合を示す数字、もう片方はその日の気圧を示す数字である。疼痛と天候条件は、実際には無関係であることをお忘れなく−気圧を知っても、患者がその日感じる痛みは予測できない。なぜなら痛みは温かい晴れの日も、寒い雨の日も同じように現れるからだ。実験で使われた作りもののデータでも、痛みは天候と無関係だった。だが、実際の患者たちと同様、学生の半数以上が、データ上の気圧と関節炎の痛みのあいだに関連性があると考えた。一人の患者については、なんと八七パーセントの学生が積極的な関連性を見いだした。

 この実験で、学生たちは〝選択的マッチング〟をおこなっていた。つまりデータの一部にのみ見られたパターン(たとえば二、三日低気圧が続いたときに、たまたま痛みが現れたなど)に注目し、ほかの例は無視したのだ。関節リウマチ患者も、同様である。彼らはたまたま痺痛が起きた寒い雨の日を記憶して痛みのなかった雨の日は忘れ、痛みのあった温かな晴れの日は忘れて痛みのなかった晴れの日を覚えているのだ。病気を天気のせいにしたがる傾向は、日常会話の一部にもなっている。私たちは気分がすぐれないと「天気が悪いから」と言う。そして冬に帽子をかぶれば、「風邪を引かない」と考える。実験の被験者やリウマチ患者が、天候と痛みを関連づけて考えたのは、自分がすでにもっている思い込みにあわせて、データを解釈したからだ。言ってみれば、彼らはそこにいないゴリラを見ようとしたのだ。

セックスで若返る?
 心理学初級の教科書には、アイスクリームの消費量がなぜ水難の割合と関係があるのか、その理由を考えなさいという課題がでている。アイスクリームの消費量が多い日は水難の割合が高くなり、消費が少ない日は水難率が低くなる。アイスクリームを食べることが水難を引き起こすわけではないし、水難のニュースを聞くとアイスクリームを食べたくなるわけでもない。そこには第三の要因がある。夏の暑さが両方をうながすのだ。冬はアイスクリームの消費が少ない。そして冬は泳ぐ人が少ないから、水難も少なくなる。

 この課題は、原因の錯覚の裏に潜む第二の片寄りに、注意を向けさせるためのものだ。二つのできごとが同時に起きると、私たちは片方がもう片方の原因になったと考えがちだ。教科書でアイスクリームと水難の関係が使われているのは、片方がなぜもう片方の原因になるのか一見わかりにくいと同時に、両方を引き起こした第三の要素が、わかりやすいためだ。だが、現実の世界では原因の錯覚があるため、ものごとはそれほど簡単に見えてこない。

 いわゆる“陰謀論”は、できごとにパターンを見いだすことを基本にしている。陰謀論を前提にすると、できごとが起きた理由がわかりやすいように思える。原則として、陰謀論は結果から原因を推理しようとする。そして陰謀論を信じるほど、あなたは原因の錯覚に落ち込む。

 陰謀論は、ゆがんだパターン認識から生まれる−聖母マリア・チーズサンドの認知版である。陰謀論の信奉者は、9・11の事件を、予定していたイラク侵攻計画を正当化するためのブッシュ大統領の画策と、頭から思い込んだ。そして、タワーに衝突した最初の飛行機に関する大統領の記憶の誤りを、彼が前もって攻撃を知っていた証拠と考えた。ヒラリー・クリントンは選挙に勝つためなら、どんな発言でもすると思い込んでいた人びとは、ボスニアの空港で狙撃されたという彼女の誤った記憶を、選挙に有利になるようについた嘘だと即座に考えた。どちらの場合も、人びとは相手に対する自分のパターン化した見方を、事件にあてはめた。それに沿って裏にある原因を推理し、自説の正しさに確信をもつあまり、もっと理にかなったべつの説明を見落とした。

 原因を錯覚するこうした実例は、身近にあふれている。そのため、「たんなる相互関係を因果関係と邪推した、最近のメディア報道は?」という宿題をだされても、学生たちは苦労しない。BBCニュースは、「セックスで若さがたもてる」という刺激的なタイトルで、ロイヤル・エディンバラ病院のデイヴイッド・ウィークス博士の研究を紹介した。「週に最低三回セックスをするカップルは、週二回の平均的成人より十歳以上若く見える」というのだ。添えられた写真の見出しには「セックス習慣で、年齢を感じさせない人に」とあった。たしかに、セックスは若々しい外見を生むかもしれない。だが、若々しい外見がセックスのチャンスを増やすという可能性もある、あるいは若々しさは体調のいい証拠で、それがセックスの回数を増やすのかもしれない、あるいは若々しい人が年齢に関係なくセックスを続けられる、あるいは……と、いくつでも説明は考えられる。若々しい外見とセックスの相関関係を示す統計は、両者の因果関係を示すものではない。番組のタイトルが「若々しい人はセックスが増える」と因果関係を逆にしたものだったとしても、不正確なことに変わりはないが、意外性が低く、報道価値がなかっただろう。

 もちろん相関関係のなかには、因果関係的色あいが濃いと思われるものもある。夏の気温の高さは、水難の割合より、人がアイスクリームを食べる割合を高くしそうだ。統計学者や社会学者は、確実な因果関係をつきとめるために、さまざまな相関関係のデータを集めて分析する方法を考えだした。だが、ある相関関係に因果の関連性があるかどうかを調べる唯一の方法−くり返すが、ただ一つの方法は、実験しかない。実験で有効にならないかぎり、一つの関係を観察しても科学的にはただの偶然にしかならないのだ。医学の世界では疫学的な調査方法がとられることが多い。疾病率を計測し、集団同士や社会同士で比較する方法である。たとえば疫学調査では、いつも野菜を食べている人の健康状態を計測して、野菜をあまり食べていない人びとの状態と比較する。そして、いつも野菜を食べている人のほうが、食べていない人より健康という結果がでた場合。この調査は野菜を食べることと健康との関連性を示す、科学的な証拠になる。ただしこれは、野菜を食べると健康になるという証拠にはならない(同時にこの結果から、健康な人は野菜を食べるようになるということも言えない)。野菜を食べることと健康との関係には、第三の要因も考えられるたとえば、経済的に豊かであれば、新鮮でおいしい食物と健康管理が確保できるなどだ。疫学調査は実験とは違うが、たとえば喫煙と肺癌の関係など、ある二つの要素のあいだの関連性や因果関係を判断するための、最良の方法である場合が多い。

 だが調査とちがい、実験では関連性を確かめるにあたって、一つの要素(独立変数)を変化させ、べつの要素(従属変数)にどのような影響がでるかを調べることができる。たとえば、静かな環境よりBGMが流れているほうが、人は仕事に集中できるかどうかを調べる場合。実験者は任意に集めた被験者の片方のグループには音楽を聞きながら、もう片方のグループには静かな環境で仕事をしてもらったあと、認知カテストを頼み、その成績を測定する。原因(音楽を聞くか、聞かないか)をあたえて、結果(認知カテストでの成績の差)を計測するのだ。ただし、これら二つの要素を測定しても、因果関係は証明されない。つまり、被験者が仕事中に音楽を聞くかを確認し、認知カテストの結果を測定しても、両者の因果関係は証明されないのだ。それはなぜか。

 矛盾するようだが、因果関係を正しく推理するには、無作為という条件が欠かせない。被験者は二つのグループのどちらかに任意に参加することが不可欠だ。さもないと二つのグループの結果のちがいに、べつの要素が入り込む可能性がでてくる。たとえば、仕事をしながら音楽を聞くか被験者に答えてもらい、静かに仕事をする人のほうが、生産的であることがわかった場合。ちがいの原因には、沢山の要素が考えられる。教育程度の高い人のほうが静かに仕事をしたがるのかもしれないし、注意力が散漫な人のほうが、音楽を聞きながら仕事をしがちなのかもしれない。

それは相関関係にすぎない!
 心理学入門の授業で、基本的原則として教えられるのが、二つのものの相関関係は因果関係とはちがうということだ。原因の錯覚をふせぐために、この原則を教わる必要があるのだ。ただし抽象的な原則には、誇りに対する免疫効果はほとんどない。それを知りながら、原則を受け入れるのは非常にむずかしい。だがさいわい、錯覚の混入を見抜くための簡単な方法がある。ある二つのものの関連性を指摘する説に出会ったとき。それを実証するために実験をした場合、任意に人が集められるかどうか考えてみるのだ。経済的な理由や、倫理的な理由で無作為に人を集めることが不可能に思える場合、実験はできなかったはずであり、因果関係は裏づけられないと考えていい。実際の例を、報道の見出しからひろってみよう。

・「ブラックベリー(携帯情報端末)は捨てよう! マルチタスクに有害の可能性」−研究者が無作為に参加者を集め、一つのグループにマルチタスクを頼んでブラックベリー漬けの日々を送ってもらい、第二グループには一日中一つの仕事だけをしてもらうことは、可能だろうか。たぶん、できないだろう。この研究ではアンケートをとって、テレビ、携帯メール、パソコンを同時にこなしている人を選びだし、一度に一つのことしかしない傾向の人たちと比較したのだ。そして二つのグループに認知カテストをおこない、マルチタスクが好きな人のほうが、テストの一部で成績が悪いのを発見した。記事の本文には研究方法がはっきり書かれていたが、見出しには、因果関係について正しいとは言いがたい解釈が加えられている。また、認知カテストで成績の悪かった人は、自分では複数の仕事がうまくこなせると考えていて、必要以上に仕事をしてしまう可能性も考えられる。

・「いじめは子どもの心の健康をそこなう」−研究者が無作為に子どもたちを集め、いじめられるグループと、いじめられないグループを作ることはできただろうか。いや、無理だろう。少なくとも倫理的には不可能だ。この報告はいじめと心の病との関係を、計測した結果だろう。だが因果関係は、方向を逆転することもできる−心を病んだ子どもは、いじめられやすい。そして家族的背景などべつの要素も、子どもがいじめられ、心を病む原因になりえる。

・「住環境が統合失調症を生む?」−この研究では、統合失調症の割合が地域によって異なると指摘されている。はたして研究者が、任意に集めた人たちにべつの土地に住んでみてほしいと頼むことはできるだろうか。私たちの経験では、たいていの人が心理学の実験に抵抗なく参加してくれるが、べつの土地に引っ越してほしいと頼むのは、いきすぎというものだ。

・「家事をすると乳がんにならない」−研究者が任意に女性たちを集めて、「家事を非常によくする」グループと「家事をあまりしない」グループに分けることなど、できるだろうか。疑問に思う(被験者の中には、ラッキーと思う女性もいるかもしれないが)。

・「性的な歌詞は、子どもたちをセックスに走らせる」−任意に集めた子どもたちを二つのグループに分け、片方に歌詞が露骨に性的な歌を聞かせ、もう片方には性的表現のない歌を聞かせ、そのあとどれくらいセックスをしたか観察したのだろうか。野心的な研究者なら、研究室で実験できたかもしれないが、この研究者は実行していない。たとえ実験ができたとしても、研究室で子どもたちにエミネムやプリンスの曲を聞かせた結果、彼らの性行動が計測可能なほど変わったとは思えない。

 この方法をあてはめると、こうした報道の誤りを笑えるようになる。たいていの研究者は自分の研究の限界を知っており、相関関係と因果関係はちがうことを理解しており、科学雑誌に載せるときは正しい論理と用語を使う。だが、その研究内容が大衆向けに「翻訳」されると、原因の錯覚が顔をだし、微妙な部分が無視されてしまう。報道では話を面白くして説得力あるものにするため、因果関係が誤って伝えられることが多い。露骨な歌を聞く子どもの中に、たまたまセックスに対して早熟な子もいると書いては、面白い記事にならない。正確な言葉を使って言えることが、もう一つある性体験があったり、性に興味があったりすると、露骨な歌詞に抵抗がなくなる。あるいはもっとべつの要素が、性的な早熟さと露骨な歌詞に対する好みの原因かもしれない。

話術が人をまどわせる
 二つのものの相関関係に因果関係を見てしまう錯覚は、物語への興味と強く結びついている。子どもたちが露骨な音楽を聞き、暴力的なゲームをするという話を聞くと、私たちはそのなりゆきを予想する。そしてそのあとで、同じ子どもたちがセックスや暴力に走ったと聞くと、そこに因果関係を読み取る。私たちはこれらの行動の因果関係を理解したと思い込むが、その理解は論理的な誤りにもとづいている。錯覚をうながす第三のからくりは、話を聞いたときの私たちの解釈の仕方である。歴史や日常的なできごとを解釈するとき、私たちは前のことが原因で、その後のことが起きたと考えたがる。

 小説『つきることなき道化』で知られる作家、デイヴイッド・フォスター・ウォレスは、二〇〇八年夏の終わりに、首を吊って自殺した。創造的な著名作家によくある例だが、彼は以前からうつ病とアルコール依存を抱え、前にも一度自殺をはかったことがあった。ウォレスは天才的な文学者で、まだ芸術科修士課程の学生だった二十五歳のときに、処女作『ヴィトゲンシュタインの箒』を発表した。作品は『ニューヨークタイムズ』で賞賛されたが、ほかでは批評が分かれた。その後短編集の執筆にとりかかったものの、彼は自分を落伍者と思い続けた。そんな彼を母親が自宅に呼び戻し、一緒に暮らしはじめた。『ニューヨーカー』誌にD・T・マックスが載せた解説によると、それからすぐに彼の状態は下降線をたどったという。マックスはつぎのように書いている。

ある晩、彼は姉のエイミーと『カレン・カーペンタ一物語』を見ていた。摂食障害による心臓発作で死去したカレンを題材にした、感傷的なテレビドラマである。それが終ったとき、ヴァージニア大学の修士課程にいた姉が、ヴァージニアへ帰らなくてはと言った。デイヴイッドは姉にいかないように頼んだ。そして彼女が去ったあと、彼は薬物で自殺をはかった。

 ウォレスの一回目の自殺未遂に関するこの文章を、あなたはどう受け取るだろう。もっとも自然な解釈は、テレビドラマがウォレスの気持ちを動揺させ、姉に一緒にいてほしいと望んだが断られ、一人きりになった絶望感で薬を過量摂取したというものだ。だが、もう一度読み直してみると、これらの事実はどこにもはっきり書かれていないことがわかる。厳密に言うと、彼が姉にいてほしいと望んだことも、「デイヴイッドは姉にいかないように頼んだ」としか書かれていない。マックスは突き放したような感じで、事実だけを述べている。だが、これらの事実に私たちがどんな解釈を加えるかは、明白だ。私たちは意識もせず、反射的に解釈をおこなう。そこに書かれていない情報を、つけ加えたことすら意識しない。これは原因の錯覚の働きである。いくつかの事実が語られると、私たちは隙間を埋めて前後の因果関係を作りあげる。出来事その一が出来事その二を生み、それが出来事その三につながった、などなど。ドラマがウォレスを悲しくさせた、それで彼はエイミーに一緒にいてくれと頼んだ、姉は出ていった、彼を拒否したにちがいない、それが彼に自殺をうながした……というぐあいだ。

因果関係のトリック
 たんに状況説明でほのめかされていることから反射的に原因を推理してしまうのに加えて、私たち人間は自分が推理を加えた物語を、その必要のなかった物語より強く記憶する傾向がある。つぎの二つの文章について、考えてみよう。デンヴァー大学の心理学者ジャニス・キーナンとその仲間たちがおこなった実験で使われたものだ。

①ジョーイは、兄から何度も何度も殴られた。翌日彼の体はあざだらけになった。
②ジョーイのいかれた母親が、彼に激しい怒りを爆発させた。翌日彼の体はあざだらけになった。

 文例①には、推理の必要がない−ジョーイのあざの原因が、最初の言葉ではっきりあらわされている。文例②には、あざの原因はほのめかされているが明確には述べられていない。そのため文例②は、文例①より少しばかり理解がむずかしい(そして理解に時間もかかる)。だが、文章を読みながら、あなたがなにかを考えるという点が、だいじなのだ。文例②を理解するには、文例①では必要のなかった論理的推理が必要になる。そして推理する中で、読んだものに対して豊かで複雑な記憶が形づくられるのだ。ニューヨーカーの解説を読んだ読者は、ウォレスの自殺未遂について、実際の記述はなかったにもかかわらず、そこに暗示された原因を記憶するだろう。その内容が人からあたえられたものでなく、自分が推理して引き出したものだからだ。

 「お話、聞かせて」と子どもたちは親にせがむ。そして話がとぎれると「それから、どうなったの?」と、せっつく。大人たちは、映画、テレビ、長編小説、短編小説、自伝、歴史などの物語に何十億ドルもついやす。見て楽しむスポーツの魅力の一つは、その物語性にある。どの試合も、どのシュートも、どのホームランも、終わりのない物語の新たな事件である。教師−そして科学本の著者−は、聞き手(あるいは読み手)の注意を引きつけ、自分のペースに巻き込むには、物語が効果を発揮することを心得ている。だが、ここに落し穴がある。お話すなわち一連のできごと−は楽しいものだが、それだけでは実際的な役に立たない。

 なぜ進化は、事実を時系列で受け取るよう脳を作りあげてきたのだろう。それが生存に有利だったからでなければ、筋がとおらない。お話とちがい、どんな原因でなにが起きるかという一般的原則は、実際上役に立つ。たとえば自分の兄が黒い斑点のある果物を食べて吐いたことを知れば、因果関係(果物で中毒が起きた)が推理できる。この知識は、その後さまざまな場面で応用できるにちがいない。私たちが物語を好むのは、時系列順にあたえられた事実から、さまざまな因果関係を推理できるためであり、その因果関係こそ私たちの脳にとって必要で、役に立つものだからだろう。

 D・T・マックスは、デイヴイッド・フォスター・ウォレスに関する解説の中で、彼が自殺未遂から回復したあとのことを、つぎのように書いている。「ウォレスは、執筆活動には、自分の精神的健康を犠牲にするほどの価値はないと判断した。彼はハーバード大学大学院哲学科に願書をだし、入学を許可された」ここにも、因果関係が暗示されている。ウォレスはうつ状態と自殺への恐怖心に駆り立てられ、逆効果のようだが、大学院で哲学を学ぶことにした。だが、願書のだし方については、どう解釈すればいいのだろう。考えられる可能性の一つは、彼がハーバード一校のみを志願したこと。ふつうはもっと幅広く願書をだし、受け入れてくれる先を見つける。ハーバード一校しか受けないのは猛烈に自信のある志願者か、失敗してもいいと思っている受験者(あるいは自信があると同時に、失敗してもいいと思う志願者)だ。自分に入学可能な最良の大学で学びたい志願者は、もっと幅広く受験する。

 マックスの文章には、ウォレスがハーバードだけを志望したことが暗示されている。べつの大学にも願書をだしていた場合は、ウォレスに対する読者の見方に影響するから、書き手は記述をはぶかなかったはずだ。私たちはこうした文章を読むとき、必要な情報はすべてそろっており、素直に因果関係を読みとるほうが正しいと、反射的に考える。だがマックスの文章には、ウォレスがハーバードだけに願書をだしたとは善かれていない。読者が無意識のうちに、彼は一校しか受けなかったと解釈するように書かれているだけだ。

 なにごとにつけても、人は理屈をはっきり語られるより、こうした論理の飛躍を好む。「語らずに、ほのめかせ」という古くからの助言は、自分の文章で人に感銘をあたえたい作家には、貴重なものだろう。話術があたえる錯覚は、作家や講演者には頼もしい味方になる。純粋に事実にもとづいた話でも、言葉の順序を入れ換えたり、関連のある情報をはぶいたり加えたりすることで、聞き手や読み手の推理を思いどおりに変えられるのだ。そして、わざわざその点を話の中で明確にする必要も、強調する必要もない。D・T・マックスの文章は、意図したかどうかは不明だが、ウォレスの自殺未遂は、彼のそばにいることを(おそらく冷たく)拒んだ姉のせいだという印象を作りあげている。ウォレスが大学院進学でハーバード一校しか選ばなかったという印象も、同様である。話術が原因の錯覚にあたえる影響について理解すると、彼の文章も前とはちがう読み方ができるようになる。そしてこれらの結論のどれもが、かならずしも正しくないこともわかってくるだろう。(警告:政治家や宣伝マンがこのテクニックを使っているときは、ご用心!)

戦争も会社経営も、原因の錯覚を逃れられない
 そして、ベストセラーのビジネス書によく顔をだすのが、話の前後の流れに都合のいい要素だけを選んで、同じ結果をもたらすべつの要素を無視する傾向だ。たとえば『エクセレント・カンパニー』から『ビジョナリーカンパニー2/飛躍の法則』まで、どの本も成功した会社だけをとりあげて、彼らの行動を分析するという誤りを犯している。ほかの会社が同じことをして失敗したかどうかについては、検証していないのだ。マルコム・グラッドウェルのベストセラー、『なぜあの商品は急に売れ出したのか』には、時代遅れの靴を作っていたハッシュパピーが、みごとに運命を逆転させ、一躍大人気になった話が善かれている。グラッドウェルによると、ハッシュパピーの成功は、その靴が流行をリードする若者たちに受け、口コミで広まったためだという。ハッシュパピーが口コミにのった点は、まさにそのとおりだ。だが、口コミが成功を生んだというのは、話の主旨に合わせたあとからのつけ足しで、実験にもとづくものではない。実際に、口コミと成功との関係を示すデータがあるのかどうかも、明らかではない。そこに因果関係がないことを証明する場合でさえ、私たちは同じような会社が口コミなしで成功した例がいくつあり、口コミにのっても成功しなかった例がいくつあるかを調べる必要がある。そのうえではじめて、私たちは口コミが成功の原因だったかどうか、頭を悩ませることができるのだ−因果関係の方向が逆であった場合(成功が口コミをうながした)も、因果関係が両方向に働いた場合(善循環)も考えられる。

 話の前後の流れと因果関係という問題では、もう一つ落し穴がある。私たちはできごとを時系列で捉え、前のことが後のことを生じさせたと考える。そのため、一つの結果にはかならず複数の理由や原因があるという事実が、くもらされる。時間は連続して流れているので、込み入った決断やできごとの原因は、たった一つであるかのように思えてしまう。そのように考えがちな陰謀論の信奉者は、世間の笑いものになる。だが彼らの場合も、誰にもある原因の錯覚が、極端な形をとっているにすぎない。ここでMSNBCのニュース番組『ハードボール』のホスト、クリス・マシューズの発言の一部をご紹介しょう。いずれも二〇〇三年のアメリカによるイラク侵攻について語ったものである。

「この戟争の目的は、なんでしょう」(二〇〇三年二月四日)
「9・11が原因でしょうか。多くの人が、この戟争は報復だと考えています」(二〇〇三年二月六日)
「大量破壊兵器が、この戦争の原因でしょうか」(二〇〇三年十月二十四日)
「……イラク侵攻の目的は、よりよいイラクを実現するためではありませんでした。悪者をやっつけるためだったのです」(二〇〇三年十月三十一日)
「ブッシュ大統領は、中東全域に民主主義を浸透させたいと語っています。それが、イラク侵攻の真の目的だったのでしょうか」(二〇〇三年十一月七日)
「なぜアメリカはイラクに侵攻したのか。真の目的は、商談ではありません」(二〇〇六年十月九日)
「政府はこの戦争を後悔していません。そして戦争の目的は、政府が戦争を納得させるために、国民に語った理由とはちがいます」(二〇〇九年一月二十九日)

 文中で傍点をほどこしてある箇所は、戦争の目的や動機や原因は一つという前提で、語られていることがわかる部分だ。外から見ると、意思決定者(この場合は「最終決定者」と言うべきか)が決断をおこなう動機は、ただ一つに思える。だがもちろん、いかなる込み入った決断にも、複数の動機がからんでいる。マシューズはただ一つの真の動機を探ると同時に、ほかの可能性も認めている。目立つものだけでも、大量破壊兵器の存在、イラクのテロリストに対する支援、サダム・フセインの独裁政治、アラブ諸国に民主主義を確立するための戟略目的などがあげられる。そしてこれらはすべて9・11後に生じた、アメリカ本土を敵が攻撃してくることへの不安を背景に起きた。これらの前提条件が一つでも欠けていたら、戦争は起きなかったかもしれない。だが、事実にもとづいてそのうち一つだけをとり出し、侵攻の理由とすることはできない。

 因果関係に関する誤った推理は、政治の世界にかぎらず、ビジネス界でもよく見かけられる。ハリウッドきっての大物女性として長く知られたシェリー・ランシングは、一九九二年から二〇〇四年までパラマウント映画の最高経営責任者(CEO)を務めた。在任中は『フォレスト・ガンプ』や『タイタニック』などメガヒット作の製作にたずさわり、同社のスタジオから生まれた三作品がアカデミー作品賞に輝いている。『ロサンゼルスタイムズ』によると、いくつか失敗作が続いてパラマウントの興行収入が減少したあと、ランシングの契約は更新されなかった。彼女は任期より一年早めに辞職し、実際には成績不振が原因で辞めさせられだのだという噂が広まった。だが、ヒット作が彼女の才能だけで生まれなかったと同じように、成績不振も彼女一人の責任とは言えなかった−一本の映画には何百人もの創造力が影響をあたえ、映画が観客の想像力(と出費)を刺激するかどうかは、何百もの要素で決まる。
 ランシングの後継者ブラッド・グレイは、パラマウントに活力を起らせた功績者になった。彼が陣頭指揮に立った映画『宇宙戦争』と『ロンゲスト・ヤード』の二本は、二〇〇五年の収益トップを記録した。だが、どちらもランシングの任期中に考案され撮影された映画だった。彼女があと数か月地位にとどまっていたら、功名は彼女のものになり、長くCEOの座にとどまれたかもしれない。当然ながら最高責任者は、会社経営の責任を問われる。だが、会社の成功も失敗もすべてCEO一人のせいにするのは、原因の錯覚のまさに古典的な例である。

ワクチンが自閉症を引き起こす?
 ではここで、この章の最初にご紹介した、六歳の少女の話にもどってみよう。インディアナの教会で集会に参加し、はしかに感染した少女である。なぜ彼女の両親は、はしか予防のワクチンをわが子に接種させなかったのだろう。すでにお話ししたように、原因の錯覚には三つの片寄りが潜んでいる。パターンを求めたがる傾向と、二つのものの相関関係を因果関係へと飛躍させる傾向、そして時系列的な前後関係のある物語を好む傾向だ。それがわかると、理由が見えてくる。なぜわが子に、はしか予防のワクチンを接種させない親がいるのか。答えは親たち、メディア、著名人、そして医師の一部までもが、原因の錯覚にとらわれるためだ。具体的に言うと、彼らは実際には存在しないパターンをあると思い込み、偶然同時に起きたことを因果関係ととりちがえるのだ。

 自閉症は身近な発達障害であり、現在では子どものおよそ一一〇人に一人が発症している。アメリカではこの十年のあいだに、自閉症の割合が増加した。症状は言語能力および社会能力の、発達遅延や障害である。二歳までに、たいていの子どもが「平行あそび」ができるようになる。ほかの子どもと同じことを同じ場所でするが、直接ふれあうことはしない遊び方だ。そして二歳以下の子どもは、たいてい言葉があまりしゃべれない。自閉症は就学前の幼児期に発見されることが多い。子どもたちがたがいにふれあって遊ぶようになり、言語能力が急速に発達する時期である。自閉症の場合、子どもが二歳のころに親がなにかおかしいと気づくことが多い。まれには正常に育っていた子どもに退行が見られるようになり、コミュニケーション能力が失われる例もある。これらの症状は、子どもがはしか、流行性耳下腺炎、風疹の三種混合ワクチン(MMR)の接種を受けたあと、しばらくして出る例が目立つ。つまり自閉症の顕著な症状が、予防接種を受けたあとに目立つのだ。

 もう、おわかりだろう。そこには原因の錯覚が起きやすい気配がただよっていた。親たちも自閉症の増加原因を調べていた科学者たちも、両者の結びつきに注目し、因果関係を考えた。ワクチン接種を受けるまで、子どもになんの症状も認められなかったのに、接種後に親たちが症状に気づく。因果関係と結びつきやすい時系列パターンである。そして親たちは、ワクチン接種の普及率が増加した時期と、自閉症の増加した時期が類似している点にも気づいた。この間題には原因の錯覚の三大要素−パターン、相互関係、前後関係が、すべてそろっていたのだ。もちろん自閉症の増加は、ソマリア沖に出没する海賊の増加とも時期が一致していた。だが、誰も自閉症の増加で海賊が増えた(あるいは海賊が増えたので自閉症が増加した)とは考えない。両者の関係には、因果関係を感じさせるところがなくてはならない。一見すると、直感的に意味がとおりそうな関係である。「なるほど!」と、思わせること。すなわちパターンを感じ取る脳の働きに訴え、原因の錯覚を引き起こすことが必要なのだ。だが、直感的に感じとった因果関係が大衆に訴える力をもつには、それ以上のものが要求される。因果関係を有効にできる、権威の存在である。予防接種と自閉症の場合、必要とされたのはアンドリュー・ウェークフィールド博士だった。

 ウェークフィールド博士は、ロンドンの著名な内科医で、一九九人年に自閉症とMMRワクチンとの関連性を発見したと公表した。医療専門誌『ランセット』に研究仲間と作成した論文を発表し、MMRと数件の自閉症との関連性を指摘したのだ。論文が発表された当日の記者会見で、ウェークフィールドは関連性を信じるにいたった理由をこう語った。「一九九五年、私は親御さん方にお会いしました。教養があり、しつかりした考え方をもつその方々は、不安に駆られていました−そして私に、子どもが自閉症になってしまったいきさつを話したのです……子どもたちの発育は正常で、生後十五か月から十人か月のときにMMRの接種を受けました。ところがその後しばらくして、子どもたちに退行が見られ、発語をしなくなり、言語能力、社会能力、創造的な遊びの能力をうしない、自閉症がはじまったのです」自閉症と三種混合ワクチン接種のあいだに関連があるというウェークフィールドの指摘は、たちまちメディアの注目を集め、わが子にMMR接種を受けさせない親もではじめた。それと並行して、英国内のはしかに対する免疫率も低下した。

 ウェークフィールドの報告は、MMRワクチン接種後に自閉症を発症したとされる子どもたち十二人のうち、八人の子どもの親たちから聞いた言葉にもとづいたものだった。科学誌の論文の中では、調査の中でワクチンと自閉症の関連性が証明できなかったことが、認められてる。証明するためには大規模な疫学調査をおこない、ワクチンを接種した子どもと接種しなかった子どもについて、自閉症の発症率を調べる必要がある。ウェークフィールドが記者会見で発表した内容を受けて、ペンシルヴェニア大学の小児科学教授でウィルス研究者として名高いポール・オフィットは、『予防接種は安全か』(邦訳は日本評論社刊)と題する著作の中で、皮肉っぽくつぎのように述べている。「MMRが自閉症を引きおこしたという証拠を、自分はなにひとつ見いだせなかったと彼が発言し、自閉症の子どもをもつ八人の親がそう確信しているとだけ報告していたら、もっと正確だったはずだ」だが、たとえウェークフィールドが大規模な疫学調査をおこない、接種を受けた子どものほうが自閉症発症率が高いことを示せたとしても、それだけで因果関係は実証できない。ご記憶だろうが、因果関係を証明するには、実験者は無作為に抽出した条件を使わねばならない。ウェークフィールドも自分の推理を裏づけるには、無作為に集めた子どもたちに臨床的な実験をおこなう必要があっただろう。つまり、子どもたちを二つのグループに分け、片方にはワクチンを注射し、もう片方には偽薬を注射して、自閉症の発症率に明らかな差がでるかどうか計測することだ。

 そのような臨床実験は実行されなかった(倫理的にもできないことだ)が、何千人、何万人の子どもたちを対象にした疫学調査では、ワクチンと自閉症の結びつきはなにも示されなかった。ワクチン接種を受けた子どもの自閉症発症率が、接種を受けなかった子どもより高いということはなかったのだ。ワクチンが自閉症と関係があるというのは錯覚である−そこには因果関係はおろか、なんの関係も存在しない。人は自分の思い込みや期待にぴったりあったパターンを受け入れ、できごとの流れから因果関係を推理したがる。そして、わずか数名の患者の逸話が、きわめて有効なワクチンに対する恐怖心を世界中であおってしまう。

人は統計より実話に弱い
 ワクチンと自閉症の関連性は、大規模な疫学的証拠で否定され、実験でも実証されていない。両者の因果関係が、錯覚であることは明らかだ。ワクチンは、統計的な裏づけを見るまでもなく、自閉症の原因になりえない。こうした明白な証拠がそろっていることを考えれば、はしかを身近な病気にさせないレベルにまで、ワクチン接種の割合をもどすべきだろう。ワクチンは、はしか予防に安全で効果的な方法であり、自閉症とはまったく無関係である。というわけで、一件落着?

 とはいかなかった。チップ・ハースとダン・ハースは、魅力的な著作『アイデアの力』の中で、抽象的なデータより個人的な話のほうが忘れられず、強く心に残ると指摘した。本の中には、こんなマザー・テレサの言葉が引用されている−「私は、集団を見ても決して行動を起こさない。一人を見たときは、行動を起こす」。個人的な体験は、たしかに統計より説得力がある。個人体験にはまさに物語的な力があり、私たちに強い影響をあたえる。『コンシューマー・リポート』を読めば、ホンダやトヨタの安全性がたしかめられることは、誰でも知っている。同誌の発行元である消費者同盟が何千人もの車のオーナーに調査をおこない、意見を集めて車の安全性を評価しているのだ。だがあなたは、一人の友人から自分のトヨタは故障が多くてかなわない、二度と買いたくないと聞かされたら、何千人もの未知の人びとの意見以上に影響されるのではなかろうか。たった一人の車オーナーの体験談−それも苦労話−のほうが、心に響きやすい。何千もの体験を集めた数字には、感情移入がしにくい。だが強烈で説得力があり、記憶に残る物語には、感情移入できる要素がかならずある。クエンティン・タランティーノは、過激な暴力描写で知られる映画監督だが、感情移入の重要性について、こんなふうに語っている。「映画の中で首が切り落とされるのを見ても、私はべつにぞっとしない。だが、誰かが紙で手を切る場面を見たら、『ゲッ!』となるだろう」
説得力のある実話に影響された思い込みには、なかなか勝てない。すでにご紹介したように、二つの文章があった場合、原因と結果がはっきり書いてあるものより、因果関係を推理する必要があるもののほうが強く記憶に残る。体験談も同じだ。私たちは反射的に一つの例を一般化し、すべてにあてはめようとする。そしてそのように推理したものの記憶は長く残る。個人的な体験は私たちの心に残るが、統計値や平均値は心に残らない。そして実話が私たちに強い影響力をもつのも、当然のことなのだ。私たちの脳は、事実として受け入れられるものは自分自身が体験したことと、信頼できる相手から聞いたものだけという条件のもとで進化した。私たちの祖先は膨大なデータや統計や実験は知らなかった。というわけで、やむなく具体例で学んだ−状況の異なる大勢の人たちから集めたデータで、学ぶのではなく。

 すぐれた神経科学者Ⅴ・Sラマチャンドランは、実体験の威力について、つぎのような比喩で説明している。「私が君の部屋にブタを連れていき、このブタは言葉をしゃべると言ったとしよう。君はおそらく『え、ほんとかい? ここでやって見せてくれ』と応じる。私が杖をー振りすると、ブタがしゃべりはじめる。君はたぶん『すごい!こいつは驚いた!』と言うだろう。『ふむ、だけどこれはただのブタじゃないか。あと何回かやって見せてくれたら、信じるよ』とは言うまい」。そして、いったん言葉を話すブタを見たと確信した人に対しては、ブタには言葉が話せないという科学的証拠をいくら見せても、説得するのはむずかしい。科学者たちはブタが言葉を話したわけではなく、ラマチャンドランが煙や鏡を使って話をするブタの幻想を作りだしただけだと証明する必要がある。そして同じような実話が人びとのあいだに広まり、誰もが魔術に目がくらんでそれが事実だと思い込むと、科学は苦しむことになる。

 あなたが友人から「このダイエット・サプリメントを試したら、前より元気になって、頭痛もしなくなった」と言われた場合。あなたはそのサプリメントが効いたのだと、考えるだろう。そしてその推理が、あなた自身(あるいは信頼できる友人)から引き出されたものである場合、あなたはそれを強く記憶する。MMRワクチンの接種後に息子に異変があったという親の話と、ワクチンが息子の自閉症の原因だという親の確信には説得力がある。聞き手の記憶に残り、頭から消し去るのがむずかしい。何万人もの調査結果を裏づけにした圧倒的な科学的証拠や統計値も、たった一人の個人的体験がもつ絶大な影響力にはかなわない。親は自分がなにを体験したかはわかっているが、科学がを理解しているわけではない。自分はジッパーの仕組みを知っていると直感的に思い込んだ人が、その直感の正しさを実際に確かめたりしないように、私たちは実話にもとづいた推理の正しさを、実際に確かめようとしない。知識の錯覚と同じく、原因の錯覚を明らかにするには、自分が理解したものについて系統だった実験をおこない、自分が確信をもつた根拠を探り、因果関係に関する推理が裏づけのない事実にもとづいていないか、確かめるしか方法がない。だが、それほど高度な自己確認ができる人は、めったにいない。

迷信の発端
 そこへ登場したのが、ジェニー・マッカーシーだった。『プレイボーイ』のグラビアモデル、MTVのヒット番組のスター女優、そして自閉症と診断された男の子の母親である。悪意はなく、わが子と同じような子どもたちの力になりたいと望んだ結果ではあったが、彼女は不用意に錯覚の代弁者になってしまった。息子エヴァンが自閉症とわかったとき、マッカーシーは多くの親たちと同様、原因を探し求めた。

 そしてワクチンと自閉症が無関係であることを示す科学的証拠は十分そろっていたのに、彼女は誤った見方から抜け出せず、「子どもたちを自閉症という神経の病に追いやるのは、感染、毒素、細菌、そしてなによりワクチンよ」と語った。彼女は自分の体験で確信を強めたあまり、親は子どもにワクチン接種をすべきと思うかという質問に対し、最悪の答え方をした。「私にもう一人子どもができたら、絶対に受けさせません」これを同様な発言を『オープラ・ウィンフリー・ショー』 でもおこない、ワクチンが自閉症を招きはしまいかと不安を抱く大勢の親たちの、いわれのない恐怖をあおった。悪いことに彼女の主張は、誤解を招きやすいマスコミ報道とも重なって、抜群の効果をあげた。その結果、はしかのような疾病に対する全国的な免疫率が低下し、この章のはじめにご紹介したたぐいの、大発生への素地ができあがったのである。

 わが子の病気について、自分こそ原因を理解していると確信した母親の強い発言は、それが誤りであることを示す何万人もの子どもを対象とした何十種類もの調査結果より、はるかに影響が強い(そして、テレビ番組としてもずっと魅力的である)。レイプされたジェニファー・トンプソンの迫力ある証言がロナルド・コットンの有罪判決につながったように、一人の母親の実話は、事実を正しく見きわめる能力を私たちから奪いとる。実話は私たちの感情に働きかけ、苦しむ人に感情移入する人間の本性を刺激し、実話に弱い傾向に訴える。そして残念ながら、人の体験に感情移入するとき、私たちはその体験が伝えるメッセージに対して冷静さを失う。しかもそのメッセージは強く記憶に残る。それは広告宣伝の基本でもある−視聴者をコマーシャル出演中の俳優に感情移入させられたら、視聴者は彼らが訴える内容に批判的でなくなる。そして自閉症問題の場合、結果は破滅的だった。

 わが子に予防接種を受けさせまいと決め、深刻な病気に感染する危険を負わせたとしても、現在の法律は原則としてその権利を認めている。だが、その選択は無人島でなされるわけではない。わが子に接種をさせないことによって、ほかの子どもたちまで感染の危険にさらすことになる。ウィルスの専門家であるポール・オフィットは、こう述べている。「アメリカには予防接種ができない子どもが五十万人いる。癌をわずらい化学療法を受けている子ども、骨髄移植や臓器移植を受けた子ども、喘息のためステロイド薬を服用している子どもだ。彼らは周囲の人たちが予防接種を受けていることを、あてにするしかない」そんな子どもたちがはしかに感染した場合は、死につながりかねない。

 ワクチンは、感染した少数の患者を効果的に隔離し、感染症の急速な蔓延を防ぐための防波堤になる。接種を受けていない人が増えると、一人が感染したあと雪だるま式に感染が広がる可能性は高くなる。アメリカでは現在でもワクチンの接種率が比較的高いため、インディアナでの大発生も短期間におさまった。ウェークフィールドの発言をメディアが大きく取り上げたイギリスでは大発生が増加し、はしかの蔓延がふたたび目立つようになった。メディアが疫学調査にもとづいた主張より、逸話にもとづく主張を重視して放送時間を割いたとき、どんなことが起きるかの実例である。

データは絶対確実なのに……
 私たちの誰もが、ときには第三者からの情報に頼らざるをえない。そして誰もが信頼できる専門家と、その助言を信用する。科学者も、逸話や感情移入に影響を受ける。だが、科学には裏づけのない結論を識別できる方法がある。根拠となっている実験が、反復実証できるか試す方法だ。個人的体験は、大規模な科学調査のように積み重ならない。そして科学的な訓練は、情報の有効性を確かめるのに役立つ。マッカーシーは、善意からではあったが、自分のエネルギーとメディア受けする魅力を、科学的に誤りとされたワクチン=自閉症の原因説にそそぎ、結果として世間の目を、もっと有効な研究からそらさせてしまった。

 マッカーシーは、科学的方法や客観的統計分析より逸話を信じると同時に、自閉症の誤った治療法も信じ込んだ。彼女は自分がわが子の自閉症を、「グルテン・ゼロ、カゼイン(乳蛋白の主成分)・ゼロの食品、ビタミン・サプリメント、重金属解毒剤、腸内の酵母過剰を抑える抗菌剤」で治したと考えた。だが、メディアも科学界も息子の奇跡的回復に、飛びついてこなかった。それが彼女には心外だった。「みなさん驚くでしょうけど、疾病予防管理センターやアメリカ小児科学会をはじめ、医療関係の専門家は誰も問い合わせてきませんでした。エヴァンの自閉症がどうやって治ったか、ちゃんと評価し理解しょうとした人は、一人もいなかったの」

 特別食事療法が効いたという彼女の主張は、正しいのだろうか。そう言えるかもしれない。治療法として有望だろうか。その可能性はない。彼女の食事療法は、自閉症に効いたとされる無数の療法の一つにすぎない。自閉症には強い遺伝的要素があり、自閉症の子どもは、脳の成長がふつうの子どもと異なっている。それを証明する膨大な科学データから考えて、エヴァンの状態が改善したのは、自閉症の子どもに確実に効果のある、行動セラピーの結果である可能性のほうが高い。あるいは成長にともなって、症状が目立たなくなっただけかもしれない。またはエヴァンがそもそも自閉症ではなく、似たような症状をもつべつの障害が、発作を抑えるため投与された薬剤の効果で改善したとも考えられる。

 科学的な推論は、ワクチンと自閉症の関係などの問題解明に力を発揮する。だが、たとえそのデータが絶対確実なものであっても、人びとが科学的な結果を受け入れるとはかぎらない。自閉症治療に関する初期の研究では、消化管ホルモンのセクレチンが注目をあびた。わずか数件の症例からの逸話的な証拠にもとづいて、ブタから採取したセクレチンの注射で、自閉症の症状が取りのぞかれると報告されたのだ。だが、十回以上の小規模な臨床試験では、偽薬(塩水)の注射以上の効果はあらわれなかった。セクレチンを自閉症の治療薬として売り出すため、食品医薬品局から認可をえようとした製薬会社の協力で、大規模な臨床試験も実施された。合成セクレチンの反復投与がおこなわれたのだが、まったく効果が見られなかった。そこに働いていたのは、科学だった。ある薬が有効だという仮説を研究者が試す。無作為に抽出したグループにその薬を投与し、もう一つのグループには偽薬を投与して、結果を計測する。問題が生じるのは、人びとが結果について考えるときだ−科学を信じるか、誤りの多い自分の直感を信じるか。あるいは、自分のほうがよくわかっていると、思い込むか。

 このとき臨床試験の一つを担当したのが、エイドリアン・サンドラーとその仲間だった。彼らは任意に集めた二八人の子どもにセクレチンを投与し、べつの二八人に偽薬を投与した。(少なくともあとから考えれば)当然ながら、セクレチンからはなんの効果も検出できなかった。だが、実験後に親たちとの面接からえられた結果は、それ以上に興味深いものだった。セクレチンにまったく効果がないことを知らされても、六九パーセントの親がわが子にセクレチン治療を続けさせたいと望んだのだ。そしてべつの機会におこなわれた二重盲検(被験者にも実験者にも薬の内容を知らせないで検査する方法)では、わが子に投与されたのはセクレチンと偽薬のどちらと思うか、親たちに判断してもらった。親は実験の客観的測定法では検出できない効果が、自分にはわかると思い込みやすい。そしてその確信をよりどころに、治療を続けさせたい気持ちを正当化する。だが二重盲検では、わが子が投与されたのはセクレチンかどうか推測することさえできなかった−薬が目立った効果をあげなかったため、判断のしようがなかったのだ。

 医療の世界での逸話と科学的データとの争いで大きな問題になるのが、いかなる臨床試験でも、処置を受けた患者の中に、状態が改善する例もあれば改善しない例もあることだ。人は状態が改善されたケースをよく記憶し、処置がその改善につながったと考えがちである。そしてたいていの場合、処置をして状態が改善した割合と、処置をせずに改善した割合は比較されない。改善の原因が処置にあるとすれば、処置をした人のほうが、しなかった人よりよくなる割合が高いはずだ。処置が原因でなければ、想定外のべつの要因が、少なくとも一部の改善につながったのだろう。

人類進化と「都合のいい推理」の関係
 ビジネス書の著者たちは、自分が提唱する説にしたがっても失敗した会社がどれくらいあるか、あるいは自分以外の説にしたがって成功した会社がどれくらいあるか、めったに考えない。ワクチンと自閉症の物語の場合も、同様である。人はワクチン接種を受けても自閉症にならない子ども、ワクチン接種の前に自閉症の症状を示した子ども、接種を受けずに自閉症の症状を示した子どもがどれくらいいるか、考えようとしない。これらの数字が正しく認識されれば、ワクチン接種と無関係に、子どもが同じ割合で同じ年代に自閉症と診断されることが明確になるはずだ。問題を悪化させるのが、認知力と行動力の成長曲線である。どんな親でも知っていることだが、成長は連続してなだらかに進むものではない。体の成長と同じく、認知力もあるとき急激に成長をとげる。自閉症の子どもも、同様である。長期的に見ると状態の改善は認められないが、短期的には大きな変化を示す。たまたま奇跡の新治療法を取り入れたときに改善が目につくと、親は治療の効果と考えやすい。

 自分の考えていた原因が錯覚だったと認めるのは、むずかしい。そして科学や統計の力が逸話をしのぐことは、もっとむずかしい。こうした逸話の威力を端的に示すのが、それが呼び起こす感情の強さだろう。自閉症とワクチンが科学的に無関係であることを記したオフイットの権威ある著作は、アマゾンの読者評の一から五までの評価で、平均三・九点と採点された。この場合の平均は、一番多かった評価ではない。現在の時点で一〇二人による採点のうち、中間の評価(星三つ)はゼロで、七〇人が最高点に、二五人が最低点に投票している!

 ワクチンと自閉症のあいだに関連性はないという証拠は、すでに出揃っているにもかかわらず、私たちの全国調査では二九パーセントの人が「子どもにワクチンを接種させると、自閉症になりかねない」という文章を、正しいと答えている。この根拠のない因果説に対するメディアの過熱ぶりを思えば、この程度の割合で抑えられてさいわいとも言えるが、科学の勝利はせいぜい部分的なものでしかない。二九パーセントの親がこうした思い込みにしたがって子どもにワクチンを接種させない場合、集団免疫率が急激に低下し、はしかの大流行を引き起こしかねない。それに加えて、適切な実験ではなく実体験を根拠にした、自閉症に対する新しい「治療法」が次々に登場し、親たちを危険な方向へ向かわせてもいる。この章を読むことが、原因の錯覚を利用したこれらの試みに対する予防接種になればさいわいである。

 この章で私たちは、原因の錯覚につながる三つの傾向についてお話しした。一つは、偶然のものにパターンを見いだし、そのパターンで将来を予測すること。二つめは、二つのものの相互関係を、因果関係と思い込むこと。三つめは、前後して起きたことに、因果関係があると思い込むこと。原因の錯覚のルーツは深い。私たち人類は、″原因について推理できる〟という点で、ほかの霊長類と一線を画している。幼い子どもでも、ある物がべつの物にぶつかると、二つめのものが動くことを理解できる。そして原因についても推理できる−あるものが動くのは、なにかがそれを動かすからだ。ほかの霊長類はこうした推理はおこなわず、結果として自分たちに見えない原因を理解することはむずかしい。つまり進化の流れの中で、原因を推理する力は比較的新しいものなのだ。新しいメカニズムは、まだ不完全なことが多い。私たちにとって原因を推理することはたやすい−問題なのは、自分に都合のいいように原因を推理するのが、うますぎることである。

本 有頂天家族公式読本 森見 登美彦/著 幻冬舎

有頂天家族公式読本
 図書館で借りてきた。昨年 10 月に予約して数日前にやっと順番が回ってきたのだ。現在(2014/2)では文庫版も電子書籍版も無い。が、ビジュアル要素が多くきれいなので文庫が出てもオススメしない。また、単行本は凝った作りで短編のページの紙の雰囲気などは電子書籍では再現できないので、これは単行本で読むべき本だろう。

 作者のインタビューとか、声優さんのインタビュー、久米田康治、アニメ監督、聖地巡礼・・・とりあえず、最後の書きおろし短編はミニ有頂天家族で面白かった。

 アニメ版を観た方にはオススメする。

本:未来を発明するためにいまできること スタンフォード大学 集中講義II

 スタンフォード大学は、ベンチャー人材の育成といった実学的な教育が多いのだろうか。話題も、ベンチャー企業の成功者の例が多く取り上げられている。この人の授業は客観的事実の論理的構築というより、学生にノウハウを体得させるような内容らしい。アメリカの若い成功者にありがちなポジティブ・シンキングはコミュ症な自分にはついていけないだろう。

 スピリチュアル系ビジネス書と違って、「なるほどなぁ」と思わされることは多い。残念ながら自分のようなベタベタの日本企業に勤めている人間には、試みる機会すらない。

 アイデアを創る必要のある、そしてそれを使う機会のある若い人に読んで欲しい本だ。

 こういう授業があるというのは羨ましい。時代の違いもあるかもしれないが、自分が学生だった頃は一方的に先生が教えるだけで、学生・生徒はあくびをこらえて聞いているだけだった。唯一学生側が口を開かなければならないのは語学の授業で当てられた時だけだ。もっと議論をするようなものに接することができれば楽しかったと思う。

未来を発明するためにいまできること スタンフォード大学 集中講義II
 

「オンライン書店の事実は誰も分からない」または 「GIGAZINE のアホ」

 記事全体にバイアスがかかっているようだが、一番ひどいのは表題になっている部分だ。

 大手出版社の本は紙の本も出ているものだろう。そして、紙版の本の売れ行きを考慮して、日本ほどではなくても、高い価格が設定されるだろう。平均売価が高いことにも現れている。だとしたら、評価が辛くなるのは当然だ。個人出版の240円の本と大手出版社から出されるプロの800円の本とでは同じ判定基準で評価しないだろう。満足度は主にコストパフォーマンスを示す。出版方法による満足度の違いを見るなら同じ価格帯のものを抽出して比較しないと意味が無い。記事には「個人出版作品が読者のニーズをより良く反映したうえに安く販売していると言い換えることもでき」とあるが、そんなことは分からない。これは、オリジナルの記事にはちゃんと記載されていた。というより、GIGAZINE のライターのような分析はどこにも見当たらない。

Note the shortest bar in one graph correlates to the tallest in the other. Is it possible that price impacts a book’s rating? Think about two meals you might have: one is a steak dinner for $10; the other is a steak dinner that costs four times as much. An average experience from both meals could result in a 4-star for the $10 steak but a 1-star for the $40 steak. That’s because overall customer satisfaction is a ratio between value received and amount spent.

 また、オリジナルの記事には ” It’s looking at only a small corner of a much bigger picture.” という断りがあった。ちゃんとしたオリジナルの記事も日本語の記事なることでゴミなるという例だ。

 元記事には上に引いた箇所以外も「ちゃんとした」分析がなされている。個人出版の平均レートが高いのは自分や家族が高い評価をしたり、個人出版社同士が知り合いで互いに高い評価をつけたりする影響があるというのも鋭い。メジャー出版社のベストセラーと7000位の本の平均レートを同じ重みで扱っているのだから

 元記事は、サイトの名称の通り執筆者向けのものだ。日本の状況とは違いすぎるかもしれないし、本文でも断られているように氷山の一角を調べた結果なのでどこまで実際に当てはまるかは分からない。が、GIGAZINE の歪曲した記事とは比較にならないくらい良い記事だ。

大手出版作品は「満足度は低いのに値段が高い」、個人出版作品は「満足度が高くて値段が安い」などオンライン書店の事実が判明 – GIGAZINE
インターネットを使った小売業のビジネスモデルでよく知られている概念に「ロングテール」があり、従来に比べて規模の小さなビジネスでも効果的に商品を販売しやすい体制が構築されてきています。アメリカの作家であるヒュー・ハウィー氏が行った調査では、Amazonで販売されているベストセラー書籍の半数以上は、すでに大手出版社ではなく個人出版による作品であるという、オンライン販売を象徴するような事実が明らかにされました。

The Report – Author Earnings(http://authorearnings.com/the-report/)
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外部記憶依存症?大きなお世話だ!

拡張するストレージ 口承・紙本・ネットで日経サイエンスのGoogle依存について考えた。

 「ネットに依存する」というと、天声人語やアニメ映画監督が顔をしかめる”識者”は多い。しかし、その指摘は「人は今も昔も変わらない。変わったという人は昔を知らないだけ」だ。情報の伝達メディアは時代とともに、石版、粘土板、竹簡、羊皮紙、紙と変わってきた。次がネットだ。それだけのことだ。

 ただし、問題が現れたのも事実だ。従来は物理的にアクセス不可能だった情報に簡単にアクセスできるようになったことで、必要な情報を探す技術が必要になった。Google の保存するテキストは世界一大きな図書館に収められた蔵書よりはるかに多い。しかも、出版というプロセスを経ていないテキストや広告などのノイズ(このブログなどもその一つだ)も多量に含まれている。図書館の書架にある本は、かなりいんちき臭いエセ科学文書も含まれてはいるが、それなりの校正を経て出版社の「出すべし」という判断を受けた上で出版されているものだ。それに対して Google ははるかにノイズが多い。

 紙時代にあった物理的な制約の多くが取り払われた。これからは、情報を持っているということより、大量の情報の中から必要物を取り出せる技術が必要になった。その技術は、図書館で本を写してくるのと同様に評価すべきだ。一時情報源がネットであろうがどこかの誰かであろうが、価値は変わらない。ソースは失ったが、Twitterで「漢字の読み方を街頭インタビューしたら『こんなもん検索したらいいじゃん』と言ってあっという間に調べてしまったギャルがいて目から鱗が落ちた」という物を読んで痛快な気持ちになった。漢字の読み方を覚えていると賢く見えるかもしれないが単なる知識でしかない。ネット端末と検索技術があれば覚えておく価値などない。もちろん、この技術も図書館から文書を探せるのと同様の過渡期の技術でしか無い。画期的な検索技術が開発されれば解決されるだろう。SFにあるようなエージェントによる検索は近いうちに実用化されるだろう(もうされているのか?)。

 次の世代で重要になるのは、得た情報に何か一つでも付け加えられるかだ。たくさんの漢字を覚えていて書けることに価値はない。価値が有るのは漢字を使いこなして、何かをこの情報の海に残せるかどうかだ。富田倫生さんが言われていた「薄紙一枚」を残すために自分に何ができるか・・・

電子書籍元年のはずが・・・「エルパカBOOKS(電子書籍)サービス終了のお知らせ」

20140113_eBook-ending 雨後の筍のように立ち上がった電子書籍販売も需要が増えないまま脱落するものが現れた。ユーザの利便性を無視した専用のフォーマットを各社が採用する中で弱小は消える運命だ。業界の標準フォーマットが策定されて Amazon で買った本も Apple や Google から買った本でも好きなリーダーで読めるようになれば中小も個性的なタイトルで生き残るチャンスが生まれたかもしれないが、現状では無理だ。不便すぎる。

 自分は iBooks が一番読みやすくて好きだが、Kindle のほうが安いことが多いので結果的に Kindle ライブラリが充実してしまった。今となっては、iBook で買ったタイトルを Kindle 版で買っておけば良かったと思うほどだ。一時期ここにも読了報告を書いた森見登美彦の作品で宵山万華鏡だけを iBook で買ったため、ライブラリが分散してしまった。

 もし、本の対価が著作権者が記したテキストを読む権利だとしたら、一度買ったタイトルを異なるプラットフォームでも読めるようにするべきだ。製作や流通のコストがかかっているとしても、著作権者に支払う分は差し引いてしかるべきだ。そのような枠組みができたら、著作権者の権利が尊重される。

 エルパカというのは完全に自分にとって圏外のサービスで買ったことはないのでどうでもいいが、購入した書籍分を返金するというのは思い切った判断だ。Ponta ポイントというローカルなものなので、差し引かれてる感があるが、良心的といえる。

 購入者は立ち読みで全ページを読んだようなものだ。著作権(出版社)への支払はローソンが行っているし、一度は対価を払ったので何ら問題はないが、貸本を借りた時程度の購読料金を負担すべきだろう。今回は、一方的なビジネスの終了でデータの資産的価値(いつでも読める)を毀損することに対する謝罪で相殺したということだろう。

 前後してしまったが、この知らせの後で、SONY が電子書籍ビジネスを縮小するということが発表された。日本でのサービスは継続するということらしいが、日本国内より大きなビジネスだった北米市場で足がかりを失うのは事実上の撤退だろう。Kindle の対抗とされた NOOK も撤退目前だ。日本の独自の電子書籍サービスもこの流れに続くだろう。個人的には Kobo が去る日を楽しみしている。

エルパカBOOKS(電子書籍)サービス終了のお知らせ
株式会社ローソン
エルパカBOOKS(電子書籍)サービス終了のお知らせ

2014年2月24日(月)をもちまして、エルパカBOOKSでの電子書籍サービスの提供を終了することとなりましたのでお知らせいたします。

サービス終了後は、購入済書誌含め、一切のエルパカBOOKSの「電子書籍サービス」をご利用いただけません。(書誌新規購入・再ダウンロード・購入済書誌閲覧含む)

尚、これまで弊社電子書籍サービスをご利用いただいたお客様へ、Pontaポイントによる過去ご利用いただいた購入金額をPontaポイントにて返金するサポートを実施予定です。 詳細はサービス上にて別途ご案内いたします。

■サービス終了までのスケジュール
2014年
1月16日(木):新規電子書籍の販売終了(新規課金の停止)
2月24日(月):電子書籍サービス終了
※購入済電子書籍の閲覧、再ダウンロード、リーダーアプリの終了

本:心を誘導する技術 中 辰哉 (著)

 成功者が語る成功体験記の域を出ていない。ビジネスセミナーの「好感度を高める話し方(架空)」と変わらない。セミナーよりはるかに安いので、そういうものを求めている人にはコストパフォーマンスは高い。

 脳は進んで騙されたがるを期待して購入したら、全く違っていた。マジックで使われる”注意”を操作するテクニックについてマジシャンの視線から解説されるのは興味深いが、なぜそうなるかについては全く検討されていない。

 一言で言うと、「コールドリーディングを使って世渡り上手になろう」という本だ。対人関係の仕事をする上では参考になる考え方は多いだろう。相手の気持になって働きかけ方を工夫するというのは社会性に通じる技術だからだ。それを「相手の立場に立って考えよう」といった無意味な言葉ではなく「こういう場合(相手)には、こういう言い回しをする」と具体的に教えてくれる。相手が欲している事を読んで取り入って操るのは詐欺の手口と一緒なので、この本を読んでテクニックを身につければ、詐欺も商談も犯罪捜査(コロンボもホームズもコールドリーディングの名手だ)もお手のものだろう。

 社交的になりたくも人脈も特に欲しくないと思っていても、役に立つ事はある。相手がこの本に書かれているような語り口や仕草で近づいて来たときに、「このテクニック使ってるな」と分かって楽しめるだろう。占い師や霊媒師のインチキに引っかかることも無くなるだろう。

 「ここに書かれているやり方を自分に対して行う人がいたら」と考えるのも面白い。おそらく全然話がかみ合わないままだろう。自分が特別に用心深く優秀という意味ではない。関心の方向が違うのだ。ポーが「盗まれた手紙」で、警察が隠された手紙を見つけられない理由として、「自分ならこうするという考えから抜け出せない。その方法であればどんなに巧妙にやっても警察が見落とすことはないだろうが、そこから外れると皆目見当がつかなくなる。犯人が警察より頭がいい場合には必ず、頭が悪い場合にも度々出し抜かれる。」と書いた。自分の場合は後者だ。

 この本の作者は大変な努力家で頭も良く才能もある。そして、人一倍欲も強い(欲というと言葉は悪いが、達成欲や成功への意欲といえば近いだろう)。だから、彼の使う手法の大半は人の欲を誘い込んで利用する。儲け話があったら誰でも必ず乗ってくると思っている。乗ってこないのは臆病なだけだから、そのバリアを除けば全員が儲け話に興味があると思っているのだ。ところが、それに興味が無い人間がいたら話は噛み合わないだろう。ビジネス書や経済評論家、政治家が若者論で見落としているのと一緒だが、これについては別の機会に考えたい。

 後、こういう成功者にありがちな見落としで、その人だから出来た、たまたまそうなったということが全人類に当てはまると思っていることだ。そして、「こうすればうまくいく」「努力すればかならず叶う」という。「うまくいかないのは努力が足りないからだ」と。しかし、それだけではないだろう。この人の魅力的な語り方や容姿で語れば聞いてもらえることも、自分のような容姿の人間がたどたどしく真似しても誰も振り向かないだろう。彼には分からないが自分には分かる。

 文章は平易で読みやすいが、半分くらいで投げ出した。「人は話したい生き物なので、あなたの聞く体制が整っていれば、相手も心を開いてくれます。」このフレーズが限界だった。自分は知らない人に話を聞いて欲しくないし、心を開きたくもない。

 オススメしたくないのでリンクしない。古本屋で100円で見つけて、他に読む本がないのなら買ってもいいというレベル。

追記:2014/2/14 Appollo Robbins のTEDでのプレゼンを観た時にこの本との違いに残念な気持ちになったが、出版社がビジネス啓蒙書みたいな本を売りたいという意向で作者に方向性を指示したのかもしれないと思った。中さんが不幸だったのは、「脳はすすんでだまされたがる」の作者のような研究者に出会う機会が無かったことだ。日本の異業種交換会に出て人脈を増やしてもこんな仕事にしかつながらないということだろう。

まさかの退場者:ソニー、電子書籍ストアを北米市場から撤退。ReaderユーザはKoboへ移行対応

 Sony の Reader は Kindle 以前からあって、アメリカでは十分な地盤を築いているのかと思っていた。昨日の PC 事業からの撤退を含め、SONY は大きく変わっていくようだ。まあ、既に SONY は銀行や保険で成り立っている企業だから、「選択と集中」の結果として家電業界から足を洗うこともあるかもしれない。個人的にはパソコンよりテレビだと思うが・・・

 この報道でわからないのは既に買ったタイトルの権利と Reader の行く末だ。「kobo ストアへの移行をサポート」というのは、今持っている本の権利情報を Kobo が引き継ぐということか?あるいは Reader で Kobo ストアにアクセスできるようになるのだろうか?Kobo というのが微妙ではあるが、楽天がやったような切り捨てよりはマシだ。雨後の筍の淘汰の段階で楽天がやったようなユーザ無視の対応が取られると電子書籍の普及が遅れるから迷惑する。

 Amazon は生き残るだろう。Apple や Google のような体力があってインフラを持っている企業が撤退することは考えにくいが、本業が左前になったら不採算部門は切られる。今回の SONY のようにだ。

ソニー、電子書籍ストアを北米市場から撤退。ReaderユーザはKoboへ移行対応 (Engadget 日本版) – Yahoo!ニュース
Engadget 日本版 2月7日(金)2時1分配信

VAIO PC事業の売却や大規模な人員削減などリストラを進めるソニーが、電子書籍ストア Reader Store の北米市場からの撤退を発表しました。ソニーは6日のQ3業績発表で、 通期で300億円の黒字予想から1100億円の赤字へと大幅な下方修正を明らかにしたばかり。

米 Sony Electronics の発表によると、ソニーは米国およびカナダで電子書籍ストア Reader Store を3月下旬にも閉鎖する予定。既存の電子書籍端末 Reader や Xperia スマートフォン、タブレットなどのReader アプリユーザーに対しては、楽天傘下の Kobo ストアへの移行をサポートします。

また Reader ストアの閉鎖に伴い、今後の Xperia スマートフォンやタブレットには Kobo アプリがプリインストールされる予定。なお国内向けの Reader ストアは、今のところ平常どおりに営業中です。

更新:日本の Reader Store に、「今後ご提供予定のサービスのほんの一部をご案内」なる告知が掲載されました。そちらによると、春頃に iOS機器でも書籍対応 (従来は『『ソニーの電子コミック・雑誌 Reader』』アプリで、漫画や雑誌など画像ベースのコンテンツのみだった)。夏にかけてPCで読めるサービス、PS Vita アプリでも書籍対応などのアップデートを準備中とのこと。Reader端末についての言及はありません。

なお余談ながら、ソニーの Reader がどこの国でも存在感が薄かった理由のひとつには、仮にサービスを別にしても(できませんが)、デバイスとしてもアマゾンの Kindle に押されていたことが挙げられます。

特に専用リーダーの存在意義であり、みずから最大の売りとしていたE Ink 電子ペーパーディスプレイは、解像度やコントラスト、応答速度などの点で同世代の Kindle より劣っていることがたびたびありました。

以前 E Ink に取材した際に尋ねたところ、これはアマゾンが E Ink と期間指定で独占供給契約を結んでいたことが理由とのこと。アマゾンに抗して最新の部品を調達できなかった力不足といえばそれまでですが、あながちソニーの不合理な判断として責めることもできません。

本:夏目漱石「自転車日記」「余と万年筆」

 下には、画像を拝借するために Amazon へのリンクを貼ってあるが、両作品とも青空文庫に収録されている。短い作品なので、こんなブログを読む暇があったらお好みのリーダーアプリやブラウザでお読みいただきたい。青空文庫HTML版 自転車日記青空文庫HTML版 余と万年筆

夏目漱石 自転車日記 イギリス留学中に自転車に親しむ(ww)ようになった経緯を綴った日記。自嘲的な軽い筆致は今のブログにも通じる(このブログという意味では、もちろん、無い)。

 森見登美彦の作品が好きな人なら楽しめる作品と思われる。自分は森見登美彦の文体が好きな上に自転車も好きなので、大いに楽しんだ。

夏目漱石 余と万年筆 この文章が書かれてから 100 年以上経った今でも道具を排除することを良しとする人はいる。キーボードで入力された文章には心がこもらないとか、手書きの温もりとかいう輩だ。自分はこれらの考えとは正反対。鉛筆も万年筆もボールペンもサインペンも筆もチョークもスプレーもパソコンのキーボードもテキストデータを記録する道具としては同価値。利便性によって選ぶべきものでしかない。

 夏目漱石にも同じ思想を感じた。彼はつけペンと万年筆の比較から、当時新技術である万年筆の利便性を高く評価している。つけペンへの懐古趣味などみじんもない。万年筆が不調でつけペンで「」を書いた時に最後まで万年筆にしなかったことについて「『彼岸過迄』の完結迄はペンで押し通す積つもりでいたが、其決心の底には何どうしても多少の負惜しみが籠こもっていた様である。」と自らツッコミを入れている。

 さらに「酒呑さけのみが酒を解する如く、筆を執とる人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い事ではなかろうと思」ったとおり、つけペンの時代は終わり、あっという間に万年筆もボールペンに覇権を譲っり、ボールペンもキーボードに席を譲って現在に至った。この後、音声入力や脳波入力の時代が来るかもしれない。

 なお、手書きの美しさや芸術的な価値について否定はしない。美しい字を書ける人が画像として文字をやりとりする文化は無くならないだろう。テキストをやりとりするメディアの一部としてのテキストデータとは別の「モノ」だからだ。それはテキストの持つ情報とは異質の価値を持つ紙本と同じ性格のものだ。

 ところで、あまり意識していなかったが、Amazon の青空文庫で入力された作品の表紙に「青空文庫」というロゴが入るようになった。しかし、iBooks の書籍には青空文庫はない。Amazon の青空文庫の作品には青空文庫のデータの末尾に付加された決まり文句「このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。」が入っているが、iBooks にはこれもない。残念だ。