当節では、殺し屋のダンディズムといえば、ダーク・スーツに黒眼鏡、絹マフラーに白手袋と相場がきまっているようであるが、十九世紀初頭のロマンチック時代には、いささか様子がちがっていた。軍隊脱走、手形偽造、強盗、殺人など数々の犯罪を犯し、ついに描えられて断頭台にかけられた泥棒詩人、ピエール・フランソワ・ラスネールもまた、大へんな当時のダンディであったが、ただ彼の気に入りの服装は、シルクハットにフロックコート、それに襲飾りのぁる袖口から出た織細な手には、つねに象牙の握りのついた黒檀のステッキを握っていたというから、こちらほ、いかにもロマンチック時代にふさわしいダンディぶりではある。
 映画『天井桟敷の人々』をごらんになった方は、パリの浅草のようなごみごみした場末の歓楽街に、代書星の看板を掲げた不敵な殺し星、死んだ名優マルセル・エラソ扮するところの、ラスネールなる人物が出てきたことを思い出されるであろう。これは、実在の詩人ラスネールをモデルにしたもので、メロドラマの筋を別にすれは、かなり忠実な実在人物の再現となっている。
 一口にダンディズムの悪魔派詩人といっても、たとえばボードレールのような青白いインテリは、殺人はおろか、ろくに女遊びもできないような気弱な人間にすぎなかったが、このラスネールは、敢然として下層社会に身を落し、悪の道をまっすぐ突っ走り、裁判所で社会と道徳を愚弄して、笑って死んでいった剛毅な男である。わたしがこの男に惚れこんでいるとしても、無理はなかろう。
 一八〇〇年、リヨンの近くのフランシユヴィルで生まれた少年ラスネールは、どういうわけか、成り上り老の商人の父から疎んぜられ、里子にやられたという。両親は兄や姉ばかり可愛がっていた。この少年時代の不幸の経験が、後年、彼をして社会や人類や道徳や、ありとあらゆるものを憎悪させる動機になった。これらのことは、ラスネールが死刑になるまで款中で書き綴った、有名な彼の『回想録』に事細かに述べられている。
 中学校でも、彼は教師たちのもてあまし者だったらしい。それでも読書好きで、早くからヴォルテールやディドロなどの啓蒙思想に親しみ、また、こっそり猥本を手に入れたところを見つかって、放校になったりしている。当時出たばかりのサド侯爵の小説なんかも、きっと読んでいたにちがいない。
 青年時代に、ラスネールは偽名を使って軍隊に入り、やがて軍隊を脱走してパリに出、やくざ老仲間と交際をもつようになった。すでにイタリアのヴェロナで殺人を犯したこともあり、たびたび留置所入りをしたこともある彼は、頭もよいし、度胸も十分だったから、たちまちやくざ仲間の親分格になり、マルセル・カルネの映画にあるように、代書屋の看板を出しながらひそかに強盗や窃盗の荒かせぎをした。夜、詩を作る楽しみだけはやめられず、友達の一作家の手引きで、文壇や社交界に顔を出すようにもなった。
 昼間はパリの場末のサン・マルク街で、小汚ない服装をして、寄席芸人や香具師や淫売婦や乞食とつき合っていたラスネールが、夜になると、りゅうとした服装に身をつつみ、髪の毛を波打たせ、細い口髭をぴんと立たせ、愛用のステッキを片手にして、貴婦人たちの群がる社交界や文壇や、さては豪華な賭博場へと出かけて行くのであった。昼と夜の二重生活を、彼はみごとに使い分けていた。
 『回想録』によると、この頃、彼はいかさま賭博がばれて、有名な小説家バンジャマン・コンスタンの甥と決闘をしたり、某サロンの貴婦人と熱烈な恋愛をしたりしたそうである。しかし、この一世一代の大恋愛は、当時ヨーロッパ中に猖獗をきわめた悪疫コレラによって、女があっさり死んでしまったので、一巻の終りとなった。この恋人の死で彼は深刻に悩んだらしく、まだ三十そこそこだというのに、髪の毛が真っ白になってしまった。
 シャンゼリゼの男色家アドルフという男と組んで、強請《ゆすり》を専門にはたらいたこともある。つまり、アドんフを囮《おとり》にして、自分は刑事になりすまし、アドルフと寝ている男色家を脅迫するのである。当時は鶏姦罪がまだ生きていた。情事のもつれから、二人の与太者をピストルで射殺したこともある。賭博場における彼のポーカー・フェイスと、悪事を犯す時の彼の冷静な落着きぶりは、伝説的な語り草となっている。


 一八三四年、ラスネールは、かつて刑務所内で知り合ったシャルドンという男を殺害した。アヴリルという手下の男を連れて、シャルドンのアパートへ乗り込み、馬具商が使う尖った大針を、シャルドンの心臓にぐっさり突き刺したのである。隣室ではシャルドンの母親が寝ていたが、彼女の手にしっかり数珠が握られているのを見ると、ラスネールの心に、故知らぬ憎悪の念がむらむらと湧き起り、彼は眠っている彼女の手から数珠をひったくって、壁に投げつけ、驚いて目をさました老婆の、頭といわず顔といわず、滅多打ちにして打ち殺した。それから、盗んだ毛皮のマントを引っかけて、トルコ風呂へ行き、血の汚染を洗い流して、自宅へもどった。
 これが十二月十四日の犯罪である。この殺人の動機は、ラスネールの詐欺をシャルドンが嗅ぎつけていたので、彼のロを封じてしまうためだった。それから約二週間後の十二月三十一日、彼は贋手形を発行して、マレ銀行の出納係を某所に呼びつけ、金を奪って殺そうとした。しかし、この時は騒がれて犯行は未遂に終り、彼は手下とともに大急ぎでパリを逃げ出して、ディジョンに落ちのび、ここでまた偽名を使って贋手形を発行したところ、ついに露見して逮捕され、ラ・フォルスの監款に送られることになったのである。
 最初、彼は贋手形事件で収監されていたので、殺人事件の容疑者ではなかった。ところが、同時に逮捕された共犯者が、口の軽い男で、ラスネールの名を洩らしてしまったので、ようやく警察は、別件で逮捕された彼の身許を洗い、彼が殺人事件の首魁であることを見破ってしまったのである。ラスネールは監獄付属病院の一室に身柄を移され、供述書を取られ、やがて裁判に廻されることになった。裁判になれば、死刑は確実であろう。
 新聞はこの殺人事件を大々的に取り上げ、犯人の経歴をくわしく紹介し、彼の詩を紙面に掲載した。毎日のように、監獄の病室にジャーナリストがつめかけ、ラスネールの毒をふくんだ、皮肉な言葉を争って聞き出そうとした。やがて文士や医者や弁護士や、それから物見高いパリの紳士や有閑夫人までが、この稀代の悪人の姿を一目見ようと、ぞくぞくラスネールの病室に押しかけ、彼の部屋は、まるでオペラ座の人気役者の楽屋のようになり、刑務所の役人は、おびただしい面会人を整理するのに汗だくになったと言われる。
 面会人は、予約をして席を確保しなければならなかった。一ペんに大ぜい収容できるように、病室が三つぶち抜かれた。ラスネールは人々の質問に答えて、自分の少年時代の思い出やら、情事やら、犯罪やらの事実を淡々と語った。ときどき、沈痛な面持で、自作の詩を朗誦した。人々は、まるでヴィクトル・ユーゴーの家を訪問したかのように、神妙な顔をして聞いていた。女たちは、犯罪者のメランコリックな美貌に、優雅な物腰に、さわやかな弁舌に、酔ったような気分になるのだった。
 ある熱狂的な女性ファンが、「お芝居を書く気はございませんの?」と質問すると、ラスネールはにっこり笑って、「その気もあるし、取っておきのテーマもいろいろあるんですがね、奥さん、残念ながら暇がなくて……」と答えたという。


 裁判は一八三五年十一月十二日から始まった。毎回、傍聴人が廊下まであふれ出し、ラスネールが被告席につくと、裁判長は騒ぎを静めるのに一苦労した。被告の沈着ぶりたるや、驚くべきものがあった。しかし、それよりもっと驚くべきは、思いもかけない被告の陳述であった。傍聴人たちは、当然のことながち、被告が自分の行為を弁明するものと信じ、それを期待していた。しかるに、その期待は完全に裏切られたのである。
 「わたしの共犯者は、わたし自身の犯罪に何の関係もありません」と彼はまず断言した、「わたしは自分の責任において、ひとりですべてを計画し、決行したのであります。したがって、わたしだけを問題にするならば、殺した相手は二人どころではなく、十人、いや、百人にも達するでしょう。それでも下手な戦争の、下手な指揮官はどにも殺してはおりません。残念ながら、わたしの手下は無能でした。わたしの戦争は、蟻の喧嘩みたいなものでした。お恥ずかしい次第です。しかしながら、わたしの弁護士は、わたしの立場をあまりにも過小評価しているような気がいたします。わたしだって、勲章をもらうくらいの資格は十分あるつもりなので……」
 法廷は静まりかえり、傍聴人たちは茫然自失してしまった。この極悪人の、社会と道徳に対する最後の挑戦に、すべての者が気をのまれ、声もあげられないのだった。ラスネールは落着きはらった、皮肉な、勝ち誇った調子で最後まで続けた。「わたしは人類を憎悪し、すべての同時代人に嫌悪をおぼえます」とも言った。「社会に対する復讐を、片時も忘れたことはありません」とも言った。
 これまでロマンチックな英雄崇拝から、ラスネールを賛美していた新聞の論調は、この日を境として、がらりと変った。冷酷な獣、ダンディの仮面をぬいだ悪魔、人類の敵といった表現が使われ出した。面会人の数は激減した。名高い骨相学者が、まだ生きているうちから彼のデス・マスクを取りにきて、研究資料にしようとした。一方、ラスネール本人は、世論を挙げての非難もどこ吹く風と、監獄の一室で、相変らず詩を書いたり、『回想録』を執筆したりするのに余念がなかった。裁判の判決は、もちろん死刑であった。
 この『回想録』のなかには、まことに意味ふかい言葉の断片が発見される。「ああ、もしわたしが両親に愛されていたら!」とか、「子供は、愛されることより以上の望みをもたないものだ」とかの言葉がそれだ。この極悪人の心には、人一倍、愛を求める気持が激しかったのだろうと推測される。両親は冷淡だったが、幼い彼を育てた乳母はやさしい女だったらしく、彼が生涯に契った情婦は、すべて乳母に似た女だったともいう。
 彼の詩を引用する余裕がないのは残念であるが、「死刑囚の夢」という詩の第一行目は、「夢みる時は幸福なるかな」という言葉で始まっている。じつに甘美な、哀切な詩だ。
 死刑執行の日は、一八三六年一月九日であった。酷寒の朝、暗いうちから起されて、共犯者のアヴリルとともに、荷車で死刑場に運ばれて行くあいだ、ラスネールは、生涯の最後の冗談をとばした。「墓場の土は冷たいだろうな!」と。アヴリルもそれに答えて、「毛皮を着せて埋めてくれって、頼んでみろよ」と言った。
 死刑場はまだ暗かった。最初にアヴリルの首が斬り落されると、今度はラスネールの番であった。ギロチンの刃の下に、彼はすすんで自分の首を差し出した。そのとき、ふしぎなことに、ギロチンの刃は中途で止まって、落ちてこなかった。五度失敗し、六度目にようやく彼の首は断ち切られたという。こんな故障は、めったにないのである。


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Last-modified: 2006-08-19 (土) 10:56:19