カレル・チャペック いろいろな人たち

 カレル・チャペックというチェコの作家のエッセイ「いろいろな人たち」。80年~90年も前の作品だが人についての文章は今でも全く色あせない。ちなみに、ロポットという言葉を作ったのがこの人で、その作品(ロボット)ではすでに、工場ロポットが意思を持って人間を襲うというストーリーだったらしい(読んでないw)。

 貧困や貧富の差について、キレイ事でない視線を向ける。厳しいようだが、美化して誤魔化そうとするどこかの政治家より遥かに誠実。

毛皮なしのシラミ

 この世界に貧窮と実際の物質的不足があるならば、この事実をやさしくおだやかに指摘することは望まぬようにしたい。貧窮は人々をぞっとさせるものであり、乱暴で人を脅かすやり方で述べられよう。・・・貧窮はいやしく野蛮で醜悪で汚いものである。貧窮に対抗する最大の主張は、人間の心は善でやさしい、ということではなく、人間の貧窮は残酷でぞっとするようなものだ、ということである。

 SNSで拡散する「XX叩き」や炎上の根源欲求もこれだろう。

われらが悪しき性格

そして誰かがあなた方に、どこそこでは大きな盗難事件や恐ろしいスキャンダルが起こっていると話してくれる時、あなた方の眼には興味と情熱がきらめき、まるでこの上なしの盗みと悪がこの世にあることが、この上なしの喜びを与えてくれるかのようである。もし誰かがこっそりと、どこそこではとても大きな美徳が示されたとか、気高い行為がなされたとかささやく時、あなた方がそんなに愉快に興奮することは決してないだろう。そんな場合はむしろ、そんなことはあるまいとか、そんな話にはきっとなにかひっかかるものがあるとかいう意味で、一定の保留を持ち込むことだろう。このことから明らかなように、われわれの心は、善よりむしろ悪に傾きがちである。ある人になにかの優秀性や美徳を認めたいという気持ちを起こさせるためには、最小限その人の仲間にならなければならない。しかし誰かが盗賊だとか危険な遊び人だとか、喜び勇んで思い込むには、個人的にも原則的にもその人の敵になる必要はない。そのためには、ありふれた、自然な人間の性向があれば十分なのである。

 今の、日本のスポーツ界にも当てはまる。買ったときだけ祭り上げるニワカも同じだし、プロ野球ファンはずっとそうだった。日本のプロスポーツが育たないのはこんな「ファン」ばっかりだからだ。そして、野茂やイチローがメジャーに行きたがったのもそのせいだろう。

「われわれの」対その相手

スポーツは人々にフェアプレーをすべきだと教育する。スポーツは純粋にわざの前にのみひざまずくことを教える、とよく言われる。失礼ながら、あの叫び声でわたしは異なる印象を持った。われわれにはわざは関係ない、勝つことだけが問題なのだ、ということである。・・・われわれはもはや、相手がよければよいほどわれわれのフランタの名誉は大きくなるのだ、ということさえ意識できない。・・・相手の側にはインチキと裏切りと謀略しかないと自分をだますなら、それによってわれわれは、自分たちのフランタばかりでなく自分自身をも卑しめてしまう。われわれはわざを正当に評価し、測定し、価値を与える能力を失ってしまう。・・・疑惑と罪を着せる事自体によって、この面でもあの面でも、わざをちゃんと見ることができなくなるのだ。これはもちろん、フェアプレーの終わりである。われわれは慢性的ないらいら状態になるだろう。ことが思うように運ばないと、恥だ、裏切りだと叫び、自分たちが傷つけられたという感じを持つ。それは非常に悪しきスポーツである。そして悪しきスポーツはもっとも悲惨な教育である。(フランタは作品が書かれた当時の作者の祖国のボクシング選手)

 ここでも、貧しい人間を切り捨てるブルジョアジーにも、明日のパンをどうするかに対して応えない野党(この時代なので対象がコミュニズムと言っているが)にも与しない。貧しさを礼賛することも当然ない。それは上にもある通り。

わたしはなぜコミュニストでないのか

二年、二十年もかかるとは、どうしたらよいのか?なにをそんなに冷淡に放置できるのか、そんな悲惨な状態でまだ冬の二ヶ月を、まだ二日をなんとか生きていかねばならぬのに?この点で助けるすべを知らず、または助けようと望まないブルジョアジーは、私にとって無縁である。しかし、助ける代わりに革命の旗をふりかざしてやってくるコミュニズムも、同じように無縁なのだ。

 男とか女とか人種とか、国籍とかで人を排除しようとする全てに送りたい。

わたしはなぜコミュニストでないのか

「森は黒い」と実に容易に言える。しかし森のなかには黒い木は一本もなく、赤か緑なのだ。一般には松の木かモミの木なのだから。「社会が悪い」と実に容易に言われる。しかし根本的に悪い人間がどこにいるか探し出して欲しい。野蛮な一般化なしに世界を判断するよう試みて欲しい。しばらく後には、原則的主張などは一かけらもなくなってしまうだろう。・・・誰かが「ドイツ人は嫌いだ」と言ったなら、「ドイツ人の中で暮らしてみたらどうだ」と私はその人に言いたい。そして一ヶ月後に、自分の家主の奥さんが嫌いかどうか、ゲルマン人の二十日大根売りの首を切ってやりたいとか、マッチを売ってくれるドイツ人のおばあさんの首を絞めてやりたいなどとおもっているかどうか、たずねてみたい。

 ただ、第二次世界大戦後思想の自由に対する限界に突き当たっているのではないか。神という存在が希薄になったことによる不安から新たな神を求めて右往左往しているのが現代ではないか。このことをチャペックは感じていたのだろうか。

発展はどこをめざすか

二千年、三千年のヨーロッパの歴史の中で、人間の精神はつねにより大きな思想の自由に向かって発展し、世俗および教会の権力と対抗してそれを戦い取ってきたが、それが人間の精神の永続的で逸脱することのない努力だったのか、またはそうでないのか?この年功を経た精神の自由を抑圧する教義がなにかあるとすれば、このような現実の発展にたいして何をなすべきだろうか?

※ただし、ヨーロッパの歴史認識については違和感があった。教会の権力と戦ったのなんか千年にも満たないだろうし、ヨーロッパの歴史が三千年というのは間違いだと思う。ギリシャやローマはヨーロッパの歴史じゃないだろう。

蛇足

kindle 縦書き例
気持ち悪い・・・
 中身とは無関係だが、Amazon の縦書きの本の中に変なフォントの作品があって気持ち悪い。この作品もその一つ。文字の形が美しくないという意味ではなく、中心が合ってない気がする。


kindle 縦書き例 赤線を入れたところ。文字の中心線が自分が思っているのとずれている。「国」はくにがまえと中の玉の中心が揃ってないのではと思う。

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