「自炊代行」は著作権侵害か?

wssm07-91647_pho01 法律の専門家ではないからよくわからないが、自分には納得がいかない。依頼を受けて素材を受託してデータを作成し、両方を依頼者に返却すれば問題がないだろう。受託した素材またはデジタイズしたデータを横流しした場合と一緒にしてはいけない。この記事を読む限りではそこは問われていない。

 この裁判の原告団が「裁断された本がオークションにあった」ということを訴訟の際の記者会見で言っていたという記憶があるが、これもピントはずれだ。自炊代行業者が出品していたのならともかく、依頼者が出品していたら著作権侵害をしているのは依頼者だ。しかも、ここには未解決の権利問題がある。それは、古本問題だ。

 本を買った人が古本屋に本を売るのは現在では法的な問題はない。普通の所有権移転契約だ。じゃあ、その所有者が手で書き写したら?コピーした上で古本に出したら?そのコピーの方法がコピー機ではなくスキャナだったら?コピー機を使わず自分で裁断してスキャンした後だったら?自分で裁断するのが面倒なので誰かに頼んだら?自分で設備を持っていないので持っている誰かに頼んだら?どこから、誰の著作権侵害なのか?

「自炊代行」は著作権侵害 初の司法判断 東京地裁 – ITmedia ニュース
 顧客の依頼を受けて紙の本を電子書籍化する「自炊代行」サービスで著作権を侵害されたとして、作家の浅田次郎さんら7人が、東京都内の代行業者2社に、自分達の作品の複製差し止めなどを求めた訴訟の判決が30日、東京地裁であった。大須賀滋裁判長は業者側に複製差し止めと計140万円の賠償を命じた。
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本:久生十蘭傑作選IV 昆虫図

 久生十蘭の本の中で一番好きな本。短篇集でその水準の高さに驚くほどだ。久生十蘭全集を持っているし、日本探偵小説全集〈8〉久生十蘭集 (創元推理文庫) [文庫]も美味しいが、昆虫図にまさる密度は持っていない(と自分は思っている)。

 残念ながら、昆虫図 (現代教養文庫―久生十蘭傑作選 (894)) は絶版になっているようだが、青空文庫にあるので、ぜひお読みいただきたい。特におすすめの作品をいかに挙げる。ため息が出るような文章。青空文庫にリンクしておくが、ほとんどの電子書籍端末でもダウンロードできるので、入れておくことを、全力でお勧めします。

 残念ながら、「生霊」と「南部の鼻曲がり」はアップされていない(上のリンクは自分が入力したものなので校正は入っていない)。入力作業中の人がいなければ自分が入力してもいいのだが・・入力ボランティアは早い者勝ちだから取られてしまったのだった。入力が終わっているのに校正待ちという可能性も有る(校正もボランティア)。また、主催の富田さんが亡くなられたことも影響しているかもしれない。

本:夜は短し歩けよ乙女 森見登美彦

koiseyootome 四畳半神話大系的と宵山万華鏡、太陽の塔を読んでから読むと面白いかもしれないが、くどいかもしれない。

 結局、主人公は要領よく立ち回り小柄で黒髪ショートヘアで頭と性格が抜群に良い乙女をものにするのも他の作品と同じ。ダメ学生を自虐的に書いているようだが、本当に何もなかった私立文系学生の側の人間ではない。

夜は短し歩けよ乙女 (角川文庫)Kindle 版

久生十蘭「南部の鼻曲がり」全文テキスト(未校正)

南部の鼻曲り(底本:久生十蘭傑作選IV 「昆虫図」教養文庫)
久生十蘭
 これからする話を小説に書いてくれないかね、と玉本寿太郎がいった。
 玉本は開戦初期の比島戦でトムプソン銃にやられて左脚を四分の三ほど短くされたが、終戦後は、じぶんからなんとか局の通訳を買って出て、毎日いそがしそうにしている。
「まあ、やめておく」と私がいうと彼は、「みょうなやつだな、終いまで聞きもしないで。君はいつか『日本人としても立派な日本人は、アメリカ人になっても立派なアメリカ人になるだろう』といったことがあるな。その実例を話そうというのだ。事実だぞ面白い話だぜ」
 といいながら、私の顔にウィスキーくさい息をふっかけた。それが本場物らしいすっきりとしたいい匂いだったので私はいっそう気を悪くした。
「ひとりで本物のウィスキーを飲んで、ひとに匂いだけ嗅がせるやつも相当気むずかしいやつだ」
 玉本は、やあと頭を掻いた。
「ああ、そうか。前渡《アドバンス》でもおれのほうはかまわない」
 義足をひきずりながら奥から一逸を持ちだしてきて、それを暖炉棚のよく見えるところへ置いた。
 以下、玉本の話をするままに書く。

 一

 第二世の日系米人には、袖に縋《すが》っても日本のほうへひきとめておきたいようなのがある。モオリー下戸米秀吉もその一人だった。このモオリー下戸米がつまりこの話の主人公なのである。
 おれがはじめてモオリーに逢ったのは、アラスカのクエンスローにあるベーリング会社の罐詰工場《キャナリー》へ契約の鮭殺し《アラスカボーイズ》[#ルビは「鮭殺し」にかかる]を運んで行くドーソン号の最下船《ダンセラー》だった。おれが見ると、薄暗らい五味桶《キャベージキャン》のような三等室の蚕棚の中断に、端然と身を横たえている一人の日本人があった。品のいい背広をきちんと着て、巻煙草を指にはさんだまま蒼い顔をして目をつぶっている。それもいいが、それが絶対なるShe-boyなんだから人目をひいた。シーボーイってなんのことだね。
 優男《やさおとこ》というと当らない、男おんなもチトへんかな、つまり女にもみまほしき男子なのである。そうはいっても顔がきれいだとかいうのではない。身体のつくりがいかにもなよなよとしていて、手の恰好などはけしからんような気がするほど美しい。見事なのである。ちょうどワットオの絵のようなんだ。
 ところがそれがえらいみかけ倒しなんで、じつは途方もない業つくばりだった。が、そのときはそんなことは知らない。なにしろ万白船中黄二点、全船の白《ホワイト》の中でおれをのけてただ一人の日本人なんだからおれも気にした。べつに気にしなくてもいいじゃないか。
 そうはいかない。クエンスローというのはどんなところだと思うのか。沙港《シヤトル》から二千八百浬《かいり》、アラスカのダッチハーバーの北十度、北氷洋に近い冷涼たる無人地方《ノーマンズランド》だ。
 四月のはじめといえばまだいたるところに流氷が漂っている。濃霧と暗礁で有名なウニマク水道と氷山の間をすりぬけ、まる三週間ベーリングの怒濤に翻弄されながら命からがらクエンスローへ到着するといいう段取りだ。
 こういえばザッとしたもんだが、けっして生やさしいものだと思うなよ。こういうギャレンテー・ボートが無事にアラスカへ着くのは、だいたい十対四ということになっているのだ。
 それはまあいいとしても、クエンスローにはアラスカ蚊と寂寥と飢餓という三つの化物がついている。それに鮭時間《サモン・タイム》になると時間外《オーバータイム》で、一週間一睡もできないようなこともある。そういうひどいことを極光《オーロラ》と幻日《サレドック》と夜中の太陽《ミッドナイト・サン》[#ルビは「夜中の太陽」にかかる]の下で六ヶ月もやるのである。なかなかうまいじゃないか。
 いや、そうでもない。沙港の華盛頓《ワシントン》大学の学生は、go-gettingの気性がさかんで、加奈陀《カナダ》に伐木夫《ランバージャック》に雇われたりアラスカの袖珍工場《ポケットキャナリー》へ行ったりするが、学生のシイズンは二、三日で行けるケチカンかジュノオあたりがせいぜいで、こんな荒っぽい契約《ギャランテー》に出てくる向う見ずなやつは一人もいない。
 なにしろ、そのギャランテー・ボートに乗りこんでいるてあいは、夜中の太陽《ミッドナイト・サン》[#ルビは「夜中の太陽」にかかる]が北から出ようと南から出ようと、海豹《シール》が一と晩に百ぺん吼《ほ》えようと、そんなことにはいっこう頓着しない。うまく大漁とぶちあたれば、一シイズン二千弗《ドル》以上《オーバー》という金の女神《エルロオ・エンジェル》[#ルビは「金の女神」にかかる]の流し目にぼうっとなって、命までもと打ちこんだプロもプロ大|玄人《プロ》。どちらを見ても、腰までの黒のゴム長に亜麻油の黒い防水衣という地獄の大鴉《レベン》のような集団《アーミー》の中に、高尚《ハイブロオ》の背広《スーツ》で出来のいいワットオの絵というんだから穏やかではなかろう。
 捨てておけないような気持になったので、そばへ行って、
「いよう、ケチカンへ銃蘭《レディスリッパー》でも摘《つ》みに行くのかね」
 と声をかけると、ワットオの絵はいくらか巻舌の英語で、
「I beg yer puddin’, you said something, sir?」
 失礼でございますが、なにかおっしゃいましたのでしょうか、という丁重なご挨拶だ。それでおれも丁重に、
「どうつかまつりまして、あなたさまはケチカンのあたりへご散歩にでもお出かけのところかとお伺いもうしあげました次第で」
 するとワットオの絵は、また一段とへりくだって、I am sorry. My Emperor of China と流暢にはじめた。
「I have never been the honour of visit to the orient.」
 失礼ながら支那の皇帝よ、小生はいまだ東洋を訪問するの光栄を有しませんでした、というのは、つまりは日本人はきらいですという意味なのだろうが、こうなるとおれもだまっているわけにはいかなくなった。めんどうだから細かいやりとりは略すが、おれもだんだん滅茶苦茶になって、最後に、
「いくら国籍法が属地主義でもやはり皮膚の色まで変えられないものとみえる」
 と、ひどいことをいうと、ワットオの絵はたちまちピカソの絵のようなひん曲った顔になってDamnとおれに組みついてきたてえから、これはよほど向う見ずなやつにちがいない。それでおれはそいつの襟がみを掴んで突きとばしてやると、貨物艙《カゴ・ホールド》の扉《ドア》に頭をぶっつけてたわいもなくのびてしまった。おい、聞いているか。聞いている。

 なにしろ四月といえばアリューシャンの時化《しけ》時だ。レヴュウなら終幕《フィナーレ》前というところで、汽船は波と風と霧と流氷と、悪天候の総出場《フォーリィナムバー》[#ルビは「総出場」にかかる]の中をとんぼがえしをうちながらころがって行くのである。
 霧は濃厚牛乳《バタミルク》[#ルビは「濃厚牛乳」にかかる]のようにねばりつき、流氷はひっきりなしに舷側にぶちあたるので、ちょうど大鐘の中にでもいるようだ。汽船が軽業舞踏《アクロバチックダンス》をするから乗合いのほうもだまってはいられない。一人残らず寝台《バース》からねだし、あらゆるかぎりの器物とごったまぜになりながら天井まで飛び上ったりまた落ちてきたり、とめどもない馬鹿騒ぎをやる。それが二週間にわたる連続上演というんだから楽ではないのである。このへんのところは少々大袈裟に書いてくれても嘘にはならない。描写はおれの任ではないからやめるが、どうか然るべくやっておいてくれたまえ。承知した。
 大鴉《レベン》といえどもやはり生あるものだから、そう振り廻されてはたまらない。さかんに嘔吐《へど》を吐く。西洋人もやはり嘔吐を吐くというものだという真理をおれはいやというほど発見した。
 しかし、おれは吐かない。嘔吐など吐くと日本人の体面にかかわるというむずかしい抑制がかかっているので吐こうにも吐けない。こういう気持《アイデア》はあまり単純すぎるようだが単純なるがゆえに真実なのである。よくわかった、先へ行け。
 ところが、見ているとワットオの絵も嘔吐を吐かない。まるで down and out というぐあいに痩せ細りながら、それでもぎゅっと眼をつぶって頑張っている。健気だといいたいところだがおれはそうは思わない。憎らしくなって、今日吐くか明日は吐くかと楽しみにして待っていたが、とうとう聖《セント》ミチェルの港へ入るまで期待に添ってくれなかった。港へあがってから、
「いようだいぶ柳すがた[#ルビは「柳すがた」にかかる]になったね」
 とひやかしてやると、ワットオの絵は波止場の繋船柱に縋りつきながら、
「O not much just my size.」
 はあ、いえ、ちょうどいい加減に、などと減らず口を叩いた。
 そこから会社のタグ・ボートでユーコン河を百浬ほどのぼり、ここがクエンスローだと追いおろされたところは、菅《すげ》がチョビチョビと生えた雪まじりの沼地で、骨ばかりになった雑木林と斜にかしいだ半潰《つぶ》れの木骨小屋《フレームハウス》[#ルビは「木骨小屋」にかかる]が霧の中からぼんやりとあらわれだしている。いや、見るからに腹の立つようなひどいところだったよ。
 風景はこの話に関係ないから略すが、キャナリーへ着くと、モオリーは雑木林の向うのアメリカ組の木骨小屋《フレームハウス》[#ルビは「木骨小屋」へ、おれは希臘《ギリシア》人やアルメニヤ人の移民組の天幕と互いに別れ別れになって、こんな狭い土地にいながらめったに逢うようなこともなくなった。
 人間というものは、こういう茫漠たる大自然の中へとりこめられてしまうと、むやみに心細くなるものだとみえ、雪ほおじろが人も恐れずに沼のほとりでピョンピョンはねているのを見てもO my friend と呼びかけたいような気がしたりする。いやなやつだと思っても仲よくするか喧嘩するか、どちらかの形式で友情を持続せずにはいられないのである。
 二人がめったに逢わないのは、向うが逢うまいとしているから逢わないので、モオリーの態度はおれとても面白くなく思ったが、それはそれとして、いつもおれの心について離れないのは、モオリーのごとき絵のような She-boy が、なんのためにこんなアラスカのどんづまりへやって来なければならなかったかということであった。これはあとでわかったのだが、それにはそれだけの理由があったのである。
 モオリーの父親はモオリーを愛するあまり、モオリーがいつでも日本へ帰れるように、モオリーのために日本の国籍を保留しておいたが、これがモオリーを悩ませる種になったのである。徴兵適齢に近くなると、日本を選ぶかアメリカを選ぶか、いよいよどちらかにきめなくてはならぬというむずかしいところへ追いこまれた。
 当事者にとっては、それを麺麭《パン》にしようかマカロニにしようかというような簡単なことではないらしい。いちど迷いにつかれだすと容易に解決しかねるとみえるのである。それでモオリーは長い間悩んだすえ、その苦痛から逃れるために雪《スノウ》、つまりコカインをやりだした。そんなことぐらいにどうしてそんなに悩むのか、それは当人だけに属することで、他人がとやかくいう筋合のものではないのである。
 しかし、コカインの中に問題を解決する鍵があるわけではないから、コカイン常習の悪癖を身につけただけで、問題は依然としてそのままに残された。最初、ドーソン号のダンセラーでおれの眼をおどろかせたあの異常なまでのなよなよやすばらしい手の美しさは、要するにコカイン常習者の商標《ブランド》のようなものであったと後にして重いあたったわけである。いくらか面白くなってきた。
 面白いのはこれからだ。それでそのモオリーが、どういう動機で踏ン切りをつけたか、そこまではきけなかったが、ともかく、いよいよアメリカ人になると決心し、領事館に国籍離脱の届出をすると同時にクエンスローのシイズンの契約をした。二千六百哩《マイル》もアラスカの奥へ入りこんでしまえば、六ヶ月のシイズンが終るまではどんなことがあってもアメリカへ帰れない。のみならず、アラスカの雪《スノウ》は Snow は Snow でも本物の雪《スノウ》でけっしてコカインではない。六ヶ月の間コカインと「親父の幽霊」から隔離され、その間に心身ともに健全な、忠誠なるアメリカの市民をつくりあげようという、偉大な決意にもとづいたことであった。
 そういうあわれなモオリーが、「親父の幽霊」の眷属《けんぞく》ともいうべきこのおれに、沙港《シヤトル》からアラスカまでつきまとわれなければならなかったというのは、たしかにひとつの不幸であった。ようやく日本を思い切ったばかりのところへ、おれのようなやつにチラチラされては、どうにも気が散ってやりきれなかったにちがいない。アメリカのほうへ気持《アイデア》を集中するために、つとめておれのチラチラを避けようとしたのは、まったくのところ、無理もない次第だというほかはない。手っ取り早くいえば、モオリーは懸命に忠誠なるアメリカ人になり切るために真剣な「行《ストイ》」をしていたわけなのであった。

 それからしばらくしてから、くだらないことでモオリーと喧嘩をした。それはこういうわけである。
 その前に、ちょっと鮭《サモン》の話をしておこう。ユーコン河をのぼってくる鮭は王《キング》、犬《ドック》、紅《レッド》、銀《シルバー》の四種になっている。王鮭《キングサモン》は、ほかの三君が二呎《フィート》半からせいぜい三呎どまりなのに、長さは四呎半、胴廻りすら一呎半もあって、王《キング》というより化物《モンスター》というほうがいいような雄大なやつだ。ほとんど全部が胴腹に U.S.A と合衆国のマークがついているのは奇観である。冗談いってはいけない。
 冗談ではない、ほんとうの話だ。それは、以前、刻印をつけてこの河へ放流した、水産局の幼魚が成長し、天性たる帰趨性にしたがってもとの古巣へ帰ってきたまでのことで、そうとわかればなあんだと思うが、胴腹に合衆国の略語をつけた大きな鮭《サモン》が、背鰭《せびれ》をそよがせながら河の浅瀬をのぼってゆくのを見ると、おや、狐にでもつままれたかと、誰しも一応はびっくりするのである。
 むかし南部藩に相馬大作というえらい鼻曲りの士《さむらい》がいて、「南部の鮭で鼻曲り」というのはそれからはじまった地口だと講談で読んだことがあるが、犬鮭《ドックサモン》はつまり日本で「南部の鼻曲り」といっている。なるほどブルドックの鼻に似ていないこともないが、名称としては、犬《ドック》よりも鼻曲りのほうが雅味があるようである。
 紅鮭《レッドサモン》は要するに紅鮭《レッドサモン》で非常に態度が鮮明だが、銀鮭《シルバーサモン》となると、そのうちあるものは王鮭《キングサモン》に似、あるものは鼻曲りにそっくりで、そのくせ雑種というのでもない。中間的なはっきりしない存在である。四呎半氏がアメリカで鼻曲りが日本だとすると、銀鮭《シルバーサモン》はまず日系米人というところかね。
 これは余談だが、四月の終りごろになるとそろそろ鮭が上りはじめ、鮭船《サモンボート》がぼうぼうの網から鮭を集めてきて、それを河岸の平底船《スカウ》へどんどん投げこむと、三十呎四方の魚揚場《フィッシュデッキ》にみるみる鮭の山ができる。
 おれは魚揚《ビッチフィッシュ》の助に出て、王《キング》と犬《ドック》を選り分けては魚切機《ブッチャーミシン》へ行くエレベーターへ投げこんでいると、モオリーが事務所《オフィス》のほうからぶらぶらやってきて、魚揚場《フィッシュデッキ》のそばへ立って見物をはじめた。
 モオリーがそれほど深刻におれを忌避していようとは知らないし、ちょうど退屈している折だったので、一席、鮭《サモン》の比較論《コンパレ》をやってやると、モオリーは鮭の山から犬鮭を一尾つかみあげて、逆吊りにしてつくづくと眺めてから、
「Yep’, he’s look like it.」
 やあ、よく似てる、といっておれの顔をみた。それでおれは、じゃ、お前はなんだよときいてやると、モオリーはすました顔で、おれはアメリカ市民だから、もちろん王鮭《キングサモン》さというからおれは笑いだして、
「そうではあるまい。お前なんか、要するに銀鮭《シルバーサモン》よ。どろしてもアメリカ人だと言い張るなら、腹を出して U.S.A の刻印《マーク》をみせろ。どうだ、ねえだろう、蕪《タアナップ》め」
 とやりつけてやった。モオリーは蒼《あお》くなっておれを睨《にら》んでいたが、
「Looking at you!」
 ご健康を祝すといって、持っていた犬鮭《ドックサモン》をいきなりおれの胸へ投げつけた。まったく、これはこれなので、おれはその犬鮭《ドックサモン》を掴んでモオリーのそばへ行くと、
「The same to you!」
 お返しだよ、といいながら、鮭でモオリーの横っ面を力まかせに撲《なぐ》りつけ、ひょろけるやつを襟首と尻《ヒップ》をつかんで鮭の山の中へ埋めてやると、モオリーは頭から爪先まで鱗にまみれて、まるで亜剌比亜夜話《アラビヤンナイト》の王子のようになった。
 六月になると、いよいよ鮭時《サモンタイム》がはじまって、眼が廻るほどいそがしくなった。
 ここでちょっと鮭罐の工程を説明しておくが、河岸の魚揚場《フィッシュデッキ》からエレベーターで上ってきた鮭はそのまま魚切機械《ブッチャーミシン》へ入って頭と尾を切られて魚洗場《ワッシュフィッシュ》へ出てくる。
 血や臓腑の残りをきれいに洗われたやつは、回転庖丁のついた箱を通って幅二吋《インチ》半の切身となって受桶へ落ちてくる。その途端に空罐が約七寸の勾配で上のほうからゆっくりと下ってきて、一封度《ポンド》の魚肉とひとつまみの塩をさらいこみ、調帯《ベルト》に飛って罐叩きのいる仕上台へ流れてくる。
 ここで仕上げをして閉蓋機械《カバーミシン》の鉄管を通し、いちど冷却してから蒸気釜《ボイラー》へ入れるという順序だが、いちばんむずかしいのは最後の仕上げをする罐叩きの役である。
 調帯《ベルト》に乗ってくるやつは、けっしてキチンとした状態になっているのではない。そこが機械の浅ましさ、罐を開けたときの、われわれの美的印象などは全然考慮に入れない。やや一|封度《ポンド》に近い魚肉と、定量の塩をさらえこむと、肉がはみだしていようとよじれていようと、なんのおかまいもなくどんどん流してよこす。
 罐叩きは、そいつを仕上台の鉄板に叩きつけて肉を罐の中へ安定させ、隙間のあるものは小間片を挿し込み、魚皮がよじれているのは手際よくなおして罐の中へおしこんでやる。これだけのことを三秒以内でやらなければ一人前の罐叩きとはいわれない。平罐《フラット》のほうはまだしも扱いやすいが、高罐《トール》となるととても駆けだしの fresh eggs などの手に負えるものではないのである。
 鉄板に罐を叩きつけるといっても、これにはなかなかコツがあって、下手に叩きつけると、中身が罐から飛びだして手に負えないことになる。罐の底がいつでも平らに鉄板にあたるようにし、それがまた弱くても強くてもいけないのである。
 おれはケチカンやジュノオでさんざんやっているので、鮭時《サモンタイム》になるとすぐに高罐《トール》の罐叩きに廻ったが、どうしたものかしばらくすると、3番台のマリオという伊太《イタ》公《こう》が引っこんで、そのかわりにモオリーがやって来たのにはあきれた。
 事務所《オフィス》では日本人のおれが相当にやるから半日本人《セミジャパニーズ》のモオリーにも出来ないはずはないと考えたのだろうが、廻すほうも廻すほうだが、引き受けるほうも並たいていなわけではないと思った。
「おい、モオリー、お前はやはり魚洗《ワッシュ》で鮭の臓腑をいじっているほうがいいんじゃないのか」
 Take it from me 悪いことはいわないぜ、と忠告すると、モオリーは例によって、むやみにこめかみのあたりをひきつらせながら、
「You don’t know me yet.」
 あなたは私というモノを知らないのである。日本人がやれることを、どうしてアメリカ人がなし能《あた》わざるであろうか、 ain’t it?というむずかしいことになった。
 おれは敗北して、結構、ではやってみるがよかろうといって放りっぱなしておくと、果せるかな、叩きつけそこなって鮭をばらまく、そいつを大汗で掻き集めて罐へおしこむ、それをまたばらまくというえらい騒ぎになった。そのうちにいよいよ手に負えなくなって、むやみに調帯《ベルト》をとめるので、だんだん罐がたまりこんで収拾のつかぬ状態になった。
 おれはべつに気の毒だとは感じない。心中、これは面白いと思っているものだから、どうするつもりだろうと興味をもって眺めていると、モオリーはどこかへ行って角砂糖夾み《シュガートング》[#ルビは「角砂糖夾み」にかかる]と辛子匙《ムスタードスプーン》と椅子を持ってきて、どっかりと椅子に腰をおろすと、貯めこんだ罐には眼もくれず、糞落着きにおちついてトングとスプーンを使って毛彫細工のような克明な仕事をやりはじめた。

 四
 モオリーはどれほど夢中になって鮭罐と取り組んだか、それを仔細に物語ると、モオリーという人間の剛情さがわかって面白いのだが、ここでは深く触れずにおこう。
 モオリーは暇があれば屑肉と空罐で熱心に罐叩きの練習をしていた。罐叩きの音でうるさくて眠られないと近所のキャンプから苦情がでると、河岸に繋[#原文は旧字、37-16]留してある平底船《スカウ》へ行ってやった。
 モオリーの執念はなんとかしておれのレコードを破って鼻を明かせたいというのだったろうが、おれのレコードを破る前にモオリーのほうが先にまいってしまった。
 まいったといっても死んだのではない。たいして丈夫でもないくせに、あまり無理な頑張りをつづけたので、過労が重なってぶっ倒れてしまったのである。
 無理といえば、モオリーの身体でアラスカなどへやってきたことがそもそも無理なので、結局のところ、モオリーがやっていることはなにひとつ無理でないものはないのだから、それやこれやでひどい貧血症をおこし、貴婦人《デイム》のようにむやみに卒倒するのには弱った。それでもエスキモーの肩にすがって剛情にキャナリーへ出てきたが、まもなくそれもきかなくなってどっと寝こんでしまった。
 モオリーは雑木林のはずれの校倉《あぜくら》づくりの小屋に寝ていたが、七月といえば王鮭《キングサモン》が終ってまさに犬鮭《ドックサモン》のシイズンにかかり、毎日六千尾から一万尾という、鮭時《サモンタイム》の中でもいちばん忙しい時期で、二線《セカンドライン》の機械まで動員して今日も終日《オールデー》、明日も終日《オールデー》という騒ぎだから、モオリーを看てやろうなどという人間は、一人も half もありはしない。前の日の汚れた食器が次の日の夜までそのまま枕元のテーブルに放りだしてあったりした。
 仕事を切りあげて夜食をすませると、たいてい夜半すぎになるが、いつ行って見てもモオリーは窓のほうへ顔を向け、黄昏《たそがれ》とも夜明けともつかぬ薄ら明るい北方の夜半の景色をぼんやりと眺めていた。
 おれが入って行くと、モオリーはいかにも冷淡な口調で、
「 What’s the matter?」
 どおしたんですか、などと剛強に弱みを見せなかった。そのくせ、帰ってくれともいわない。おれはモオリーの枕元に坐って、勝手にしゃべりたいことをしゃべる。モオリーは一と言も口をきかないのである。
 親切が仇というのは、おれとモオリーのような場合をいうのではないかね。おれが親切をつくせばつくすほど、モオリーがいっそう苦しむと知ったら、おれはモオリーのとこへなぞ出かけて行くはずもなかったが、その時おれはまだなにも知らなかったのである。
 モオリーはなおりもせず、悪くもならないという状態で八月の中頃まで寝ていた。おれも根気よく通った。アラスカにも夏が来て、沼の岸にきんぽうげや釣鐘草が咲く。それを摘んで持って行ってやると、モオリーはそのたび当惑したような羞《はに》かんだような、なんともいえないふしぎな表情をうかべた。
「どうもありがとう」
「これだって、いくらか飾りになるぜ」
「アラスカまで稼ぎにくる人間に、花なんか無意味ですよ」
 などといった。
 ある日、モオリーはめずらしく顔に血の気を見せて、日本の草花のことをたずねていたが、そのうちに、じぶんの父親は盛岡の近くの相馬という村から移住したというような話をしかけたが急に気まずそうな顔をして黙りこんでしまった。
 講談はおれのもっとも好むところだから、たちまち連想が働いて、
「お前の日本名《ジャパニーズネーム》は下戸米秀吉というのだったな。するとお前は相馬大作の子孫というわけか」
 とたずねると、モオリーは渋ったようで、いつか父がそんなことをいったことがあるとこたえた。
 おれは面白くなって、
「へえ、そうか。するとお前の鼻曲りは血筋のせいなんだな」
 といった。モオリーはそれはなんのことかときくから、南部藩士下斗米秀之進、後の相馬大作が、南部藩の領地を私収した津軽藩主を三代までたおし、とうとう本懐をとげた次第から、矢立嶺の張抜筒と佐多の渡しの引き込みを一席やって、「南部の鮭で鼻曲り」というのはこの相馬大作から出たことだと話してやると、モオリーは黙って最後まで聞き終ってから、
「 He arrived ……but my soul never get anywhere……what am I living to…… 」
 と低い声でつぶやいた。彼は行きついた、しかし、おれの魂はどこへも達しない、おれはなんのために生くるのか……直訳すればまあこうだが、あまり調子がへんなので、それはなんのことだと聞きかえすと、モオリーは、
「 I just ……」
 と、なにかいいかけて、そのままふっと口をつぐんでしまった。
 それから三日ほど後の夕方、ジョウというエスキーモーが、モオリーが小屋から出て出て行ったきり帰ってこないといいに来た。
 小屋へ行ってみると、なるほど寝台が空になっている。どこへ行ったのだろうと思ってそのへんを探し廻っていると、燻製《くんせい》小屋の横からオオミヤクという泥沼のほうへ向っているモオリーの足跡をみつけた。
 下手に踏みこむと命もとられかねない悪い泥沼なので、これはいやなことになったと思いながら足跡について沼の岸まで行くと、果してモオリーが、胸まで沼にはまりこんだままじっとこっちを見ていた。観念して死を待っているような凄味のある落着きかたで、
「おい、どうした」
 と、声をかけたが返事もなかった。
 おれはキャナリーへ人を呼びに帰ろうとしたが、見るとモオリーは一寸一寸と微妙に泥の中へ沈んでいる。竿《さお》でもと思ったが、もとよりそんなものがあるべきはずはない。この上はおれが泥の中へ入ってモオリーを押しあげてやるほかはないと判断した。
 これは非常に危険な方法だが、モオリーがおれの手鐙《てあぶみ》に足をかけて機敏に泥からぬけだしてさえくれれば、おれの体力なら、そのあとで一人で藻掻《もが》きだせないこともないとかんがえたのである。
 それで、おれはかまわず踏みこんで行くと、三歩と歩かないうちにいきなりズブズブと腰のへんまでぬかった。それでもどうにかモオリーのそばまで行きついたので、モオリーの腋の下へ手を入れて引きあげようとすると、そのはずみにおれのほうがモオリーよりも深く沈んでしまった。
 助からないというのはこのことだったが、愚図愚図してはいられないので、お前は足を動かせるのかとたずねると、右足だけならどうにか動かせるとこたえた。それでおれは、
「おれはこうして立っているから、お前はおれの腰骨でも腹でもどこでもいいからどんどん足蹴《キック》しながらすこしうつ藻掻《もが》きあがるんだ、いいか」
 というと、モオリーは眼を伏せたまま返事をしない。おれはイライラしてきて、
「おい、どうしたんだ」
 というと、モオリーは、
「私にはあなたを足蹴《キック》するだけの勇気はありません」
 とつまらないことをいいだした。おれは腹を立てて、
「くだらないことをいうな。まごまごしているとおれまで死んでしまう、早くしろ」
 と怒鳴りつけた。なにかもぞもぞしたものがおれの脇腹のあたりをくすぐりだした。なんだと思ったら、おれの手をさがしているモオリーの手だった。

 東京の市中をジープが走りはじめると、おれはまたモオリーのことを思いだした。
 それはどうしたって思いださぬわけはいないのである。モオリーのむずかしい加減の悩みは、要するに日本というものをあまり気にしすぎたためだったのだが、オオミヤクの泥沼で思い切っておれを足蹴《キック》した瞬間、はじめて日本の幽霊からぬけだすことができたのだとおれは信じている。そうしてみれば、あの真実なモオリーのことだから、アメリカ人としても類のないいいアメリカ人になってくれたに相違ない。
 おれが猛烈にモオリーのことを思いだしたのは、けっしてこんどがはじめてではない。開戦後まもなく、フィリッピンに上陸したときは、一分一秒といえども、モオリーのことを考えない瞬間はなかったといってもいい。
 七年前、沙港《シヤトル》の第二番埠頭《オーフ》で別れるとき、モオリーは、
「私とアメリカの契約《ギャランテー》は、とても罐詰工場《キャナリー》のようなものではない。前金《アドバンス》もないし、それにシイズンは長いです」
 といった。あの鼻曲りはアメリカの敵と戦うために真っ先に飛びだしたにちがいないし、来るとすればまずフィリッピンだから、かならずここでモオリーに逢うあろうという確信のようなものが、いつもおれの心にあった。
 あの小さな樹海《サヴァンナ》のはずれで、たぶん向うの独立樹の下あたりで、こんどこそこんどこそと思いながら進んで行ったのである。
 たとえば狭い地隙の曲り角のようなところで、だしぬけにひょいと二人が顔を見合したとしたら、いったいどちらが先に射ちだすだろう。いや、どちらかがいきなり射ちだすのはいい。ニヤニヤしながら顔を見合わせているような時間が三十分もつづき、
「ハロオ、ジュタロ」
「ハロオ、モオリー」
「とうとう逢ったな、元気だったかね」
「とうとう逢った。うまくやってるか」
などと挨拶をかわし、それからあらためて銃をあげて狙い合うようなことになるのだとしたら、この世にこれ以上残酷な瞬間はありえなかろう。
 ともかく、それだけは助からないから、そういう場合、おれとわからないですむようにむやみに髭《ひげ》を伸しておいた。
 フィリッピンではとうとうモオリーに出逢わなかった。おれの左脚を四分の三ほど短くしたのはモオリーではないべつのアメリカ人だった。
 戦争がすみ、アメリカ人が勝者《ウイナア》として日本へ乗りこんで来た。おれはモオリーに逢いたかった。おれを足蹴《キック》にしたやつがどんな立派なアメリカ人になったか、日本の秋晴の中でつくづくと見届けてやりたいのである。おれがなんとか局の通訳を買って出ていそがしくやっているのは、そうでもしたらモオリーに逢う機会がすこしでも多くなるかと思ったからに外ならない。それでモオリーに逢ったのか。
 お前は小説家らしくないことをきく。逢わなかったらこの話のまとまりがつかんじゃないか。逢ったとも、もちろん逢った。それも真っ昼間、神宮外苑の芝生の上で逢った。
 美術館に向って右側の欅の樹の下で、足を投げだして煙草を喫っているのはどう見てもたしかにモオリーなので、おい、なにをしているんだ、と声をかけると、モオリーは振り返りもせずに、
「 None of your business! 」
 大きなお世話だ、と剣突《けんつく》をくわした。むかしと変らない鼻曲りぶりだった。おい、おれだ、寿太郎だよというと、モオリーはいきなり立ちあがって、
「おお、ジュタロ、お前は戦争の間、こんなところに隠れていたんだな」
 といっていきなりおれに抱きついてきた。おれがだまって裾《すそ》をまくって見せると、モオリーはヒュウと口笛を鳴らして、
「ああ、これはまずい。おれならもっとうまくやってやったのに」
 といかにも残念そうな顔をした。
 モオリーは休暇に盛岡の相馬村へ行って、相馬大作の墓を見て帰ってきたばかりのところだといった。
「ダイサクの墓《グレーヴ》に敬意を表しに行っただけなんだが、ヒデが来たヒデが来たと good know how many が大歓迎をしてモチ・ブレットやセキハン・ライスをいやというほど食わせた」
 と、うれしそうな顔をした。おれはむっとして、
「くだらない、お前はアメリカ人じゃなかったのか」
 と毒づいてやると、モオリーは、
「イエス、アメリカ人はアメリカ人だが、お前が知っているところのモオリーとは訳がちがう。ちょっと見せようか」
 というと、おれの顎に猛烈なストレート・レフトを食わせておいてグランド・レスで身動きができないようにおれを芝生へおさえつけた。おれは口が渇くほど腹が立ってきて、
「アメリカが勝ったと思っていい気になるな」
 と怒鳴りながら、懸命にはねかえしにかかったが、口惜しいが義足ではあがきがつかない。観念してぐったりとすると、モオリーが、
「お前は右足がきくんだろう、なぜ足蹴《キック》しないか」
 と忠告した。おれはそうだと思って、力まかせにモオリーの腰を足蹴《キック》すると、モオリーは向うの欅の根元までころがって行って、
「ジュタロ、これで借りはないぜ」
 といってヘラヘラ笑いだした。

Philip.K.Dick 、Do Androids Dream of Electric Sheep?,『アンドロイドは電気羊の夢を見るか?』

51GRWPOaAdL 様々なところでこれをもじった表現が使われるが、これがオリジナル。この本を読んだことがなくてもそちらの表現を知っている人は多いだろう。Blade Runnerの原作としても有名。

 実は自分も、その一人だった。数年前に読もうと思って文庫の古本を買って途中まで読んだ記憶があるのだが、途中から全く記憶に無い。そして、その本が見当たらない。「どっかから出てくるかな」と放置していたが全然出てこない。というより、本が積んであるようなコーナーの整理を全然していないので出てくるはずもない。

 ひょっとしたら、買ったという記憶が記憶の錯覚かも知れない。途中まで読んだ記憶は大昔に立ち読みで読んだのかもしれない(ここ10年くらい立ち読みをしていないので、しているとしたらそれより前だ)。しかし、今のと違う表紙だった記憶まで残ってるが・・・自分の記憶があてにならないということは学んだ。立ち読みした記憶や前のカバーの絵の記憶などがごちゃまぜになって、買ったという記憶が作られたのかもしれない。

 内容については書かない。読むことをオススメしたいから。特に、2013/10/06 現在 Amazon の電子書籍で安売りをしているので、強くおすすめしておく。自分は、iTunes で通常価格で購入して読んだ。Amazon版のアンドロイドは電気羊の夢を見るか?をどうぞ。

 映画をちゃんと見たことはない。映画の尺にするためにはかなり端折られたり、映画的に見栄えがするシーンが追加されたりしているだろうから、この作品を読んだほうが満足感は高いだろう。

 近い将来人類が直面しなければならない問題へ心の準備のためにも読んでおきたい。

Amazonの書籍割引と無料配達を禁止する法案が書店を守るためフランスで可決へ

Unknown フランスの国民が自分たちの利便性と金を犠牲にしてでも本屋を残すという合意がとれたのなら他国の人間が口出しすることではない。これまで Amazon で本を買っていた人がリアル書店で買うようになるか電子書籍に移行するかは分からない。

 自分なら、経営を時代に合わせて変わることを怠って、ライバルへの足枷を付けるように政治的圧力をかけるような業界には反発しか感じないから、全面的に電子書籍に移行するだろう。というか、今年に入ってリアル書店で本を買ったのは漫画数冊だけだ。それ以外の本はほとんど図書館で借りた。最近10冊くらい本を買ったが、すべて kindle か iTunes だ。

 紙本の物理的移動サービスは終わる。生き残るのは、電子書籍が主流になっても「紙の本で持ちたい」と思えるような大判の写真集であったり児童書などしかない。本屋はビジネスモデルを見なおすしかない。

 書店の経営状態が悪化する原因として、Amazon をメインとする通販と考えての法改正だが、他の要因はないんだろうか。通販書店を含んだ書籍販売金額は減っていないのか?国民の紙本の消費量の減少はないのか?不況による可処分所得の低下による本支出の減少はないのか?電子書籍への移行による紙本への支出の減少はないのか?古本屋は?eBayは?これらが原因ならAmazonにハンデを課しても長期的には書店の経営状態は悪化の一途をたどるだろう。

 フランスの書店の経営状態が改善するかどうか見守りたい。

Amazonの書籍割引と無料配達を禁止する法案が書店を守るためフランスで可決へ – GIGAZINE

フランスの議会下院が10月3日、インターネット商取引の大手であるAmazon.comなどが提供する、書籍割引販売や無料配達などを組み合わせたサービスを禁止する法案を全会一致で可決しました。これはAmazonのようなインターネット・ショッピングサービスを提供する企業たちから、経営不振に陥る国内の書店を守るための法案、とのことです。
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角川がkidleキャンペーン中

 10月1日限定らしいが、2日18時現在まだ価格は低いままだ。とりあえず2冊買った。

四畳半神話大系 森見 登美彦 330円
図書館で借りて読んだが、作者を応援する気持ちで購入。おすすめ度8/10
ソドム百二十日 マルキ・ド・サド、 澁澤 龍彦 130円
森見登美彦以上に読み手を選ぶファンタジー作家サドの作品の一つ。オススメ度3/10
夜は短し歩けよ乙女 森見 登美彦 270円
自分は440円で買った。未読なので、オススメ度?/10
O嬢の物語 ポーリーヌ・レアージュ 150円
紙本を持っている
一万一千本の鞭 ギョーム・アポリネール 130円
紙本を持っている

 江戸川乱歩もオススメだが、全部持っている作品だったので買わなかった。他に横溝正史シリーズもあった。あのように太い文庫本は重いし読みにくいので電子書籍のメリットは大きいだろう。

著作権による保護は本を普及させず逆に「消失」させているか?

book この調査は著作権に対する疑問を投げかけているようだが、物流と著作権(コンテンツ利用権)を同一に議論している。

 この傾向は紙本の物理的な側面によることも大きのではないだろうか。紙本の場合は製造・流通にコストがかかる。保管のコストもかかるので、著作権が切れるまで売れるような冊数を印刷するバカはいない。死後数十年間継続的に版を重ねられるタイトルは少ないだろう。これがタイトルが低減する理由だろう。更に、著作権が切れた時にはそのタイミングに合わせて再版されることも多いだろう。これが、著作権切れ前後のタイトル数に差があるひとつの理由だろう。死後XX年とか、生後XX年とか銘打ってキャンペーンを打つ例も多い。 

 電子書籍になれば削除する必要はなくなる。在庫コストもほとんどない(ストレージの単価は低下する一方だし)。100年後同じような調査をすれば、出版された書籍が年を経るとともに減るということはないだろう。著作権料を払わなくてよくなったら本の価格が下がり売上冊数が増えるかもしれないがタイトル数には影響はしないのではないだろうか。

著作権による保護は本を普及させず逆に「消失」させている – GIGAZINE

著作権法は、作者の権利を保護し文化の発展を促進させることを目的としています(著作権法第1条)。この理念は世界各国の著作権法でも同じです。「文化の発展」には、作品をより普及させること、すなわち多くの人の手に渡るようにするということも含まれています。しかし「著作権による保護がかえって本の出版をさまたげているのではないか?」という驚くべき研究結果がアメリカで発表されました。著作権のせいで本がかえって普及しないとは一体どういうことでしょうか。
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電子書籍元年っていつ?

 流行りモノ通信簿という podcast で「毎年電子書籍元年」という言葉を聞いた。Amazon のアメリカ市場では書籍の半分の売上が電子書籍になったアマゾン Kindle版電子書籍の販売冊数、紙本の全種合計を上回る – Engadget Japanese。SONY のリーダーやシャープのガラパゴスが発売された当時から毎年「元年」という掛け声を聞いてきたが、未だに普及したという実感が無い。

 PowerZaurus MI610 に電子書籍リーダーを入れて青空文庫を読んでいたデジタルヲタにとっては、昨今の電子書籍環境は夢のようだ。スマートフォンやタブレットがプラットフォームとして十分な数が出、機能的にもストレージ的にも電子書籍リーダーとして「使える」レベルになったこと。専用の端末が1万円を切る価格帯で発売できるようになったこと。回線費用が大幅に下がったことなど、10 年前には考えられなかったレベルに達している。

 にもかかわらず、電子書籍が日本で普及しないのはなぜか。日本の商習慣、日本人(作家、読者)の意識、権利関係の不透明さといった社会的なハードルが大きいように思う。下に、思いつくままに壁を列記してみる。克服できるものかどうか分からないし、克服してまで電子書籍に移行する必要があるのかどうかも分からない。ただ、社会的な資源としての森林資源の保存という意味でも電子化への流れは止められないと考えている。

  1. 読者の権利の整理:”作品を読んで楽しむ権利”と”物理本の所有権”。どこまでが読者の権利か?
  2. 価格の納得性。物理的な本の印刷代、紙代、物流コスト、在庫コストが不要になるはずなのに、その分がほとんど電子書籍の価格に影響していないように見える。今、紙の本の多くが返品・廃棄されているのに、電子書籍には全く関係のないこれらの費用を含んだものと同じ価格というのは納得出来ない。
  3. 既得権者の生活の問題。物理本流通業者を潰していいのか?
  4. 古本の取り扱い:権利譲渡の可能性。Amazonがアメリカで特許を取得しているが運用は可能か?著作権者への支払ができる技術・法整備の必要性?
  5. 共通フォーマットの不在:この本はこちらのアプリでしか読めないといった問題。サービスが終了したら権利消滅(楽天に前例あり)?
  6. 著作権者の被害者意識
  7. 読者の違法コピー・配布問題
  8. 読者の物理本に対する思い入れ。紙の本を「読む」という、情報の収集だけにとどまらない満足感への郷愁。(この場合は、例えば幼児や学童に対する教育的配慮に基づくものは除きますが)。
  9. コミュニティスペースとしての本屋。文化的な意義。
  10. 品揃え。楽天の詐欺(あえて詐欺と書きました)は論外としても、タイトル数が増えても実際のタイトルは増えていないのではという疑問は残る。どのサービスも青空文庫を入れることで一万冊のタイトル数を計上しているが、Web上で無料で読める社会の遺産であり、独自のものではない。また、同じタイトルばかりがいろんな並び、電子書籍のタイトル数は何十万にもなったのに、実際に読める種類という意味ではその数分の一しかない。電子書籍のメリットとして「在庫や流通にコストが掛からないので、従来では出版されなかった本や古い本が読める」というものがあるが、日本の電子書籍市場は全くそうなっていない。
  11. 価格の問題:電子化されることで流通費用は大幅に減っているはずなのに、ほとんど紙本と価格が変わらない。
  12. 価格が変わらないのであれば、古本に売れる紙本のほうが割安。
  13. 貸し借りの自由さがない。紙本なら家族や友人で回し読みできる。同じ支出でも他の人に貸せるのであれば効用は増える。また、貸し借りすることでトータルの購入金額が抑えられる。個人用の端末ではこれが難しい。

アマゾン Kindle版電子書籍の販売冊数、紙本の全種合計を上回る – Engadget Japanese 2011年05月19日 23時52分
 米 Amazon.com が、Kindle電子書籍の販売数がプリント版書籍を上回ったことを発表しました。アマゾンによれば、今年(2011年)の4月1日以降、紙本100冊に対してKindle本は105冊の割合で売れているとのこと。紙本の売上冊数はハードカバーとペーパーバックの両方を合計した数。Kindle本の販売数には無料書籍は含みません。また紙本の売上が落ちたせいで Kindleに抜かれたわけではなく、アマゾンでは紙本の売り上げも成長しているにもかかわらず、とわざわざ付記してあります。
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本:四畳半王国見聞録 森見登美彦

464503 「四畳半神話大系」の続編を期待しているとがっかりするかもしれない。というか、自分はした。

 シリーズで作られたものではなく、単体で発表されたものなので、章のつながりはない。が、もちろん、舞台や登場人物の多くは他の作品に出てきたものだ。ただ、ファンタジー色が強いといえばいいのか、構造に凝ったというのか、その世界に入り込むこと無く終わってしまった。森見登美彦ファンにとっての試金石なのかもしれない。という意味で、自分は阿保神への信心が足りないらしい。

 図書館で借りるか古本か四畳半王国見聞録 kindle 489円(2013/9/19)で読むことをオススメしたい。

追記
YouTube で Blondie の動画を観ていたらこの世界観のようなわけの分からなさのものがあった。