この事件については、まだまだ書くことがたくさんあるけれども、いったい、切り裂きジャックの正体は何者か、という問題に話をしぼってみよう。当時から現代にいたるまで、これほど多くの仮説や臆説の立てられた問題も、めずらしいのである。
いちばん傑作なのは、医者で毒殺犯だったトマス・ネイル・クリームを犯人とする説であろう。
彼は処刑台の上で、「おれがジャック・ザ……」と言いかけた瞬間、ばたんと台が落ちて死んでしまった。しかしこの説の弱点は、ホワイトチャペルの犯罪当時、彼がアメリカの刑務所にいたという事実である。これでは話にならない。犯罪者のなかには、自分の犯した罪をできるだけ大きく吹聴したいという欲望をもった者がおり、クリームも、この型に属する人間だったのだろう。犯人はポルトガルの船員ではないか、という説もあり、遠洋漁業の漁船の乗組員ではないか、という説もある。魚の腹を裂くことに熟練した者ならば、女の内臓をえぐり出すことも容易だろう、というわけである。
ウィリアム・スチュアートという広告絵描きは、切り裂きジャックの正体は女であり、産婆ではなかったか、という珍妙な説を提出している。淫売婦たちに堕胎の世話をしてやる産婆であれは、怪しまれずに女たちに近づくこともできるし、女の部屋へこっそり入ることもできる。最後の犠牲者ケリーの部屋の炉には、女の服を焼いた灰が大量に残っていた。これは、犯人が血にまみれた自分の服を焼き、犠牲者の服を代りに着て、部屋を出て行ったのではないか、というのである。ちなみに、探偵作家のコナン・ドイルも、犯罪が行われた当時はまだ無名であったが、犯人が女装をして警察の目をくらましたのではないか、という説をいだいていたらしい。
強盗、詐欺、銀行破り、殺人などの罪状で死刑を宣告されたフレデリク・ディーミングという男も、死ぬ前に、自分がジャックだと告白した。彼のデス・マスクは、ロンドンの犯罪博物館に残っているが、これをジャックの本物の顔だと信じている人もいるようである。毒殺魔として名高いポーランド人のジョージ・チャップマンも、同じ頃ホワイトチャペルで、外科医の店を出していたので、よくジャックと混同される。
新聞記者のドナルド・マコーミック、およぴ小説家のコリン・ウィルソンが熱心に主張しているのは、ロシア人のペダチェンコという医者を犯人とする説である。この医者は先天的な殺人狂で、ラスプーチンの親友で、ツァーの政府の手先となって、英国を混乱におとし入れるためにロンドンへ送りこまれた。つまり、ロンドンにはロシア人の亡命アナーキストが大勢いるので、世間を騒がすような犯罪を犯して、その責任を彼らに負わせようというわけである。ロシアの秘密警察《オフラーナ》の公報によると、ペダチェンコがロンドンで女に化けて、五人の女を殺害したという事実が記載されているという。
そのほか、犯人は胸を病んだ貴族の医学生だという説(まるでドストエフスキーの小説のようだ)や、王家の血をひく名門ラッセル家の一員だという説(バートランド・ラッセルは抗議をしている)もあるが、どれも根拠は薄弱なようである。