ちょっと反省も

 この前、青少年の犯罪統計を扱ったサイトにリンクした。しかし、統計を読むときに一つ考慮しておく必要があることを思いだした。それは、もとの資料の信憑性。

 犯罪数のカウントは法律や取り締まりの姿勢、さらには世論の後押しや注目度によって大きく左右される。子供をチャイルドシートに座らせることが国民の中で共通認識として強く意識されていないなかでは強制力を持った法律をつくっても、警察はあまり強く取り締まれないだろう。

 教師の体罰とかでも、昔は教師の暴力行為として認識されていなかった。そんな時代には学校内での教師による暴力事件は発生しない。行為自体が行われていても犯罪としてカウントされなかったからだ。

 そういう意味で、「切れやすい50代」の根拠になった統計に問題があるかもしれないことは、意識する必要がある。

 もちろん、あのサイトの筆者はそんなことは十分知っている上で、マスコミや政府の作意によって、統計事実がねじ曲げられているところを指摘したのだ。そして、統計というものが恣意的な解釈によっていろんな事実を語ることを見せてくれたのだろう。まだ全部は読めてないけど、時間を見つけて全部読みたい。

 ところで、統計の恣意的解釈についてさらに考えるなら、家庭内暴力や校内暴力の増加も同じような性格がある。酒を飲んで暴れるオッサンは昔からいた。しかし、それは表に出ることは少なかった。今は、家庭内暴力が個人の尊厳を犯す犯罪として規定され認識されたためにそのカテゴリーに入れられる「状況」が増えてきたのだろう。

 人間は行為や状況について認識するときにカテゴリーが必要なのかもしれない。一度明確に概念化されれば、「あれ、あれもそうやん。こっちも、あっちも全部あてはまる」。警察も、「彼はこんな事をしました。これはドメスティック・バイオレンスに該当します」と言われると、「それは、懲役XXの刑に相当する犯罪だ」と初めて認識することができる。

 特に、日本の社会では個人がこの概念化(カテゴライズ?)が苦手なようだ。昔からあった、家庭内暴力やセクハラ、受動喫煙なんかをアメリカで概念化されて初めて日本でも認識されるようになった。それまで日常的に存在したにも関わらず、誰も気付かなかったのだ。

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