ヘッドライトは明るければ明るいほど安全か?視覚の限界と錯覚

こんな車が前から来たら該当があっても無灯火の自転車は完全に見えない。
こんな車が前から来たら該当があっても無灯火の自転車は完全に見えない。
 人間の視覚が脳で形作られることは多くの本で学んだ。実生活においても錯覚による誤認識を経験することがある。というか、しょっちゅうやっている。

 先日、自照式テールランプの有効性を考えているとき(自照式のテールランプを強く推す理由)に、「脳はすすんで騙されたがる」の一節を思い出した。

人の目はなんらかの変化がなければなにも見分けられないのだ。・・・夜間には問題なく見分けられる星が日中に見えない理由は単純だ。周辺の空があ まりに明るいために、星によって明るさがわずかに増加しても、視覚系はそれをコントラストとして検出できないのである。(脳はすすんで騙されたがる P26)

 人間が「見る」ときに周囲の明るさや色とのコントラストで検出しているから、真っ暗な田舎道では暗い反射板でも良く見えるのに、街灯や住宅の電灯、自動車のヘッドライトで明るい道路では見えなくなる。街灯がない田舎道で対向車があると周囲が全く見えなくなるのはこのせいだ。

 特に危険なのは、センターラインがない道幅の道路で対向車が連なっているような場所だ。こういう道は歩道がないので歩道に逃げ込むことができない。また道路に直接電柱が立っていて自転車や歩行者は電柱を避けるため道路の中央に近い部分に出なければならない。さらに、対向車と自転車、歩行者との位置が近いため、対向車のヘッドライトに合わせて虹彩を絞り込んだ結果網膜に通じる光量が減ってしまい、発行していないものは検出できない。こういう場所で非視認性を確保するために、自転車は輝度のある自照式のテールランプが必要だ。歩行者も何らかの「光りもの」を身につけることが望ましい。

 ヘッドライトの光量が増す一方だから、この危険は増大していると感じる。ヘッドライトの輝度が高いと走りやすいし、運転している側からは見落としは減る。が、それは対向車にとってその車の周囲にあるものが見えにくくなることを意味している。「自動車の安全」が他の交通者の危険を増大させては社会的な損失だ。

 携帯電話の使用に関する錯覚と同様、ヘッドライトが明るければ明るいほど安全になるというのは錯覚だ。自動車のヘッドライトが明るくなればなるほど、2輪車や歩行者が見えにくくなるケースが存在する。歩行者や自転車は明るいライトの車が多い道を走っていると、自分は道路を見やすくなるのでライトの必要性をあまり感じない。このため無灯火の自転車が発生しやすい。「ママチャリでゆっくり走る文には街灯と車のライトで十分」と思ってしまうのだ。しかし、危険性はそこにはない。車から見えるかどうかなのだ。

 DQNのビッグスクーターやデコトラ(最近見ないが)は安全対策万全といえるww

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