ぴかぴか光った鋼鉄の剣や武器も、サディストやマゾヒストのフェティッシュになりやすいが、元来、フェティシストは物体そのものを愛するので、血を見るところまでは進まないのが通例であるようだ。それでも、ガルニュ教授が報告している、フランスの青年ウージェーヌ某の話は、奇怪なアントロポファジー(人肉嗜食)の欲望とマゾヒズムの自己破壊の欲望とが結びついた、いかなる倒錯の範疇に分類してよいか迷ってしまうような、ふしぎな例である。
 一八九一年、パリのおまわりさんが、公園のベンチにすわっている、日雇い労務者凰の若い男を見つけて、近づいてみると、あっと驚いた。何と、この青年は鋏で自分の左腕の肉を切り取って、陶然たる面持で、その血まみれの肉片をむしゃむしゃ食っていたのである。
 まあ、自分で自分の肉を食うのだから、べつに犯罪というわけでもなく、本人の勝手といえば勝手かもしれないが、しかし異常な事件であることに変りはあるまい。
 警察へ連れてきて、事情をきいてみると、この青年の頭のなかには、十三歳当時の少年の頃から、奇妙な固定観念のような甘美な妄想がこびりついているのだった。つまり、彼は色の白い肌のきれいな若い娘を見ると、その娘の肌の一部分を噛み切って、食いたくてたまらなくなるのだそうである。いわば白い肌が彼のフェティッシュだったわけだ。そこで、刃物屋で大きな鋏を買ってきて、街をうろつき、自分の理想の娘を物色していたが、なかなかチャンスがない。とうとう歩き疲れて、公園のベンチにすわり、自分の腕のいちばん柔らかそうな、いちばん白い部分を鋏で切り取って、これを頭のなかで娘の肉だと空想して、食うことを思いつき、実行していたのだという。まったく驚き入った男である。
 自己破壊の欲望は、フロイトのいわゆる道徳的マゾヒズム、つまり何らかの無意識的な罪悪感をもっている人間が、罰への欲求によって動かされるところのマゾヒズムであるが、この青年の場合には、どうやらこの定義は当てはまらないようである。むしろサディズムとフェティシズムが、屈折して自己自身へ向った場合と見るべきだろう。


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Last-modified: 2010-09-20 (月) 23:44:57