テレビ

アラン・ケイの言葉:

コンピュータはテレビより本に近い。本のダイナミックモデルがコンピュータだ。誰も本をテレビ上で見ない。テレビは議論もできない。
 コンピュータをテレビと同じように普及させようとして,たくさんのエネルギーをつぎ込むことはナンセンスだ。コンピュータをテレビと同じように普及させる必要はない。コンピュータはすべてのメディアを模することができる。

 本とテレビの違いについて考えれば,メンタル・コンテキストがまったく違うことが分かる。テレビはステンド・グラスについて多くのことを説明できても,民主主義については語らない。画像では理性的な説明はできない。テレビの30分の放送は,新聞の1列半の記事にしか相当しない。ほとんどゼロだ。あるストーリーの後にまったく関連性のない戦闘場面が現れる。それがどのような戦闘か分からないこともある。

 20年くらい前に,アメリカである少女が古井戸に落ちた。彼女の救出に58時間かかった。この事件がテレビで報じられ,世界中が注目した。その間に世界中で10万人の子供たちが病気で死んでいる。ホロコーストに相当する数の子供が毎年死んでいる。エイズなどの不治の病が原因のこともあるが,衛生環境の改善でほとんどの病気は解決できる。衛生状態が最も重要ということを理解できない国で多くの命が失われている。テレビはこのような問題の解決には無力だ。

テレビは考え方を教えない

 テレビは生活に浸透したが,テレビは考え方を教えない。このような製品をどのように使用するかを考える必要がある。会社員にとってのコンピューティングも同じで,紙の作業を模したいくつかのアプリケーションに過ぎない。何か特別のことができるわけではない。

 そのため企業でのコンピュータの使用方法は15年前と変わっていない。何の進歩もなく,停滞したままだ。コンピュータをすでに分かっている目的のために使おうとしている。アートとしての使い方はしていない。そのような状態では進歩はない。従って,子供たちにアートとしての使い方を教えることが必要だ。子供たちに,将来よい仕事につけるように教育するのではない。
 この視点には全面的に賛成だ。前にも似たようなことを書いたが、タマちゃん報道に大変な労力と資源をつぎ込んでいるのに、日常にある理不尽な死や貧困には目もくれないマスメディアや考えようとしない俺達に対する批判だ。

 また、紙の仕事をそのままにして、コンピューターに代替させようとしかしない低レベル企業へも容赦がない。手書きしていたものをコンピュータで出せるようにすることしか提案できない低脳情報システムと手書きよりきれいにプリントした書類を作るために手書きより時間をかけて満足している低脳社員。そして、手書き延長の書類と、全く違う使い方をして作った書類の見分けのつかないカス管理職。これが今のITだ。

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