当時、フェラーラといえば、最も洗練された気品の高いルネッサンス文化の一中心であった。そして彼女の夫となったエステ家のアルフォンソ一世は、当時の名君の例にもれず、武人であるとともに文芸を愛し、フェラーラの宮廷をして芸術家、ヒューマニストの憧憬の地たらしめたひとである。 おそらく、ルクレチアは新しい夫の支配する土地へ来て、ほっと安堵の溜息をもらしたのではないだろうか。法王庁のあったローマの都、父や兄のいたローマの都は、その数々のスキャンダルによって、あまりにも彼女の神経をはげしく痛めつけすぎた。 実際、伝説によれば彼女は稀代の淫婦、毒物学の知識にすぐれた、おそろしい毒殺魔ということになっているのであるが、―しかし、わたしたちの知るかぎりのルクレチアは、むしろ父や兄の政治的野心に利用されるがままの、完全に受動的な、子供っぽいナイーヴな性格の女でしかないのである。 ローマを離れて以来、ルクレチアはスキャンダルに苦しめられることがなくなった。 フェラーラでは、彼女は豪華な宮殿を営み、宮廷にアリオスト、ベンボなどの著名な詩人や、ティツィアーノなどの画家を招いて、彼らと芸術を語ったり、あるいは自分でも詩を作ったりした。詩作は子供の時からやっていた。 ルネッサンス時代の貴婦人はみなそうであるが、ルクレチアもまた、芸術に対して高い好みと理解とを持っていた。 彼女が死んだのは、一五一九年六月二十四日、ようやく四十歳になったばかりの年である。死産児を生んだあと、永いこと産褥で苦しんだのち、夫や侍女たちに取り巻かれて死んでいったのだ。夫も侍女たちも、彼女のために心から泣いた。 |