大貫妙子

 娘がレンタルで借りていたCDを返す足でツタヤに行った。CDのコーナーを観ていたら大貫妙子が何枚かあった。俺が持っているものの多くがアナログレコードで聴けないので、ベスト盤を3枚(うち2枚組が2セット)借りた。

 アルバムで聴いていて好きだった曲が入っていないので、いつの日かオリジナル版をコンプリートするつもり。

 俺の聴いていたアレンジと違うアレンジの物があって面白い。それも、ベスト盤ということで重なっている曲が多くアレンジが違うと聴き比べて楽しむことが出来る。自分が聴いていたアレンジが入っていない曲には違和感が残る。

 アレンジとしては、俺の好みは、清水信之と坂本龍一のアレンジだ。数名のミュージシャンだけでスタジオ録音された音が大好き。普段聴いているレゲエとは全然違う方向性なんだが(^^;

 ところで、大貫妙子のCDを集めるのは、中古が出回っていないので、俺のようなビンボー人にはきつい。久生十蘭の本と同じで、買う人の絶対数が少ない上に、売りに出す人の比率も低いのだろう。

 今、iTuneでライブラリ化しているが、選択可能な曲数が増えるだけで、聴き方が全く変わる気がする。これまでの聴き方が、レコードの呪縛に捕われていたかが分かる。LPレコード以降の媒体は全て、LPレコードを何枚収められるかで単位が決まった。カセットテープ、CD、MD。多少の違いはあるが、LP一枚を収められることを出発点として開発された。シングルCDなどは、未だにA面という呼び方があるほどだ。

 アルバムを一つの作品単位としてストーリーを持たせるという作りもあった。これなどは、LPというシーケンシャル・リスニングを小説や演劇・映画のメタファーとして再現した物ととらえられるかもしれない。

 しかし、デジタルデータ化することによって、音楽を聴く自由度が大きくあがった。シャッフルやランダムなど、レコードやテープでは出来なかったことができるようになった。そして、iTuneとiPod(MP3から始まったのかもしれないが)はアルバムをバラバラにし、再構成して楽しむことを提案した。このことは、今のCD売り上げランキングを見れば顕著だろう。それは、ベスト盤の隆盛だ。それぞれのアルバムのストーリーを無視したヒット曲メドレー。複数のアーティストの同時期にヒットしたというだけの共通項しかない(影響し合っていたんだろうし、時代の雰囲気は共有していただろうが、曲同士は全く独立したもの)XX’s集。

 オリジナル作品を作ったときの、選曲や曲順に込められた作者の気持ちとは無関係だ。もちろん、こういった形による再編集にも価値はあるし、いろんな軸で見るのも楽しいだろう。しかし、それだけというのは少し寂しい。叙事詩のような(言い過ぎか?)一連のアルバム作品をバラバラにして聴くことに意味があるのかどうかは疑問が残る。

 ただ、この聴き方はITMS(iTune Music Store)でさらに加速される。物理的メディアの単位ではなく、好きな一曲だけを購入できるようになる。

 2枚組アルバムのようなエネルギーの必要な効率の悪い物は作られなくなるかもしれない。そして、音楽流業者のヒット曲狙いはひどくなる一方なのか、流通に乗りにくいマイナー曲が地道に続けられる場所となるのか。今は誰にも分からない。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です