本:おしゃべりな宇宙 不自然とは

おしゃべりな宇宙―心や脳の問題から量子宇宙論まで 「おしゃべりな宇宙―心や脳の問題から量子宇宙論まで」を読んだ。興味深い話題満載だが、特に興味深い所を引用する。ぜひお買い上げいただきたい(自分は図書館で借りたが)。

 このエントリでは「自然」に対する鋭い洞察に触れることができた。「自然」を無条件に礼賛する姿勢はここでも批判的に取り上げたと思う(未来の生き物)。

 大半の点で前から感じていたことだが、一つ大きな気付きがあった。それは、「地球の前住人である微生物が酸素と呼ばれる「毒」ガスで地球を汚染したからこそ、その酸素のなかで繁栄する私たち人類とその祖先は進化できたのだ。」という点。よく考えれば当然なのにこの発想はなかった。地球大進化で地球ができてから早い段階で栄えた種が酸素が増加するに連れて絶滅したという話を聞いていたのにだ。

 次の「今のこの時点が別に特別だというわけではない。私たちは皆、どこからか来てどこかへ行く途上にあるのだ」というのも同感。関心空間に書いた漂流教室への批判と同じ視点だ。そして、環境キャンペーンに感じる胡散臭さもここから来ている。彼らが何を維持しようとしていて、何のために維持しようとしているのかを明らかにせずに現状や現在の人類を特別視する考え方には違和感がある。マーク・トゥエインが「”神様の特別な思し召し”この言葉を聞くと、私は吐き気がする。人間がいかにも重要な存在で、神が軽薄な存在だと言ってるかのように聞こえるからだ。私の考えでは、この無数の天体は、神の動脈の中を漂う血球にしかすぎず、我々人間も、その血球にすくい、それを冒し、それを汚染している極微生物にしか過ぎない」と述べたのと同じだ。

 最後に、遺伝子組み換え食品についても、簡潔にまとめられている。自分の考えもこれと同様。「遺伝的組み替えの真の問題は、それが安全か、有効か、その利益はリスクを犯すほどの価値があるか、ということである。」遺伝子組み換え食品を全否定するのは、品種改良を否定するのと同じくらい愚かなことだ。

P308 不自然さ
 これほど豊かな自然界の誘いを無視できる人がいるだろうか? 草の輝き、かぐわしい牧草のかおり、ほとんど罪深く感じられるほど柔らかな薔薇の花びら。日曜日の朝市のうっとりするような匂いや、公園で戯れ、入り乱れて駆けまわる犬たちの匂いには、どこかしら心を惹かれるものがある。木目の美しい床や、暖炉、海の眺望ほど、家の売れ行きを早めるものはない。

私たちが人工品を嫌うのは、ごく自然なことだ。人工品を見ると、まるで肌を逆撫でされたような気持になってしまう。だから、最近増えてきた遺伝子組み替え作物を、人々が不安に感じるのも決して不思議ではない。それに対する抗議運動はヨーロッパ中のあちこちに芽生えており、フランスではそうした産物を「フランケンフード」と呼びだすありさまだ。そのような遺伝子は、トウモロコシを害虫から守るのかもしれないけれど、やっぱり細菌の遺伝子で「質を向上させた」トウモロコシを食べるのは、どうも気色が悪い。

ただし、私たちは次のようなことも念頭におく必要がある。つまり、ダリアや飼い猫はもちろんのこと、農夫の露店から私たちを招くうまそうなメロン、トウモロコシ、トマトなどは、完全な「有機栽培」と銘打ってあっても、どれ一つとして「自然」なものではありえないのだ。異種交配による遺伝形質の操作は、別に今はじまったことではなく、ほとんど文明の歴史ほど古い。白桃だって、私の台所の戸棚に入っている「自然食品」というふれこみのシリアルが木に実るわけでないのと同じに、「自然」な果物とは言えないのだ。パンやワイン、それにピーグル犬のどこにも、自然なところなどありはしない。

 しかしそれを言うなら、この私たちにも「自然」なところはちっともないのである。実のところ、地球の前住人である微生物が酸素と呼ばれる「毒」ガスで地球を汚染したからこそ、その酸素のなかで繁栄する私たち人類とその祖先は進化できたのだ。

これを聞いて頭がこんがらかってくるとしても、それはもっとものことだ。おまけにそれは生き物の世界に限ったことではない。たとえば、ほとんどの人はプラスチックが絶対に「不自然」なものだと言う。しかし、化学者のロアルド・ホフマンの指摘どおり、プラスチックの大部分は石油製品からできており、その石油は太古の植物が何百万年ものあいだ地球の臓腑の中で醸成されたあげくできあがったものなのである。したがって、ある意味でプラスチックは木に実ったことになる。

 物理学者でさえ、長いあいだ「自然」の法則をめぐつて混乱を続けてきた。たとえばアリストテレスは、雲のように軽いものが空に浮かび、岩みたいに重いものが沈むのは、「自然」だと思いこんでいた。また天体が輪を描いて動くのも「自然」なことだと信じていた。後の物理学者たちは、岩を地に、惑星を軌道に引きつけているのが、重力だということに気がついた。岩も惑星も「自然」のまま放っておけば、ただあてどなく宇宙にフワフワ浮かぶだけなのだ。それからさらにのち、アインシュタインは落下する物体や軌道上を回る惑星が、湾曲した四次元の時空に刻まれた「自然な」経路にしたがって動いているだけだということを発見した。一事が万事このとおりである。

 今日物理学者たちは、宇宙を構成しているいわゆる素粒子に不自然なところを見つけはじめた。地球上のすべてのものは、お馴染みの電子、陽子、中性子からなっている。けれどこうした粒子は一つ残らず、もっと重い「従兄弟分」をもっているのだ。それがなぜなのかは誰も知らないけれど、とにかくこれは不自然に見えてしかたがない。こうした「余分の」粒子の第一号「ミューオン」が発見されたとき、物理学者Ⅰ・Ⅰ・ラビが「だれがこんなものを注文したんだ?」と言ったのは有名な話だ。それ以来、物理学者はいまだにその間いに答えようと努力を続けている。アインシュタインによると、彼が最も答えたいと思う質問は、宇宙を創造したとき神にはもっとほかに選択の余地があっただろうか、ということだった。そもそも私たちはミューオンをもつ必要があったのか? 重力がもっと強いことがあったのだろうか?言い換えると、自然の法則自体、世界の「自然な」特徴なのだろうかということだ。それとも別な宇宙であれば、自然の法則も異なっていたのだろうか?

 何が「自然」であるかは、むろんその前後関係による。カウンターの上の角氷が溶けるのは自然だけれど、北極で溶ければこれは不自然だ。アメリカ大陸を最初に占領したヨーロッパ人にとって「自然」だった病気も、「自然」な抵抗力がなかった原住民のあいだでは、死病となって広がったのである。

 また数学にすら「自然」な数と「不自然」な数がある。好んで自然数(正の整数として定義される)ばかりに偏っていようものなら、私たちは代数は言うに及ばず引き算さえもできなくなってしまう。

 でもこのようなことと、遺伝子を組み替えた食べ物と、どんな関係があるのだろうか?私たちが世界的な農業関連産業の動機や方法に疑いの目を向け、進化をいじくりまわして未知の遺伝的雑種を野に放つ危険を懸念するのは、おそらく賢明なことだろう。

 ただし自然とか不自然とかいうことが肝心なのではない。遺伝子の組み替えは、常時起こっていることなのだ。恋に落ちるのも、種を遺伝的に改善する自然の方策だと言える。それをコントロールするのが、たち騒ぐホルモンであろうと、試験管のなかでこしらえた誂えのDNAであろうと、どこが違うというのだろう?

 われわれは進化する、ゆえにわれわれは存在する。その他のすべての植物も動物もまたしかり。トウモロコシであれ、人類であれ、犬であれ、どんな種の歴史であろうと、今のこの時点が別に特別だというわけではない。私たちは皆、どこからか来てどこかへ行く途上にあるのだ。遺伝的組み替えの真の問題は、それが安全か、有効か、その利益はリスクを犯すほどの価値があるか、ということである。

 もしかすると神は、宇宙の進化をどう指揮するかについて、選択の余地がなかったのかもしれない。けれど人間にはその余地があるのだ。

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