J-phoneの端末

 今、どんなラインナップなのかとサイトを見たら、J-D06はなかった。それどころか、どれもおんなじような折り畳みばかりで全然面白くない。

 端末のデザインでは完全に負けてるなあ・・・Dの後継機が出てるかと思ったけど、ダメだな。次の無料期間が終わったら考えようか。

 それと、10月からJ-phoneブランドはなくなり、ボーダフォンに統一されるらしい。俺の持っているJ-D06はすでに、横に人魂マークみたいなのが入っていて、J-phoneは後ろの電池フタにとって付けたように書いたロゴだけだ。箱もまっ赤だった。サイトも、以前の青を基調としたものではなく、フェラーリの応援サイトのような赤だ。

 しかし、ボーダフォンになったからって、ユーザーにはメリットがない。魅力的な端末(俺にとってという意味だが)も出ないし・・・

Docomoの端末

 このインプレッションをみてびっくりした。俺が最初に買ったリコーのデジカメよりはるかに画質が上だ。

 俺の大好きなメモカメラとして余裕で使える。しかし、ドコモはなあ・・・J-phoneでもメガピクセル機が出たらしいけど、シャープのデザインはどうしようもないクズだから、持ちたくない。それ以前にパケット機だった。

AUの端末

 開き方の仕掛けばかりが取りざたされるけど、AUの携帯電話端末A5305Kはいいなあ。J-D06のデザインは今でも気に入っているが、機能や操作性への不満が大きい。

 「モバイルの大冒険」を読んでますます欲しい気持ちが募った。実際、最近は携帯で入力する機会(相手)は激減しているし、電話番号が変わっても全然困らないしね。しかし、長期割引が帳消しになるのが痛いのと、ステーションがなくなったら携帯で読みたいテキスト自体なくなると思ったり・・・メルマガをたくさん登録するのは受信料が怖いし・・・

 J-SH04の完成度の高さには今更ながらおどろくが、デザインがどうしようもない。操作性も今の基準からは遠い。J-SH04の正常進化型+J-D06デザインみたいなのをJ-phoneがだすといいんだけどねえ。

 後、モバイルの大冒険を読んでいてうなずいたこと。「新製品が出てくると・・・Palm系サイトは+評価に傾いちゃっていますね・・・」「Palmユーザーって、Palmには甘いけど、他のプラットフォームには手厳しい」。

 これって、昔mac教信者と呼ばれたコアなMacユーザーが指摘されていたことと良く似ているなあ。

ネットワークってこういうことだったんだ

 昨夜Let’sNoteで英会話の宿題をした。簡単な英作文をつくるだけだが、Let’sNoteだと英辞郎が使えるから便利なのだ。そして、プリントしようと思った。iMacから打つことにして、サーバーに保存した。そして、忘れていた。

 しかし、良く考えれば、サーバー上のファイルはftpで取り出せる。首尾よく会社からサーバーにアクセスして取り出せた。こんなことはつい2ヶ月前にはできなかった。

 Let’sNoteから印刷はできるが、USBケーブルが届かない。しかも、電池がないのでLet’sNoteをプリンタの近くに運ぶこともできない(運ぶためには一度電源を切る必要がある)。

地震

 東北地方で大きな地震が起っているらしい。

 寒冷地なので建物自体の平均的強度が高いのか、倒壊が発生していない。季節的な要因か火事が発生していないのも幸いかもしれない。

 停電は収まったようだが、余震が頻発して寝られない夜を過ごしていることだろう。

 無力な俺には何もできないけど・・・

IME2000


 じゃまで仕方がないIMEのパレット。どうにかならんのかなあ・・・しかも、こんな風になって使い物にならなくなる。さらに腹立たしいのが、こういう事態に陥るときに使っているソフトはいつでも、MS製だということ。IEやワード、エクセルを使っているときに日本語が使えなくなる。そんなときでもMKEditorでは普通に使えるのに・・・

 どうにかなったといえるのかどうか、コントロールパネルのテキストサービスで表示しないという設定ができた。しかし、全然ないのも困るなあ。常駐アイコンみたいにメニューバーに入れてくれればいいのになあ。

 キャプチャを入れていたんだが、消えてしまっていた。画像の扱いが分かってない俺だ。

テレビ

アラン・ケイの言葉:

コンピュータはテレビより本に近い。本のダイナミックモデルがコンピュータだ。誰も本をテレビ上で見ない。テレビは議論もできない。
 コンピュータをテレビと同じように普及させようとして,たくさんのエネルギーをつぎ込むことはナンセンスだ。コンピュータをテレビと同じように普及させる必要はない。コンピュータはすべてのメディアを模することができる。

 本とテレビの違いについて考えれば,メンタル・コンテキストがまったく違うことが分かる。テレビはステンド・グラスについて多くのことを説明できても,民主主義については語らない。画像では理性的な説明はできない。テレビの30分の放送は,新聞の1列半の記事にしか相当しない。ほとんどゼロだ。あるストーリーの後にまったく関連性のない戦闘場面が現れる。それがどのような戦闘か分からないこともある。

 20年くらい前に,アメリカである少女が古井戸に落ちた。彼女の救出に58時間かかった。この事件がテレビで報じられ,世界中が注目した。その間に世界中で10万人の子供たちが病気で死んでいる。ホロコーストに相当する数の子供が毎年死んでいる。エイズなどの不治の病が原因のこともあるが,衛生環境の改善でほとんどの病気は解決できる。衛生状態が最も重要ということを理解できない国で多くの命が失われている。テレビはこのような問題の解決には無力だ。

テレビは考え方を教えない

 テレビは生活に浸透したが,テレビは考え方を教えない。このような製品をどのように使用するかを考える必要がある。会社員にとってのコンピューティングも同じで,紙の作業を模したいくつかのアプリケーションに過ぎない。何か特別のことができるわけではない。

 そのため企業でのコンピュータの使用方法は15年前と変わっていない。何の進歩もなく,停滞したままだ。コンピュータをすでに分かっている目的のために使おうとしている。アートとしての使い方はしていない。そのような状態では進歩はない。従って,子供たちにアートとしての使い方を教えることが必要だ。子供たちに,将来よい仕事につけるように教育するのではない。
 この視点には全面的に賛成だ。前にも似たようなことを書いたが、タマちゃん報道に大変な労力と資源をつぎ込んでいるのに、日常にある理不尽な死や貧困には目もくれないマスメディアや考えようとしない俺達に対する批判だ。

 また、紙の仕事をそのままにして、コンピューターに代替させようとしかしない低レベル企業へも容赦がない。手書きしていたものをコンピュータで出せるようにすることしか提案できない低脳情報システムと手書きよりきれいにプリントした書類を作るために手書きより時間をかけて満足している低脳社員。そして、手書き延長の書類と、全く違う使い方をして作った書類の見分けのつかないカス管理職。これが今のITだ。

数学

ITPROというサイト(無料ユーザー登録必要ですが、宣伝メールも少ないしお勧め)に載っていたアラン・ケイの言葉。

 アメリカでは小学校で数学は教えていない。子供には計算を教えるが,数学は無理と考えている。数学はアートの部分があるが,実際的な計算の部分もある。アルゴリズムは理解しなくてもパターンを利用して計算に応用できる。日本でも同じと思う。子供には本当の数学を教えることが望ましいと思う。6歳ですでに高度の数学を理解できる。
 そのためには,本当の数学を教えられる先生が必要となる。大人でも,学生でも本当に数学を理解できている人は少ない。多くの大人,教師が数学を理解できていないので,子供には無理と考え,子供が理解できるはずのことを教えるチャンスを奪っている。

 「数学にはアートの部分がある」。俺もこのことに気付いたのは文型人間として大学に入ってからだった。その時点ではもう遅かった。俺も、何とかしてこのことを子供に伝えようと思うが、俺自体に素養がないからうまく伝えられない。「数の悪魔」という本はいい感じだったが、うまく消化できなかった・・・

音楽の楽しみ方

デジタイズした音楽データをサーバーに置いてクライアントマシンで鳴らすというのは面白いし、便利だ。容量の大きなHDがあれば、手持ちのCD全部を放り込むこともできる。

 ここまできたら、NFSでサーバーのディスクを公開してリモートでも鳴らすことが可能だ。しかし、そこまでしてしまうと犯罪だな。しかし、技術者がMP3交換サイトやGNUtera(スペル不明)を作りたくなる気持ちも分かる。純粋に、リモートの音楽やデータをネットワーク経由で操作できるのは楽しいから。

 ついでに、リモートからの画像アップロードも試してみる。たった一つ不満は、画像データをアンカーにしたリンクが貼れないこと。ここには小さな画像を張って、オリジナルの大きな画象へのポインタに使うことができない。そんなことしてたら、入力フォームがごちゃごちゃして使いにくくなっちゃうだろうが・・・大きな画像が見たい好きモノはここにHHKの写真がある。

 ちなみに、右はハッピーハッキングキーボードをつないだiMac。大きさ比較のためにprismを並べてみた。ホームポジションからマウスまでの距離が近いというのもいい。