拷問を受けた後、ブランヴィリエ夫人は親殺し犯人用の護送車にのせられて、夜のあいだに、裁判所の付属監獄からノートルダム寺院に運ばれた。群衆は寺院の扉の前で、火の点いた蝋燭を両手にもった裸足の侯爵夫人が、やつれた蒼ざめた顔で懺悔をするのを見物していた。そのとき、彼女はようやく三十七歳で、すでに容色は衰えかけていた。 寺院の前からグレーヴ広場につれて行かれ、そこで一夜を明かした後、いよいよ断頭台にのぼることになった。群衆のなかから、嘲笑と悪罵が雨のように浴びせかけられた。 しかし彼女は、その生涯の最後の瞬間を共に過ごしたソルボンヌ大学神学教授エドモン・ピロ師の深い感化によって、心から悔悟していたのである。ある人々の目には、そのすがたは聖女のように神々しく見えたそうである。 死刑執行人はギヨームという老練な男だった。夫人の首は一刀のもとに斬り落とされた。斬り落とされるまで、その首は貴婦人らしく権高に、しゃんと伸ばされたままだった。時に一六七六年七月十六日。 「彼女のあわれな小さな屍体は処刑のあと、さかんに燃える火のなかに投げこまれ、その灰は風に散らされました。」とセヴィニェ夫人が、娘への手紙のなかに書いている。「したがって、わたしたちは彼女の灰をふくんだ空気をげんに呼吸しているわけであり、霊の交流によって、ある有毒の気質に侵されているわけでもあります…」 常識家のセヴィニェ夫人は、悪女ブランヴィリエ夫人の処刑に対して批判的、嘲笑的、傍観者的であったが、最後の彼女の断頭台上における崇高さ、悔悟した魂の美しさに涙を流す者も、決してないわけではなかった。 処刑の翌日、まだくすぶる熱い灰のなかを掻きまわして、殉教者の遺骨を拾おうと、グレーヴ広場にやってきた者も何人かいた。そして後には、ブランヴィリエ夫人の遺骨と称するものが、魔除けの護符として高価に売られもしたのである。 |