もう一つ、ボルジア家に向けられた世間のはげしい非難は、親子兄妹のあいだの近親相姦である。 つまり、父親のアレキサンデル六世も、長兄のジョバンニ(ガンディア公と呼ばれた)も、次兄のチェザーレも、ひとしくルクレチアに道ならぬ恋情をいだいていて、三人が暗黙のうちに嫉妬し合っているというのであった。 そして、こんな臆測を生んだ原因の一つは、ガンディア公の奇怪な死であった。 一四九七年六月、チェザーレとガンディア公の兄弟がナポリへ向かって出陣する前の晩、母のヴァノッツァが、トラステヴェレの豪壮な別荘に二人を招き、大勢の親類や友人もそこに集まって、お別れの宴会をひらいたことがあった。 宴が終ったのが夜中の一時で、それから二人の兄弟は供の者をつれて、夜道をローマに戻ろうとしたが、ふと、兄のガンディア公が、馬をとめて、「おれはこれから女の家へよってくるから、貴公は一足先に帰ってくれ」とチェザーレにいった。 そこでチェザーレは一人で別れて帰ってきたのであるが、翌日になっても、兄のガンディア公のほうは一向にすがたをあらわさない。やがて、公の馬だけが街の中で発見され、公の連れていた唯一の従者が、瀕死の重傷を負ったすがたで発見された。 にわかにヴァチカン宮は色めき立ち、父の法王は、捜査を命じた。すると、まもなくローマ市中を流れるテヴェレ河から、全身に九ヶ所も刀傷を受けたガンディア公の屍体が、網にかかって釣り上げられた。金のはいった財布も、宝石の指環もそのまま身につけていたというから、物盗りのしわざでないことはほぼ確実である。 屍体はていねいに洗われ、僧服を着せられ、金襴のマントに覆われて、聖アンジェロ城まで舟で運ばれ、さらにその日のうちに、ひそかに聖マリア・デル・ポポロの墓地に運ばれて、そこで葬られた。 あたかも夜だったから、松明の光で見る公の死顔は、生きている時よりもさらに蒼白く美しかったそうである。 葬列が聖アンジェロ城の橋を渡って行くとき、悲痛な号泣が会葬者のあいだから聞こえた。身も世もあらず嘆き悲しんでいるのは、平生あれほど剛毅な父の法王であった。その後三日間、法王は部屋に閉じこもったきり、何も食べず、だれにも会わなかった。 ボルジア家の不倫な血は、法王をして、自分自身の息子をも恋人として眺めさせたのかもしれない。 この奇怪な殺人事件の犯人には、いろいろな人間が擬されているが、結局のところ迷宮入りというほかなかった。一説によると、性的不能という理由で離婚を迫られたルクレチアの最初の夫スフォルツァが、意趣返しにガンディア公を殺させ、ボルジア家の不倫の噂を方々に流したのだともいう。つまり、妹ルクレチアをめぐる兄同士の不倫な恋、あるいは父親をもふくめた四角関係が、ついに殺人事件をひき起したという噂である。 ともあれ、チェザーレが妹に恋着していて、ルクレチアの夫や愛人になると生命の危険があるということは、すでに世間一般の定評となっていたのだ。 スペイン人で法王の侍従だったペドロ・カルデスも、チェザーレに追いまわされ、最後には法王の腕に飛びこんで助けを求めたが、短刀のめった突きで無残に殺されてしまった。そのとき、血しぶきが法王の顔にまではねかかったという。 殺害の理由は、「マドンナ・ルクレチアの名誉を毀損せる行為をなした」というのであったが、じつはルクレチアが彼の種を宿して妊娠したからで、これも兄の嫉妬によるものといわれた。 |