未来はそこにある。 シャッターを押せば、 そこに映っている。

20131230_exilim 酒井邦嘉教授が知ったら全否定しそうなカメラだ。

 自分は面白いと思うし、可能性を拓くものだと思う。あの撮った後でピントを変えられるカメラと同様に。

 何らかの目的を果たすために機械を使う場合、人間がアシストする必要があるのは機械が未完成なのだ。目的が一つならやらなければならないタスクは変わらない。人間がするか機械がするかだ。昔のカメラでは人がピントと絞りとシャッタースピードを決めなければならなかった(フィルムの感度はフィルムを装填した時点で固定されているので、撮影時にはコントロールできなかった)が、今では自動でもできるしシャッター速度や絞りを選ぶだけで最適露出にしてくれる。

 昔は、カメラは高価で貴重な機械だった。その頃はカメラを扱えることが特殊な技能だった。一枚の写真を取るのに何分もかかったし一枚ごとにフィルムを装填しなければならなかった。西部劇や幕末の写真などがそうだった。みんなカメラの前で緊張して静止していた。それがパトローネの開発により機動性が増した、一本のフィルム装填で36回のシャッターチャンスが生まれた。カラーフィルムの開発により色を記録できるようになった。デジタル化によりさらに撮影の機会や可能性が増えた。更に、可能性を広げるチャレンジが続いている。 

 これらは、写真家にシャッターチャンスや表現の可能性を与えた。写真家はフィルムの装填や保管、残り枚数を気にしなくて良くなった。機械の操作に煩わされることも少なくなった。そして、フィルムカメラでは絶対に出来なかった表現力を手にした。

 酒井邦嘉教授は否定するのだろう。しかし、酒井邦嘉教授が「デジタル化によって失われたもの」としたものは本質からずれている。ユーサフ・カーシュの写真の多くは記念撮影的に撮られたもので、少ないシャッターチャンスをものにしたというようなものではないだろう。また、ユーサフ・カーシュは不便なカメラだった「から」あの写真が撮れたのではないだろう。ユーサフ・カーシュが今行きていたらデジタルカメラを使っても同じようなポートレートが撮れるだろう。

 増えたシャッターチャンスと表現の可能性に振り回されていい写真が取れないのなら元々センスが無かったのだ。カメラの進化のお陰で、100年前ならカメラに触ることすらできなかった庶民がカメラを持ち日常の映像を記録することが可能になった。その中で、携帯電話やスマートフォンで撮った奇跡の一枚が生まれる可能性がある。まあ、ミッション付きの車に乗っている人間が言うことではないかもしれないがwww

 EXILIM のこの機能は従来のカメラにあったものだ。自分の P330 でも一回のシャッターで露出を変えた写真を自動的に取る機能はある(ブラケット撮影)。これはそれを進化させたものだろう。テレビ用ビデオの全チャンネル録画とか遡り録画みたいなものだ。貴重な一瞬を逃さないための物量作戦ともいえる。デジタル技術ならではのアプローチだ。

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 1 回シャッターを押す。例えば〈ホワイト バランス×明るさ〉のパラメータに沿って、 9枚の異なる画像が連写される。撮りた い 1 枚を求めてカメラを操作するのではな い。撮ったなかから、自分には見えていな かった新しい風景を探す。それが、新しい「EXILIM」の遊び方だ。日常を撮る、ので はない。EXILIMは日常を「スキャン」、も しくは「キャプチャー」するのだ。そのな かに、見えなかった景色が潜んでいる。未来すらも、そこには、きっと写っている。(『WIRED』VOL.10より転載)

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