外部記憶依存症?大きなお世話だ!

拡張するストレージ 口承・紙本・ネットで日経サイエンスのGoogle依存について考えた。

 「ネットに依存する」というと、天声人語やアニメ映画監督が顔をしかめる”識者”は多い。しかし、その指摘は「人は今も昔も変わらない。変わったという人は昔を知らないだけ」だ。情報の伝達メディアは時代とともに、石版、粘土板、竹簡、羊皮紙、紙と変わってきた。次がネットだ。それだけのことだ。

 ただし、問題が現れたのも事実だ。従来は物理的にアクセス不可能だった情報に簡単にアクセスできるようになったことで、必要な情報を探す技術が必要になった。Google の保存するテキストは世界一大きな図書館に収められた蔵書よりはるかに多い。しかも、出版というプロセスを経ていないテキストや広告などのノイズ(このブログなどもその一つだ)も多量に含まれている。図書館の書架にある本は、かなりいんちき臭いエセ科学文書も含まれてはいるが、それなりの校正を経て出版社の「出すべし」という判断を受けた上で出版されているものだ。それに対して Google ははるかにノイズが多い。

 紙時代にあった物理的な制約の多くが取り払われた。これからは、情報を持っているということより、大量の情報の中から必要物を取り出せる技術が必要になった。その技術は、図書館で本を写してくるのと同様に評価すべきだ。一時情報源がネットであろうがどこかの誰かであろうが、価値は変わらない。ソースは失ったが、Twitterで「漢字の読み方を街頭インタビューしたら『こんなもん検索したらいいじゃん』と言ってあっという間に調べてしまったギャルがいて目から鱗が落ちた」という物を読んで痛快な気持ちになった。漢字の読み方を覚えていると賢く見えるかもしれないが単なる知識でしかない。ネット端末と検索技術があれば覚えておく価値などない。もちろん、この技術も図書館から文書を探せるのと同様の過渡期の技術でしか無い。画期的な検索技術が開発されれば解決されるだろう。SFにあるようなエージェントによる検索は近いうちに実用化されるだろう(もうされているのか?)。

 次の世代で重要になるのは、得た情報に何か一つでも付け加えられるかだ。たくさんの漢字を覚えていて書けることに価値はない。価値が有るのは漢字を使いこなして、何かをこの情報の海に残せるかどうかだ。富田倫生さんが言われていた「薄紙一枚」を残すために自分に何ができるか・・・

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です