視線と差別意識

不可思議な人権ネイチャーデジタル : Nature Digital – ネイチャーでデジタルなコラム
今朝の新聞に「ノーマライゼーションを目指して!」と題した中学生の人権作文コンテストの優秀作品が載っていた。
金髪で長身で足に装具をつけている留学生と一緒に買い物をした時に、みんなにじろじろ見られた。中にはなめるような視線で下から上まで見る人もいたというのだ。
島国日本で金髪で背が高く足に装具をつけた若い女の子が歩いていれば、誰だって彼女を見るだろうに、そのような人間として普通の行為が、人権の名の元に非難される社会だとしたら、それこそノーマライゼーションの失われた社会と言えるだろう。

 そういえば、先日大阪駅で「こぎゃるおじさん」を見た。その人物が「こぎゃるおじさん」として認識されるまで数秒を要した。その間じろじろ見てしまった。断っておくが、俺は彼に対して何の偏見も差別意識もない。

 視野に日常生活でなじみのない組合せの外見をした人が入ってきたために、脳がパニックを起こしたのだ。そして、情報を整理し、組み込むのに時間がかかっただけだ。もちろん、彼が自分にとって無害であることは一瞬で判断ができたので、その時点で観察は中断し、後は、記憶の中のどこに分類して貯蔵するかに困っただけだ。さらに、俺は彼のことを以前にテレビで観て知っていた。このため、視覚から入ってきた情報を使っての検索に時間がかかってしまった。

 ここには、人間の認知・記憶抽出・行動・記憶貯蔵のプロセスが見えて面白い(俺だけか)。不断、見慣れた人物やモノ全てを人間は無意識のうちに判定し、意識の上に置くことはない。大阪駅で見かける数百人の人間一人一人に気を配ってはいられないからだ。視覚に入ってくるだけ、無意識のうちに判定されほとんどが廃棄される。メールのフィルターのようなものだ。自分にとって危険をもたらす相手。自分の好みといったフィルターを通した後でじろじろ見る相手を決めるのだ。

 だから、これまでの経験と照らし合わせて全く異なる組合せをした人間がいたら、じろじろと見て整理をするのだろう。時には新しいカテゴリーを作る必要もあるだろうし、俺のようにテレビの記憶からカテゴリーを引っ張り出すこともあるだろう。それらは、差別や偏見とは別の生物学的な反応だろう。

 その昔、危険な生物や敵が一杯いた時代(ほんの数百万年前だ)には、そうやって危険を避けること。危険な相手を脳にインプットすることで、すばやく反応することが必要だったはずだ。

 「じゃあ、お前は何で女性ばっかり眺めてるんだ?」。そんなの当り前。発情サインを発散しているメスを見逃さないのが発情したオスの本能だ。そうやって、自己の遺伝子の継続を願うのが俺たちの義務なのだ。まあ、実際には自分の遺伝子を相手の卵子と結合させる行為だけをしたいだけなんだが(^^;

 逆に、発情期のメスが発情期のオスの視線を集めることに快感を覚えるのも一緒。たくさんのオスから求愛を受けて自分によって都合の良い相手をチョイスしたい。その場合、できるだけ多くの相手から選んだほうがいいというのは経済原則だ。俺たちGEEKがいろんなショップやサイトを駆け回るのと一緒だ。

#どうでもいいことだが、ネイチャーデジタルの10000を踏んだ。

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