バカの壁(NHK)

 先日録画した養老 猛司のドキュメントを観た。当然、新書としては珍しくポピュラーヒットしている「バカの壁」をモチーフにしたものらしい。よく分からないのは、俺がバカの壁を読んでいないから。

 バカの壁とは自分で自分の限界を決めて諦めてしまうことの愚かさのことか・・・

 死についての考察は、俺が考えているものと似ているところもあり、似ていないところもあり面白かった。似ているのは「死は身近にある」「死を隠すことは誤り」といったところか。自動車事故の死亡者数批判も同意。

 死は根源的な恐怖なのだろう。そして、全ての生物は死に向かって日々カウントダウンしている。この恐怖を思い知らされることは不快だ。そして、その刺激を忘れる、あるいは弱めるための無意識の情動がある。その刺激は激烈で心理に大きな隙を生む。マスコミはこれを利用して、自分に都合のいい反応を消費者に起こさせようと利用する。ある時は死を隠蔽し、ある時は死を象徴として利用する。

 それらに搾取されるのに慣れ、感性が麻痺してしまったのが現代の日本人(他の国に行ったことがないので判断不能)なのではないか。その結果、前にも書いたが(前のサイトでは検索機能がなかったので、自分でも探せない。ひょっとしたら別のサイトかもしれないし・・・)、人の死をゲームキャラの死と同等視してしまう人間が出来てしまう。

 災害報道で違和感を持つのは、災害の程度を死者の数で表現しようとすることだ。「この地震では、死者は2人・・・」「イスラエル軍の空爆では2人の死亡が確認されました」・・・これは、「ロシアによる大韓航空機撃墜で500人の尊い命が失われました」「WTCでは4000人・・・」「神戸の地震では5000人・・・」「原爆では5万人・・・」と同じだ。同時に死んだ人の数が少ないからといって、家族の悲しみが小さいわけじゃない。通り魔に家族を殺された人にとって、その通り魔が別に10人殺していようが、初犯だろうが、悲しみも憎しみも変わらないだろう。それを端的に現すのが、交番の「今日の交通事故死者数」なんだろう。だから、養老猛司は批判したのだろう。(俺の読み違えかもしれんが・・・)

 死体に人称があるというのは面白い。脳死状態の家族が反対する場合の気持ちに少し共感できるようになったかも。

 ただ、講義の感想を聞かれた学生が「言葉の定義がないと話を進められない」といったことに対しての「会話というのはそういうものではない。会話の中で自分の語の定義を行い、必要があれば変更していくものだ。出発点から定義はない」といったことには、賛同できなかった。少人数のゼミならそれはいい。しかし、大教室に数百人の学生を集めた人気教授の講演的授業で、教授が学生からフィードバックを得ることは難しいし、一方的に話すときに、話者が言葉の定義を曖昧にして喋ったら、講義にならないだろう。

 先ず、説明する語の共通認識を確立した上でスタートし、必要があれば修正ればいい。それが壁を超える方法だろう。彼女は語の定義にこだわって、語の定義を超える議論をしないというのではなかったはずだ。

 科学が、色々な限界を超えてきた過程で、様々な壁を乗り越えた。そして、その壁を乗り越えるためには壁を壁として認識する必要があったはずだ。光学機器やコンピュータが発達する前の天文学・物理学は手の届く範囲の事実を集め議論するしかなかった。「そこにあるのに目に見えない(by rankin taxi)」状態だ。そして、それを彼らは謙虚に認め、「予想」した。

 後年の技術の進歩により事実と証明されたものもあり、全くの外れであることが証明されたものもある。しかし、そこに壁があることを認識しないと先に進めなかっただろう。

 死について考えるときいつでも思い出すのがランキンタクシーの「もしも俺がこの世で一番偉ければ、存在理由は唯一つ、生きてるみんなの幸せそれだけだ」というフレーズだ。人は簡単に死ぬ。そして、やり直しはない。生まれ変わりもしない。方法は国や宗教によって異なるか知らないが、分解されてしまう。そして、別の何かに再構成されるのだ。そんな、遺伝子リレーの中継にしか過ぎないのがすべての生物だ。だからこそ、生きてる今を大切にしなければならないと思う。死んだ人間のために生きている人間が生を軽んずるようなことがあってはいけないと考える。だから、「ご先祖を祭らなければ罰が当たる」というようなのはインチキ宗教だと思う。

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