廃墟霊の記憶

haikyo 先日高架下の古本屋で買った本。100円という価格にひかれて買ったようなものだが、期待以上に面白かった。

 この本に取り上げられているのは、主に、社会の変化(バブル経済の崩壊や人の移動)にともなって捨てられ忘れられた大物だ。学校、ホテル、映画館、球場。道路…

 廃墟という言葉で思い出すのは、子供の頃住んでいた家の近く似合った防空壕だ。山陰に唐突にある、コンクリートの巨大な塊。何一つ装飾的な要素の無いコの字型の建造物。厚さが1m以上もありそうなのに、中の通路は幅が1mにも満たない。部屋のような構造も一切無い、溝に敷設するU字ブロックを分厚くして伏せたようなものだった。子供の頃の記憶なので、大きさには自身が無いが、その不気味さは忘れられない。

 爆弾を食らった跡も無いし、そこで死んだ人がいるという噂も無い。そもそも爆撃冴えれるような目標物など無いような田舎なのだ。だから、実際にはあまり使われることは無かっただろうが、戦争の記憶など無い子供にもその圧倒的な存在感が感じられた。

 もちろん、当時の子供たちにとってはいい遊び場で、時々思い出したようには出かけて、爆竹で遊んだりしたものだった。

 廃墟は、それを観るものに感慨を抱かせる。その、異空間というのか非日常空間が存在することは観光客には新鮮だ。しかし、その存在も生活の一部になってしまう。観光都市に暮らしている人間が観光地に行かないのと一緒だ。

 俺は浪人のときに2年間京都の二条城のすぐそばに住んでいて、毎日堀の外の道を通って予備校に通学していた。しかし、一度も二条城には入ったこと無く引っ越してしまった。未だに中に入ったことはない。

 廃墟も、現在使われている建築物(都市そのものも)も、目的を失った瞬間に廃墟化し、廃墟と実生活の距離は予想より近いのではないだろうか。今の大都市や、住宅街でも、人類が滅亡したら10年もしないうちに廃墟と化すだろう。
 

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