自動運転車の「恐ろしい未来」とゼロ信仰

 この題を見た時に、「はいはい、どうせ『ソフトのバグで事故が起きる恐ろし未来社会』とかでしょ」と思った。しかし、違った。全文を読んでいただきたい。

 木村氏の危惧する、「完璧なシステムでなければ許容しない社会により、目が摘み取られてしまう」ことは既に日本の弱点になっている。例えば、セグウェイという交通手段がかいはつされたときに、アメリカでは法律を変えて公道を走れるようにした。しかし、日本では未だにセグウェイは遊園地のアトラクションでしかない。同じことが自動運転でも発現する可能性は高い。これは、福島産の農作物、原子力発電所、ワクチンに対すしてリスクゼロを突きつけて議論を封じるゼロ信仰そのものだ。

 発電所の事故のせいで先天的障害を負った子供が生まれたと大騒ぎする人がいるが、他の地方と同程度の確率であることには頓着しない。「これまでは無かった形の葉が出た」と大騒ぎしたら、前からあったのに気づかなかっただけだった。こういう過剰反応のせいで社会が息苦しくなってストレスフルになるのは本末転倒だろう。

 公園の遊具などもリスクゼロではなく、リスクと付き合うことをコントロール下で経験する場所とした方がいいと思う。もちろん、遊具のメンテナンスや使用方法の周知などの手を抜いてもいいという意味ではない。メンテナンスを怠った設置者には責任を求めるが、子供の意志で危険行為を行った場合には責任は本人(親)に帰すという社会的コンセンサスが必要だろう。昔はこんなことは曖昧にして受け入れられていたが、そういうことが難しい社会になってしまったことを嘆いてもしょうがない。

木村岳史の極言暴論! – 絶対に事故を起す自動運転車の「恐ろしい未来」:ITpro
「恐ろしい未来」とは事故の話ではない。むしろ、事故を恐れるがゆえにひたすら完璧なシステムを追求していると、逆に恐ろしいことになると言いたいのである。

 何年後か分からないが、全ての自動車が自動運転車に置き換わった状況を想定してみよう。その際、自動運転車の安全性は完璧でなく、システムに起因する交通事故を中心に日本国内で年間10万件も発生していたとしたら、どうだろう。普通に考えれば、全くダメである。主にシステムの問題によって、これだけの事故が発生するならば、今の常識から言ってあり得ない。

 だが、別の常識もある。実は今、日本国内では年間60万件の交通事故が発生しており、4000人以上の人が事故に巻き込まれて命を落としている。それと比べたら、自動運転車が年間10万件の事故を引き起こしたとしても、全くダメとは言えない。事故を6分の1に激減し、犠牲者やその家族の悲劇をその分だけ減らすことができるわけだから、むしろ社会的に有益だと言える。

 考えてみれば、自動車は社会的に極めて特殊な機械である。自動車はプロの運転手だけでなく、一般の人も運転する。そして自動車は、そうした一般の人が犯したミスに起因する事故の責任から免責されている。もちろん、事故を起した人は厳しく指弾され、場合によっては厳しく処罰される。だが、それによって自動車や自動車メーカーの責任が問われることはない。

 他の機械なら、そうはいかない。例えば家電製品の場合、利用者のミスであっても重大事故が発生すれば、家電製品や家電メーカーはミスを生じさせた責任を問われる。メーカーは厳しく指弾され、その“欠陥”製品は即座に発売停止に追い込まれ、場合によっては回収のために莫大なコストをかけなければならなくなる。

 もちろん自動車においては、厳格な免許制を採り違反者には厳罰で臨むことで、それでも他の分野では決して許容されないような重大事故が多数発生する。それにもかかわらず、自動車の存在が社会に許容されているのは、自動車が無くては社会が成り立たないからだ。そして自動運転車の登場により、ようやく“社会に許容された悲劇”を大幅に減らせる可能性がでてきたわけだ。

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