ところで、ロンドン警察では、いつ頃からか、ほば真犯人の見当をつけていた模様である。ごく最近になるまで厳重に公表されなかったデータが幾つかあり、当局者のあいだだけで、真相は秘密にされていたらしいのだ。じつに奇怪なことと言わねはならないが、たぷん、犯人の家族の名誉のために、このような処置がとられたのだろうとしか考えようがない。アメリカの作家トム・カレンが、当時の記録を丹念にあさって、一九六五年、ようやく切り裂きジャックの正体を見破ったのである。ホワイトチャペルの恐怖の日々から数えて、じつに六十八年後のことである。
秘密の保管者は、一九〇三年から一九二二年まで、スコットランド・ヤード刑事捜査部長を勤めていたメルヴィル・マクナートンという男だった。彼のノートに、有力な容疑者として三人の名前が挙げられてあり、とくにそのなかで第一番目の者が最有力だ、と言及されているのである。
一八八八年十二月三十一日、つまり、切り裂きジャックの最後の犯罪から七週間目に、テームズ河から一人の溺死者が引き上げられた。モンタギュー・ジョン・ドルーイットと呼ばれる三十一歳の青年弁護士で、オックスフォード大学出の秀才、父は王立外科医アカデミー会員・ドーセット家につながる名門の息子だった。代々医者のー家で・祖父も叔父も従兄弟も医者である。溺死者の屍体は、約一カ月間、テームズ河の水に漂った末に、ある船頭に発見され・引き上げられた。ポケットには石がつまっており・覚悟の自殺と見なされた。死亡診断書には、発作的な精神錯乱と書かれた。−これが切り裂きジャックの正体である!
少年時代から、大ブルジョワの子弟として何不自由なく暮らし、学業は優秀で、テニスやクリケリトなどのスポーツにも堪能で、将来を嘱目されていた青年であった。それがいつ頃から怖ろしいサディストの徴候をあらわしはじめたのだろうか。刑事捜査部長のノートにも、くわしいことは全く書かれていないのである。ただ、トム・カレンの推理によると、彼は事件の当時、ホワイトチャペルから歩いて数分の距離にある、法学院インナー・テンプルに下宿していたのであり、これが深夜の犯行を容易にしたらしいという。まさか法学院に殺人鬼が住んでいようとは、警察も思い及ばなかったにちがいない。
警察内部でも、多くの者は犯人を医者ときめこんでいたが、事実は弁護士だつた。しかしこの弁護士は、子供の頃から医者に取り巻かれて暮らしていたのだった。
バーナード・ショウは例の皮肉な調子で、切り裂きジャックは社会改革家だ、と言ったことがある。殺人という電撃療法によって、社会の病根をえぐって見せた、という意味だろう。その通りかもしれない。