日経サイエンス に Google 効果という記事があった。「交換記憶」の対象がネットに広がっていることとその影響についての研究が紹介されていた。
交換記憶とは、 自分が覚えていない記憶を他者に委ねて、組織全体の記憶を増やす。過去は家族や同僚、コミュニティで行われていた。が、今はGoogleやWikipediaが対象となっている。Googleを日常的に使っている人間がその知識を自分の記憶と勘違いしているという面白い実験結果があった。
興味深っかったのは、Google で検索している人間が自分の知識であるかのように錯覚しているということ。他の人間に尋ねて教えてもらった知識と Google で調べたのとでは、自分の記憶になかったという点では変わりはない。にも関わらず、ネットで調べると自分が知っていたかのような感覚になるというのは面白い。
人に訊くのは「教えてもらう」という心理的負い目があるのだろう。それに対して「調べる」のは自分が主体性を持って行動していることで、その負い目がない。そして、得た知識も、自分で調べた場合は別人の記憶を借りたものであるという意識が無い分、自分の記憶であったかのような錯覚を覚えるのだろう。
他の人に聞いた記憶と端末で調べた知識とで感覚が異なるのは体感的に分かる。しかし、だからといって、Googleによる知識と人間との交換記憶に実は差はない。どちらも自分の記憶を外部に依存しているのだ。記憶を外部に保存することは人間が知的な生命体として進化した時のキーファクターだろう。人類は言葉や文字によって経験や知識を後代に残し、共有することが可能になった。これによって個体の限界を超えることができた。どんな天才も、先達の積み上げた遺産がなければその高みに達することはできない。誤ったものであっても、何かがあったからそれを足がかりにできたのだ。個人が宇宙の観測をする時に手作りの望遠鏡を一人で作らなければならなかったら今のような観測は全くムリだろう。小柴博士がどんなに頑張っても一人でスーパーカミオカンデは作れない。ガリレオは自分で望遠鏡を作った大天才だが、ガラスの製法などはそれ以前に存在していたのだ。その延長上であると考えればインターネットによる記憶の外部化は必然だ。
数十年前までは紙の本が人類の記憶を後代に伝える最も効率的な手段だった。昔の研究者が著名な大学で研究したがったことの大きな理由の一つは図書館に有ったはずだ。紙本に蓄えられた情報が全てネットに載る時代は近いだろう。ネットに寄るコミュニケーションが密になれば、世界中どこにいても研究ができるようになる分野が多くなるだろう。
ネットの知識とコミュニケーションによって人類が知の地平を切り拓く速度が加速されるかどうか・・・
未だに、Google や Wikipedia のコピペより図書館の本をコピーすることのほうが貴重であるかのような偏見がある。目的の本を探すのは難しい。まずどの図書館にあるか調べなければならない。そして、物理的に移動しなければならない。図書館に着いて本を探し借りて初めて情報にたどり着くことができる。しかし、必要な情報を得るために費やすコストの大半は情報そのものを得る作業ではなく、物理的な制約を克服するためのものだ。偏見を持った人は「苦労して探した本に書いてあることは記憶に残る」というが、情報の密度そのものが低いし「物理的な努力にまつわる周辺情報を含めて脳に記憶するから、良く思い出せる」だけだ。
更に言うなら、そういう記憶の大半は必要な情報そのものではなく、「あの本を探してXX大学まで半日かかっていった。その時雨で駅からずぶ濡れになった」とか「XX大学の女性職員が美人だった」とか「駅前で食べたうどんはまずかった」といったものばかりだろう。そういう記憶や経験に価値がないとはいわない。しかし、それは目的の本に書いてあった情報の価値ではなく、その人の旅行の記憶でしか無い。
遠くの図書館に行って目的の本に辿り着いた達成感は快感だろうが情報そのものの価値とは無関係だ。自分が旅行で苦労したり楽しかったりした思い出が美しいからといって、後輩に同じことを押し付けてはいけない。そういうプロセスを無用にしたネットが憎いのかもしれないが、旅行の苦労や楽しさを否定しているわけではない。「情報の取得と一緒にすんな」と言っているだけだ。