聖書にはなんでも書いてある。または、加害者の被害者面

 マスコミは Jobs を神格化したいらしい。特定の人物を持ち上げたり貶めることで、自分の立場を優位に保とうとするのはジャーナリズムに期待されることとは正反対だろう。

 ケース1:神格化:人気者の過去の記録から、本人が思ってもいなかったかもしれないことを、現在の事象とつなぎあわせて、「彼はすごかった」というやり方。まあ、ノストラダムスの大予言や「清書には全てが記載されている」といったやり方だ。

 この場合も、ジョブズが今の iPad やタブレット型のコンピュータを予想していたのかどうかは今となっては検証できない。あったとしても曖昧としたイメージでしか無かっただろうし、それらは、彼が思っていたことの一部だろう。

 さらに、今のタブレット型コンピュータのイメージはとっくの昔に Alan Kay によって作り上げられていた。そもそも Jobs は Macintosh を作る際に Xerox にいた Alan kay のコンセプトマシン(名前忘れた)を見たことがきっかけだった。Jobs が Alan Kay のコンセプトが下敷きにあっての発言とするのが当然だろう。

 こういった事実に目をつぶって、mac OS も iPod も iPad も iPhone もすべて Jobs が作ったというのは大きな間違いだ。

スティーブ・ジョブズ氏が1983年に行った講演の全録音が公開–驚くべき先見性 – CNET Japan
 1983年に米コロラド州アスペンで開催された「International Design Conference」において故Steve Jobs氏が行った講演の全録音が公開された。同氏は30年近く前に「iPad」を予見していたのだろうか?

ケース2:袋叩き
 彼のやったことは、常識的社会人には理解不能だ。記録の提出を求められることが明白な科学的な臨床実験を行ったという嘘をついたのだ。そして、日本のマスコミがこの発表を鵜呑みにして公開した。

 問題はそれを扱うマスコミの姿勢だ。自分たちが騙されたと被害者気取りで、過去の発言をほじくり返しては落ち度を指摘している。その時、その人物を社会的に信用のおける人物でその意見や功績を社会にまき散らしたことに対する謝罪や反省はほとんど無い。読売新聞は新聞の片隅に訂正記事を出したが、その人物を批判する記事との面積と頻度の差は比較にならないほどだ。

 落ち度があって、反論される心配のない人物を一方的に叩きまくるのもジャーナリズム的な視点とは言い難い。

 そもそも、ジャーナリズム的な態度で最初から望んでいたら、肩書き(それすら偽っていたが)に惑わされることもなかっただろう。普段から、記者クラブで行われる大本営発表を「調べでわかりました」という結語で書いて恥じることのない日本のマスコミだから、こんな人物に騙されるのだ。

 話は逸れるが、「調べでわかりました」というのはおかしい。留置場や取調室でのやりとりは本人(弁護士)と警察(検察)しか知らない。マスコミが「調べた」って、盗聴器でも仕掛けたのかwww 。単に警察や弁護士が言った内容を書き取っただけだろう。そんなものを「調べでわかった」といってしまう不誠実な嘘つき体質こそが日本のマスコミの真実だ。だから、報道した内容が事実と異なっていた時に、自分が調べたはずなのに「あれは、発表がそうだったから」と恥も外聞もなく被害者面できるのだ。

心理

この、競って袋叩きにするという行動は、Jobs を祭り上げるのと表裏一体だ。より、大きな声を出すことでその意見に対する忠誠心(逆忠誠心)を表現するのだ。ある種の宗教では自分を傷つけることや大声で泣き叫ぶことで神への帰依を表現する。そこには批判的、冷静な判断はない。

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