遠近感の魔法

 駅までの道で幹線を使わずに田んぼの間を通る農道を通っている。気持ちがいいからだ。特に、この季節は特別な時期だ。田植え直前で水が張られた田んぼの間を走っていると不思議な浮遊感がある。朝に見える空や鉄塔もいいが、夜の月や星空はさらに気持ちいい。

050531_1931~001 自動車では、視点が低すぎて水面を見下ろす感じがしないのと視野に占める面積が少ないために、これを感じることはできない。また、徒歩だとスピード感(自分が移動しているという感覚)がないので、浮遊感がない。バイクと自転車でのみ感じられる浮遊感なのだ。バイクの場合はスピードが速いが、ライトと騒音があるのと、危険なのであまりゆっくり水面を眺められないのが減点。自転車はライトがなくてゆっくり水面を眺める時間があり騒音もなくていいのだが、自力でこぐというリアルな肉体的フィードバックがあるため現実感が消えない。理想は、田んぼにはさまれた細い道を自転車で下り降りるということだろうが、そんな都合のいいシチュエーションはめったにないだろう。

 眼の焦点距離を無限遠にして見下ろすということは普通の生活ではない。眼下に無限遠を望む感覚が脳にフィードバックされて、広い空間にいるような錯覚を起こすのだろう。これは、飛行機に乗ったり高い山に登って周囲を見下ろしたときの感覚に近い。これが、通常の風景の中で、田んぼの仕切られた枠の中にはめ込まれた鏡面から得られるから面白いのだろう。窓を異空間への扉とする寓意はよくあるが、それと同じように、昨日まで只の掘り起こされた地面でしかなかったところが無限への扉になる不思議さが心を捉える。人間が眼で見るのではなく脳で見るのだということを再確認させられる。

 この感覚はどんなカメラでも収められない。眼に映る光景を再生できても対象物への遠近感を再現することはできないからだ。浮遊感を代替できるのは、巨大なスクリーンでも5.1chサラウンドでも不可能だ。これを再現するには、感覚器官からのフィードバックを逆手に取るしかない。意思で感覚器官をコントロールし脳が「見る」ことを誤らせてしまうのだ。そう、感覚器官を能動的にコントロールして脳に錯覚を起こさせる方法。裸眼立体視だ(並行法が効果的)。小さな紙に打たれた黒のドットはこの広大な世界への入り口になるから面白い。裸眼立体視の快感、特に並行方で見る快感は、この浮遊感覚と似ている。

 裸眼立体視が苦手な人は、眼をつぶることだ。眼を閉じたとたん、回りの見慣れた風景は広大な空間になる。ならないのは、脳が、「今眼を閉じたからこんな感じなんだな」と、眼からのフィードバックにフィルターをかけてしまうからだろう。しかし、無心にして眼からの感覚をフィードバックすれば目の前には真っ暗な無限遠が広がるはずだ。

 話は変わるが、この光景はある意味、人間(動物)にとって恐怖の源泉だ。真の暗闇の恐ろしさはその広さにある。自分の手すら見えないほどの暗闇では、安全な通りなれた道であっても恐怖と広大ななかに放り出された寂寥感を感じる。

 この感覚が先天的なものか経験的に獲得したものかは俺にはわからない。先天的に視覚がない方はどうなんだろう。そこには、俺たちよりもはるかに深い闇の中に放り出された心細さの中にいるのか。それとも、それを克服した人間にのみ許される広大な自由な空間が広がっているのだろうか。

 しかし、真の自由こそが人をして不安にするのかもしれない。「闇の絵巻」の盗賊に対するようなあこがれ、自分が不安になることを克服したものに対する畏敬の念といばいいのか、を感じる。

 写真は、駅からの帰り道で撮ったもの。湖に山が写っているように見えるが、実際には田んぼに浅く張られた水面だ。日常的空間の中に突然湖のような水面が現れるところが面白い。

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