評価

 先日読んだ「『社会調査』のウソ」に、アメリカには「サイテーション・インデックス」というものがあり、論文がいつ誰に引用されたかが分かるようになっていて、それにより論文の質的評価がなされるとあった。

 こういう下地があってこそのトラックバックなのかもしれない。そして、googleが被リンクをページのランク付けに使うのかという理由も分かった気がした。

 日本の学会の問題は、それだけにとどまらないだろう。誰も読まないような大学の論文集に提出するだけで仕事したことになってしまうから論文のレベルが上がらないし研究のレベルも上がらないのだろう。また、いいアイデアの論文があっても埋もれてしまうのかもしれない。そして、学者自身がそのくだらなさを意識しているので、国内の論文なんて評価していないのだろう。

 逆に、ナショナルジオグラフィックとかサイエンティフィックアメリカンなどに取り上げられると大騒ぎなのではないか。これは、外国で評価されない限り国内の学会から才能を発掘できない日本の社会の構図かもしれない。極端な例がノーベル賞をう受賞した田中氏だ。ノーベル賞を受けなかったら未だに彼は企業の一研究員だろう。ノーベル賞を受賞したとたんに役員待遇って・・・自社の評価を全否定しているようなものだ。他の分野でも、「大リーグで活躍した・・・」「アメリカで評価された・・・」「グラミー賞で・・・」「カンヌ映画祭で・・・」。全て同じだ。

 Nishizawaというメーカーが作った革新的スキー板TACTICSも受け入れられずに消えた。それは、SALOMONが出たときにフランスナショナルチームが率先してテスト・使用をしたこととは正反対に見える。

  これと同じことは身近にもあるし、偏見は俺たち自身にもあるかもしれない。ザウルスを電子手帳と蔑んでpalmを選んだのは、どこかに日本製品を卑下する偏見があったのかもしれない。macはどうだったか・・・自分では合理的な判断基準に沿ったつもりだが・・・

 こんな社会の中で長く生きた企業人たる組織の幹部や管理職が能力評価などまともに出来るはずが無いだろうなぁ

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