海文堂書店の閉店とネット書店の台頭について。

 「海文堂書店の閉店とネット書店の台頭について。 – みずのわ編集室」を興味深く読んだ。

 前に流通業の歴史的考察(だいそれたものではないが)をした時に、地元小売店の役割は物理的仲介でしかなく、交通網の発達によって不要になった事を見た。それと同じことが本の流通についても起こっている。それに、ネット書店以前に大型店・チェーン店による淘汰があったはずだ。

 以前、自宅の近くに本屋があったが潰れた。近くのコープの2階にあった書籍売り場も閉鎖された。前者は Amazon 登場以前で後者も電子書籍とは関係ない2年前に閉鎖した。どちらも、近くに出来た TSUTAYA と大型小売店内の書籍売り場にテナント入りしたチェーン店の影響だ。既存小売店、大型チェーン店、ネット通販、中古流通、電子書籍販売といったプレーヤーが合従連衡する激動の市場だ。読者の財布というパイを奪い合っているのだ。既存小売店の廃業がその中のどのプレーヤーによってもたらされているかは一概には言えないだろう。

 また、こういった出版不況とか出版・流通業の倒産や廃業で原因として、不況の影響が挙げられていないのが不思議でならない。他の一般的な消費財を扱っている企業が倒産・廃業するときには不況の影響というのが最も大きな原因とされるのに、書店について不況が原因にならないのはなぜだろう。それは「本」ではない:紙の本が決してなくならない理由で指摘したように、本については他の物の流通とは違う感情を持っているようだ。

 こういう議論では物理本と物理本の流通経路と、コンテンツ、コンテンツ流通とがごちゃごちゃで語られる。前半の返本の話なんか、委託販売の弊害ではないのか。

「全国何処へ配本しても、本は定価で販売される。遠隔地だからといってお客さんに送料の負担を求めることはない。その送料は、実質的に取次と版元が負担している。書店に入る口銭はしれている。先述した諸々の経費を差し引けば、本を1冊読者に届けるために書店は、下手すれば足が出ることだってある。」

 書店があるような場所で Amazon が特別な料金を設定している所があるんだろうか?

「たった1冊の本をたった1人の読者に届けるということ、憲法がうたう知る権利の保障、そのためにどれほどの人の手が介在するか、そのこと一つとっても、長きにわたって維持されてきた再販制度のありようを「時代遅れ」とか「規制は緩和すべき」とかいって軽々しく否定してはいけないと、私は考える」

 ネット通販で扱われない本があり、その流通を支えてくれた中継ぎや書店が潰れているということがあるのだろうか?それを示さないと説得力がない。それどころか、自分の感覚では Amazon のお陰で本を探したり買ったりする機会が増えた。近所の書店どころか都心部の大型店より多い。梅田の紀伊國屋をウロウロしている時間で検索から発注までが終わる。しかも、電車代も要らない。こちらのほうがはるかに知る権利に貢献しているといえないか?

本来ならば、その土地の住民が、その土地のまともな書店さんで、店頭にない、注文すれば届くまでに時間がかかるといっても、それでもその店で本を買わなければならない。

 これについては前にも書いた。そして、ネット通販業者にも大型店にも責任はない。そういう行動をしているのは消費者だからだ。批判の矛先が間違っている。

それと、忘れてはならない。アマゾンという会社は、日本国に対し法人税をビタ一文とて支払っていない。すなわち、日本の市場で得た利益を日本の社会に還元していないのである。

 Amazon についてはそうかもしれない。課税の問題は国際社会の問題だ。しかし、それは書籍販売の問題ではない。それに、じゃあ楽天ならいいのか紀伊國屋書店ならいいのかということになる。競合が海外企業か国内法人化に関係なくリアル書店の売上を奪っているだろう。

この規制緩和万能のご時世にあって、私の考え方は古臭いのかもしれない。だが、世間を平穏に保っていくうえで、必要不可欠な規制というものがある。古いやり方を続けていかなければならない業種もある、と私は考える。

 要するに、本は特別だと言いたいようだ。ここが自分と違う点だ。そして、コンテンツの流通と物理本の流通を分けて考えられていないと思う点だ。本の存在意義であるコンテンツの流通を物理本の流通と切り離す時代になれば物理本の仲介としての書店の存在意義はなくなる。骨董屋か廃業かの二者択一だ。

 社会の循環を断ち切ってはいけない。親の不始末、子の難儀。先の世代のことを思えば、今を生きる私たちの心底に巣喰う無責任根性こそ、人の世に対する最大の罪だと思う。

 立派な文明批判のように書かれているが、否定しているのは自分が寄って立つところでもある。書店や中継ぎというのは、分業の賜物だ。大量印刷以前には存在しなかった業種だ。経済や技術の発展によって経済は変わる。産業革命を推進した蒸気機関を使う工場があるか?蒸気機関を作ったりメンテナンスする人たちの仕事場はなくなっただろう。この人は、石油や電気による産業機械を作る人を批判するんだろうか?

2013-09-04 海文堂書店の閉店とネット書店の台頭について。
昨日、神戸の海文堂書店から直委託品の返品が届いた。9月末の閉店に向けて、直委託品は8月末で〆と相成り。「神戸市戦災焼失区域図復刻版」と「本屋の眼」(平野義昌著)の2点だけ、9月に売れる見込分を買取扱いにしてもらって販売継続中。

「My Private Fukushima 報道写真家福島菊次郎とゆく」(那須圭子 写真・文)が僅か1ヶ月の販売期間で、20預けて4返品。16売れていた。まったく記事が出とらんなかで、これは快挙だ。売れなくなったとはいうても、やっぱり、ここにはええお客さんが居てはるといふことだらう。

海文堂閉店とネット書店について。以下、ご一読されたし。

海文堂書店の閉店とネット書店の台頭について

ウチが神戸にいた時分から長らくお世話になってきた海文堂書店が、創業99年にして、この9月末で店を畳むことになった。売るのに時間のかかる人文社会科学書を粘り強く売ってくれる今や稀少種ともいえる書店がまた一つ消滅する。これを報じる新聞やテレビ、ネットの記事の多くでは、出版不況、活字離れ、ネット書店の台頭などが理由に挙げられている。事が起こる毎に出版不況とか活字離れにその理由を求める論調には疑問があるのだがそれはここではおくことにして、少なくとも、ネット書店に押されたということだけは間違いない。


書店に行ってもお目当ての本がない。ネット書店なら注文の翌日には届く、だから書店は不要だ、役割を終えたのだと、そう云う人は確かに多い。書店というのはピンポイントよろしくお目当ての本を狙って買いに行くところではなかろうが、と私は考えるが、その問題はここではおくことにする。

確かに、物量と速度、利便性で優位に立つネット書店に対抗するには、ジュンク堂みたいに物量戦を仕掛ける以外に手がないのかもしれない。


大規模店が出店するごとに「本の問屋」にあたる取次を通して納品される品物は、早い話、版元にとっては社外在庫である。取次が銀行の機能を持っているので、注文品として売れたことにして、おカネは先に払ってくれる。本が店の棚にあり続けることもまた大事なことであり、時間をかけて1部売れたらまた1部補充する。そこをしっかりやってくれるのでジュンク堂は有難い。だが、これが一店舗閉店したら、莫大な返品が発生する。書店・取次・版元にとっての「本」は金融商品である。その返品分のおカネは、毎月の〆分から差引く形で、実質、版元が返金することになる。

昨春、ジュンク堂新宿店が家主の都合(ジュンク堂を追い出してヤマダ電機を入居させる)で閉店させられた時、地方小出版流通センター(以下、地方小)からウチに対し、正味(卸値)で約6万円分の返品がきた。定価だと9万円超になる。うちなどまだ少ないほうで、私の知るかぎりでは、たとえば東京のある学術書専門版元には、正味で約120万円分の返品がきたという。


書店の数は年々減っている。2002年には約2万店あったのだが、現在は約1万4000店。小売店舗を閉鎖し外商だけ残しているところもその数に含まれるので、実質は1万店程度であろうといわれている。その中で、ウチが作っているような、読者に届くまでに時間のかかる人文社会科学書を長期間にわたって並べてくれる書店はほんのひと握り、どころか、ひとつまみもない。

地方の零細版元の出版物の配本先は、どうしても、都市部の大型書店が中心になってしまう。地方の中小規模の書店には、ウチが作っているような本はまず並ばない。だが、これまで、図書館や個人から入る1冊ずつの注文を丁寧にさばいて、本を読者に届けてきてくれてきたのは、こういった地方の中小零細の書店でもあった。新聞に書評などが出て顧客から問い合わせがあった時には、場合によっては書店から版元へ直接電話が入る。それによって地方小に注文スリップを流したり、急ぎの場合は取次伝票切替もしくは買取直払扱いで直送したりと、ウチも可能なかぎり迅速な対応を心がけてきた。留守にすることも多々ある零細版元ゆえ、電話しても確実につかまるとは限らない。本の定価によっては、版元への問い合わせの電話代や「ご注文の本が届きましたよ」という顧客への電話代、その他諸々の経費だけで、本1冊分の口銭がすっ飛ぶどころか足が出ることもある。それでも、「ウチでは扱っていません」という対応をとらず、問い合わせの一件一件に真摯に対応してくれる書店さんが多かった。利益を出すべき商売ではあるが、それと同時に地域の識字文化の発信体の役割を担っているという気概が、そうさせていたのであろう。店員ならびに雇われ店長の殆ど大多数が自分の脳味噌を使ってものを考えているとは到底思えない郊外型のチェーン書店とは、おなじ「書店」を名乗ってはいても、そこのところ、まるでレベルが違う。


また、このような取引が成り立つのも、再販制度のおかげである。全国何処へ配本しても、本は定価で販売される。遠隔地だからといってお客さんに送料の負担を求めることはない。その送料は、実質的に取次と版元が負担している。書店に入る口銭はしれている。先述した諸々の経費を差し引けば、本を1冊読者に届けるために書店は、下手すれば足が出ることだってある。

たった1冊の本をたった1人の読者に届けるということ、憲法がうたう知る権利の保障、そのためにどれほどの人の手が介在するか、そのこと一つとっても、長きにわたって維持されてきた再販制度のありようを「時代遅れ」とか「規制は緩和すべき」とかいって軽々しく否定してはいけないと、私は考える。

→地方小の新刊配本先が細っている件については、フェイスブック小社ペイジ、以下の記述を参照

→これと関連して、以下の拙文を参照されたい。「[書評]のメルマガ」vol.325(2007年9月22日付)リレー連載・書肆アクセスの閉店から見えてくること その2 万年赤字版元の疑問

http://mizunowa.com/column/shoshi.html


いずれにせよ、町の本屋が次々と店を畳んでいく。

本来ならば、その土地の住民が、その土地のまともな書店さんで、店頭にない、注文すれば届くまでに時間がかかるといっても、それでもその店で本を買わなければならない。

だからこそ私は、神戸にいた頃は、仕事のため大急ぎで必要の生じたとき以外は海文堂書店に取り置き・取り寄せをお願いしていた。大島に移転した今は、久賀の鶴田書店にお願いしている。

ちなみに、私のガソリンたる酒は多少値段が高くとも、地元の酒屋2軒で買っている。安いといっても量販店では絶対に買わない。自身もまたその一員である地域の経済循環を守るということ、そこまで日常の行動を突き詰めることなくして、この手の問題を語ってはならないと考えるからである。


古本屋もまた苦境に立たされている。古本ブームと云われる一方で、各地の古本屋が次々と店を畳んでいる。リアルではブックオフなどの新古書店、ネットではアマゾンのマーケットプレイスやヤフオクなどに押されたのが原因の一つである。

古本屋は古物商の鑑札がなければ開業できない。アマゾンのマーケットプレイスに出店するという行為は、潜りセドリ業のおおっぴらな抜け道であり、本来ならば脱法行為である。それほどまでに、急速なネットの普及に法整備が追いつかない。それが実情である。そして、それによって打撃を被るのは、本業の古本屋である。


私が、自社の出版物を多少値段下げてでも、また「みずのわ」の「み」の字も出さずに別名義でアマゾンのマーケットプレイスに出品すれば、そこそこに売上げにつながるかもしれないが、それは職業倫理上、断じてやってはならないことである。再販制度のもと、ウチの本を定価で売ってくださっている各地の書店さんと、取次への背信行為になるからである。版元が個別に設定する著者卸価格や直販予約限定特別価格、直販時のまとめ買い割引などとは意味合いが違う。


この規制緩和万能のご時世にあって、私の考え方は古臭いのかもしれない。だが、世間を平穏に保っていくうえで、必要不可欠な規制というものがある。古いやり方を続けていかなければならない業種もある、と私は考える。


たとえば、アマゾンの販売する新刊書は大手取次のトーハンが納品している(ウチの刊行物は地方小→トーハン→アマゾン、のルートで流れる)。アマゾンに限らず、優れものと云われるネット書店は、実は既存の取次システムの上に乗っかかっているのである。ここでは自動発注といって、すべてバーコード管理で、売れれば補充する。ただし、そこには人間の勘とか感性とかいったものはまったく反映されない。すなわち、欠品補充のシステムがロクでもないのである。毎週1冊ずつ出ていけば間違いなく補充するだろう。だが、2年3年かかってやっと1冊出るような本はおそらく補充する対象にならない。どのくらいのスパンで本が出たら補充するのかは知らないが、そこのところはコンピュータ上で数式が作られているらしいのだが、これがかなりアテにならないモノで、書評が出て注文が一時的に増えると、補充分としてアリエナイような部数を求めてくることもある、だから取次の現場で数を減らすことも多々ある、と以前取次の担当者から聞いたことがある。なかなか売れない本は、版元・取次に在庫のある本でも、たとえばアマゾンでは「この本は現在お取り扱いできません」と表示されてしまう。アマゾンのサイトを見るだけの、事情を知らない人の目には、品切・絶版と映る。それで売り逃す。こうして、ただでさえ売れないものがますます売れなくなっていく。

アマゾンは確かに優れものである。だが、「ほしいものがすぐ届く」といった表面上の事象にばかり目が行くことで、もっと重大な欠陥が見えなくなってしまう。その危険は、常に認識しておく必要がある。


それと、忘れてはならない。アマゾンという会社は、日本国に対し法人税をビタ一文とて支払っていない。すなわち、日本の市場で得た利益を日本の社会に還元していないのである。

これはコンビニでモノを買うという問題にも通ずる。確かに、コンビニが開店することでその地域の人をアルバイトとして雇うわけだから、いくらかのおカネはその人の賃金としてその地域に落ちる。だが、コンビニがその地域に出店して得たさらに莫大な利益はすべて東京の本部に吸い上げられることになり、地方事業税としてその地域の自治体に還元されることはない。それどころか、個人商店が次々とツブれていくことにより、町が町の体をなさなくなり、雇用が失われ消費が細り、長い目で見ると地域経済は確実に疲弊していく。

断じてアマゾンで本を買うなとか、コンビニでモノを買うなとか、そんな極端なことは云わないし、それは現実的でないこともわかっている。ただ、ここで云っておきたいのは、一人ひとりの行動の先に果たして何があるのか、どのような未来が待っているのか、私たちはそのことについて常に想像をめぐらせておかねばならぬ、ということである。


私一人がそう云ってみたところで、世の趨勢は変らない。だが、そうした少しずつの積み重ねが、新刊書店や古書店を閉店に追い込み、書店員の働く場を奪っていった。すなわち、失業者を増やし、地方を疲弊させていった。書店だけの問題ではない。長い目でみると、私たちの社会にとって、これがいいことだとは到底思えない。すべて失ってからでは遅い。

社会の循環を断ち切ってはいけない。親の不始末、子の難儀。先の世代のことを思えば、今を生きる私たちの心底に巣喰う無責任根性こそ、人の世に対する最大の罪だと思う。

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