脳を創る読書
なぜ「紙の本」が人にとって必要なのか
帯「書籍・雑誌など、紙に印刷された「文字」が『脳』に与える効果とは?
東京大学大学院総合文化研究科教授 酒井邦嘉著 実業の日本社 2011年

P003 本書が良識ある慎重な議論の呼び水になることを願ってやまない。
ーならんだろう。こんな思いつきと矛盾だらけの本出しても喜ぶのはアホな雑誌編集者くらいだろう。

P005 この本を、地球の裏側まで旅を共にした畏友、故光森道英先生に捧げる。
ー迷惑だろうなぁ・・・お気の毒としか言いようがない。

P034 アナログとデジタルの表面的な対立自体に問題の所在があるのではない。
P035 アナログとデジタルの違いだけで理解や記憶に差がでたり、脳における処理に違いがみられるなどということはない。紙の本と電子書籍の比較を、アナログとデジタルの比較に置き換えてしまうと、問題の本質が全くすりかわってしまうことに注意したい。

P036 手書きは活字より圧倒的に情報量が多いのだ。
ー「情報」の意味をすりかえている。手書きだろうが活字だろうが本質的な情報。その筆者が伝えようとした情報の量は変わらない。付加されるのは別の情報だ。それこそ、問題の本質がすり替わってしまう。これは、絵を評価するときに額縁や美術館について評価するのと同じだ。旅行で美術館を訪れたときの苦労や感動、作品に見合うだけの額縁や展示室(広い展示室に一つしか置いてなかったりすること)は記憶に残るだろうし、それも絵を鑑賞する一部とも言える。しかし、それは絵画そのものの評価に加えてはいけない。画家は美術館に置かれて額縁に収められた状態で描いたわけではない。イーゼルに乗ったカンバスそのものが作者が鑑賞者に対して投げかけた課題なのだ。それと向き合うことが絵画を鑑賞するという行為だろう。額縁や美術館を作品の一部にして褒めるのは作品を愚弄するのと一緒だ。

P038 入力の情報が少ないほど、脳は想像して補うことはすでに述べたが、これとは逆に、出力の情報量が多いほど、脳は想像して補うことになる。人に伝えたいという思いは同じでも、電話や会話のように表現の自由が増せば増すほど、相手がどのように受け止めているか、自分の意志がうまく相手に伝わっているか、といったことを創造力で補いながら話す必要があるからである。(略)
 このように、言葉を通して他人と話ができるためには、聞くことと話すことの両方に想像力が必要なのである。自分と他人の間でこの想像力に開きがある場合には、話が通じない事が容易に予想される。「馬の耳に念仏」という状態は、相手に想像力が足りないために起こるわけだ。
 さらに言えば、相手に自分と同等の想像力が備わっているときに限って、「話せばわかる」ということが真実になる。
 また、自分と相手が共通の価値観や問題意識を持っているときには、深い意味で本当にわかり合えることだろう。
 脳の想像力を十分に生かすために、できるだけ少ない入力と豊富な出力を心がけるとよい。
 もっとわかりやすく言えば、読書と会話を楽しむことが一番だ。これこそがもっとも人間的な言語の使い方であり、創造的な能力を活用する読書の最善の方法だと言えよう。
ーつっこみどころが多すぎる。読書をするときに電子書籍より紙の本がいいという趣旨と全然噛み合っていない。何がいいたいのかさっぱりわからない。それは置いても、矛盾した点がある。
 入力の情報が少ないほど想像して補わなければならないから「創造的な能力を活用する読書の最善の方法だと言えよう。」というのなら、「言葉を通して他人と話ができるためには、聞くことと話すことの両方に想像力が必要なのである」と矛盾するだろう。だって、会話の情報量が多いなら、受け取るときには豊かな情報があるから想像力は必要がない事になる。
 「「馬の耳に念仏」という状態は、相手に想像力が足りないために起こる」という態度もおかしい。相手の表情や態度返事を見て相手が理解しているか聞いているかを想像して話してやる事が必要だろう。馬耳東風の人間を相手にして「こいつは想像力が不足している」という態度のほうが想像力がないだろう。本当に能力がある人なら子供にでも分かりやすく語れるはずだ。自分と同等の価値観や問題意識を持っていない相手と話しないようなのはそれこそ相手の気持を推し量れない想像力欠如野郎だろう。

 ここらか50ページ全く電子書籍と紙書籍の問題と無関係な話。面倒くさいので突っ込まない。

P087 直線は、人間固有の能力の反映であり、人工物の象徴である。
ーいやいや、鉱物や雪の結晶見てよ。直線だらけだから。それに、この本の中でもフラクタル扱ってたやん。フラクタルの最小単位は直線だよ。それに、直線も曲線なんだよ。それは数学的に証明されている。

P088 「円」を描く能力である。自然界で見える円といえば、太陽や月くらいであろうか。・・・地球上で円が描ける動物は人間以外にいない。
ーいやいや、いっぱいあるじゃん。植物の花とか果実なんか円のものは多いだろう。水滴を平面においても円になるし。円や球は合理的で自然な形といっていい。むしろ、ほっておいたら円になるのが自然なんだ。だから天体は球なんだろう。動物でも丸い巣を創るものはある。卵だって上から見たら人間がフリーハンドで描く円より丸いだろう。

P089 想像力が働かないと、記憶するのが難しくなる
ーふつうのコトが書かれている。間違いではないと思うが、新しいことは全くない。そして、電子書籍と無関係。

P109 (文字コードの限界について)この点だけをとっても、電子書籍によっては限界が現れる。・・・統一規格がないと・・これが文字のきわめて豊かな日本語にとって一つの障碍となっているのだ。
ーUTF-16や超漢字など克服への努力はなされている。漢字が増え続けない限り克服される課題だ。単に過渡期の問題でしかない。紙書籍が電子書籍より優っている本質的な問題ではない。

P118 電子書籍の違和感はどこに原因がある
ー違和感はない。様式って何?それは単に、そういう予備知識があるからに過ぎない。最初から電子書籍で育てば違和感など存在しない。つまり、違和感を持つのは比較対象を知っているからに過ぎない。つまり電子書籍の本質的な問題ではない。作者も書いている「これは過去の経験に基づいて脳に自動的に作られる鋳型のようなものだ」と。だから、鋳型がなければ違和感などない。

P121 読書量が多ければ多いほど、言語能力は鍛えられる。
小さいときに想像力を十分身につけないまま大人になってしまったら、どうだろう。文字通りの意味がとれるならまだしも、思い込みだけで読むようになったら、その間違いを決して自分では修正できない。そして、自分勝手に書いた文章を、他人がどこまで時間をかけて読んでくれるだろうか。相手は自分の文章をどう受け取るだろうか、という想像力こそが必要なのだ。自分の真意を相手に伝え、相手の心を動かすような文章を書くのは本当に難しい。
ー全面的に同意するが、紙書籍の優位性と無関係。電子的なテキストのやりとりでも十分身につけられるだろう。

P123 マジックは人の想像力がなせる不思議
ー同意できる内容だが。「人はだまされたがる」とくらべて浅薄な内容でしかない。また、紙書籍の優位性と無関係。

P124 想像力が言語コミュニケーションを円滑にする
ー題名については同意だが。これも紙書籍の優位性と無関係だ。そして、問題意識があさっての方向を向いている。何がいいたいのか分からない。ここでは、「メールは情報量が少ないから誤解を生じやすい」としか言っていない。「書き手が想像力を働かせて情報を盛り込めば誤解は防げる」とか「読み手は想像力を働かせて行間を読め」なんて、当たり前であって、読書の方法とは無関係だろう。それに、「情報量が少ないほうが想像力を鍛える」という意味で言えば、曖昧なメールのほうが脳のトレーニングとしては良いということになるだろう。なのに、「メールだけですまそうとせず・・」って、繰り返しになるが、何がいいたいのか分からない。筆者は想像力を伸ばすための読書について紙書籍がいいということを書きたいのではないのか?

P132 読書を通して想像力を培うことができれば、言語能力も同時に鍛えられる。すると、言語能力に裏打ちされた思考力が確かなものになる。これが本書の「脳を創る」という意味である。
ーだったら、上のメールの話なんか要らないだろう?後、紙書籍の優位性と無関係だ。それに、情報が少ない読書が想像力を創るといいながら、電子書籍には紙書籍の持つ情報がないからダメというのは矛盾しているだろう。情報量が少なければ少ないほどいいのなら電子書籍のほうが良いといえる。

P134 コンピュータの画面上では、文字と画面の位置関係は一定していない。長い文章に慣れば、必ずスクロールする。・・・紙の上では、文字と紙の位置関係は常に一定であり、各ページごとに行きつ戻りつ参照できる。・・・紙は画面よりも注意を向けやすい対象なのだ。
ー全く本質的な問題ではない。大体、スクロールして読む電子書籍なんて見たことがない。kindle でも iBooks でもページメタファが使われている。その後の、認知の実験についても全く無意味。電子書籍でレイアウトを固定することは簡単だからだ。この実験は有効かもしれないが紙書籍の優位性とは無関係だ。この実験を引用した意味が分からない。

P142 電子辞書ではあまり働かない量的な感覚が、紙の辞書では有効に使える。漢和辞典などはその典型で、使えば使うほど、ある一つの部首を持つ漢字がどのくらいあるかが、辞書の実際のページの厚みとして感覚的にわかってくる。すると、ある部首の何画の漢字ならこのへんに載っている、というような勘が働くようになる。
ーそれがどうした。漢字(や外国語の単語)の意味を知るという目的達成と関係がない。これは、鈍行の旅を進めるようなものだ。鈍行の旅にはど運行の旅でしか味わえない経験があるだろう。だからといって、出張の時にも鈍行を使えとは誰も言わないだろう。紙の辞書を勧めるのは、出張にも鈍行を使えというようなものだ。

P143 電子書籍はここが問題 電子書籍では手がかりが希薄である。・・・全体のどのあたりを読んでいるかを把握しながら読むことができる。・・・
紙の本では、1行開けるとか、章立てによるページ替えというようなレイアウトにも明らかな情報があり、電子化の際にこうした情報を落としてしまうと、そうした視覚的な印象や手がかりが失われる。
P145 電子化されるときの問題点とは:辞書と本文を同時に表示できないこと、インデントがない作品があったこと、OCRで取り込んだときの誤植。
ーこれらは全て電子書籍化するときに発生した問題であって、ちゃんとした電子書籍を作れば解決されることだ。電子書籍の本質的な問題ではない。そもそも誤植なんて紙の本にも存在する。紙の本をOCRで読み込んで電子書籍にするという行為自体が過渡期のことで、最初から電子データで作家が書いて編集し作成した電子書籍なら、紙書籍の誤植と同程度以下の確率でしか誤植は発生しないだろう。少なくとも手書き文字を出版物用の原稿データに入力するときの転記ミスの可能性分減る。

P147 紙の本には独自の楽しみがある
ー物理的なフェティッシュとしての楽しみであって、作者が書かんとしたことを読者に伝えるためのメディアとしての「本」の役割ではない。「書籍・雑誌など、紙に印刷された「文字」が『脳』に与える効果」と関係がないだろ。そもそも、「積ん読」なんて読んですらいない状態だろう。紙の本を買ってきて積んでおけば想像力が増えるのか?

P149 紙の本には「初版本」という代えがたい存在がある
ー前章と同じ。初版であるかどうかは作者と読者との関係の中で何の価値もない。同じ版を再販した場合には情報は同一だし、再販時に作者が手を加えたとしたら、より作家の伝えたいことを盛り込んだのは再販版だろう。情報の価値としてはそちらのほうが上だ。

P156 手書きの手紙と共通する紙の本の新のよさとは たとえ全く同じ文面だったとしても、メールであれば、あまり印象に残らなかっただろう。
ー全然主題と関係の無い話題だ。

P157 授業中に手書きでノートを取る意味はなんだろうか?
ープリントよりメモを取るほうが記憶に残るというのには賛同するが、手書きかどうかは関係がない。まして、出版物の配布方法としての電子書籍と紙書籍の問題とは全然無関係だろう。

P158 囲碁や将棋でも、基本のトレーニングは、一手一手自分で手を動かして盤上に石や駒を並べるところから始まる。
ーこんなもん完全な偏見だろう。いまの棋士はPCで棋譜の吟味を行う。考える手段として石や駒を手で並べることとPC上の駒を動かすのと差はない。PCモニタ上の盤面だからといって考えられないなどというのはそれこそ「想像力の欠如」だろう。

P159 高価な石や駒を見てもわかるように、縞や木目、そして掘られた文字の一つ一つに個性がある。愛着を持って石や駒を使い込むほどにその人の思索の家庭が脳に刻まれていく。それは、紙の本でも同じことである。一冊一冊の個性的な本を通して考えた過程は、「脳を創る」ことになるのだ。
ー前の方で「入力は少ないほうが想像力を鍛える」といっていた事と矛盾している。また、突然「紙の本でも同じことである」とあるが、なぜ同じなのか全く分からない。印刷物は手書きよりはるかに情報量が少なく印象が少ないのだろう。手書きの文書と高価な石や駒が同じなら、電子かどうかは別にして、マスプロダクトの書籍なんて無個性なメールと同じじゃないのか。
 高価な石や駒にこだわるのも嫌味だ。高価な石や駒でないと「脳を創ること」ができないのか?安物の折りたたみの盤の持つ情報は高価な盤より少ないのか?今の名人達は高価な石や駒、盤で練習したから強くなったんだろうか?

P159 電子書籍で手軽に本が買えて読める文化ができた一方で、初版本が復刻されたり自筆原稿本が出版されて人気を読んでいるのはなぜだろうか。その背景には、急速に進んだ電子化の方向とは逆に、よりオリジナルに近い素のままの情報への渇望が根強く存在するためかもしれない。
ー「素」というのはプレーンなテキストデータだろう。それこそが作者が紡いだ作品の本質だろう。紙の触感や重さ、表紙の材質や絵などは作者が作ったものではない。飾りだ。そんなものをありがたがるのはだたの懐古趣味でしかない。読書を作者の書いたことを読み取り味わうという行為とするならそれ以外は空虚な付加価値に過ぎない。

P162 「電子化」で脳が進化することなど、ありえない 
ーこの主張には賛成だ。「進化」を種の淘汰による環境への対応という意味ではだ。そういう意味では紙の本だろうが高価な石や駒だろうが一緒だ。読書を通じて能力を伸ばせるのなら、紙媒体だろうが電子書籍だろうが同じように伸ばせるだろう。

P162 (外国語の習得について)考えようという意識のある人には、映像に頼らず、音声や活字だけの作品を楽しむほうが有意義だろう。
まずはラジオやCDを通して音声だけに集中する学習方法のほうがよい。
音声になじむようになったら、今度は活字の番だ。・・・また、海外の映画やドラマを言語の字幕で繰り返し見ることで、音声と活字に同時に触れる方法もおすすめである。
ーあれ?前の方では映像に頼らずと書いていたのに最後の方では映画やドラマを視聴することがおすすめされているよ。それに、外国語の会話を覚えるには会話が一番だろう。会話というのはこの本の前半にあったように大量の情報を受け渡しする。子供が親や兄弟との会話から言語を学習するときにはこれに頼る。これによって数年でマスターする。音声だけや文字だけのトレーニングなんて不要だ。書くのも面倒くさいが電子書籍の話と関係ない。

P168 朗読は心に響く読書である 東日本大震災が起きた直後には、俳優の渡辺謙さんが『雨ニモマケズ』の朗読をユーチューブで発信し、多くの人に勇気と希望を与えたことが記憶に新しい。よく知っている作品でも、朗読で聴くと本当に情感豊かで味わい深いものが多い。
ーあれえ?音にすると情報量が増えるから脳を創ることにつながらないんじゃないの?情報量が少ないほうが脳を創ると言ってたのと矛盾しているでしょ。

P176 学習支援プログラムでドリルだけをどんなに解いても、わかったことにはならない。
ーそれはそうだが、紙製のドリルならわかったことになるのか?ならないだろう。ここで批判しているのは電子書籍版のドリルの問題ではなく、学習方法の話で完全にすれ違っている。
ついでにいうなら、ドリルでとくことで身につけた知識で処理できることはそれで十分だ。九九を覚える方法にDSを使おうがノートに書こうがなんて問題はない。九九を使って応用的な問題を解く基本ができればいい。そのためには繰り返し叩きこむことが必要だ。これは言語の習得と一緒だ。トレーニングレベルの学習と応用力の研究とをごっちゃにして論じている。この人想像力が足りないんじゃないの?

P180 明らかな退行現象をこのまま進めて良いのか 文字を書くことを面倒くさがるようでは、書字の先に積み上げられていくであろう知的作業のすべてが雑になってしまう恐れがある。
ーない。関係ない。手書きするのは面倒くさい。手書きしたメモをビジネス文書にするために転記する時間は無駄でしかない。キーボードで知的作業が雑になるのはスキルが低いからだ。そして、電子書籍とは無関係の話だ。

P181 日本語入力には必須の「かな漢字変換」もまた、思考とは直接関係ないプロセスだから、思考の中断を生み、集中力を減退させるという負の効果もある。文字を書くほうがはるかに自然な表現なのだ。
ーない。漢字を思い出しながら手書きするよりはるかにスムーズに入力できる。そもそも文字を書くことを人類が日常的に使うようになったのは数百年のことだろう。まだまだ人類はこれに対応した状態に「進化」はしていないのだろう。まだ過渡期なのだ。そんんなときに前のステップに拘泥するのは愚の骨頂だ。

P184 インターネット上の文章を自分のレポートにコピーして提出した学部生・・・明らかな剽窃行為であり・・・日常的に使っているコピーに麻痺してしまって罪の意識が希薄だったのだろう。
ーこのセンセーは論文もこんな希薄な予想や偏見で論文を書いているんだろうか?推測だけで全然説得力がない。手書き時代にだってレポートのコピーはあったし、ウソの論文だってあっただろう。昔は本を探して手写したのがインターネットからコピペで済むようになっただけの話だ。手書きにしたからといって本質的な解決にはならない。そもそも電子書籍とは無関係の話だ。

P188オーディオの電子化でなくしたものがある。
ーここでも、周辺情報やアナログ賛美。昔のレコードでは曲間にプツプツというノイズが常にあって不快だった。CDにはない。プツプツなどというのは元の演奏にはないものだからだ。それに、蓄音機の音が今のCDより良いなどということはない。そんなものは、その気になればCDから抜いた音にランダムノイズをかぶせたりイコライザー処理で再現できる。蓄音機はCDクオリティの音は出せない。トイカメラをありがたがるのと同じだ。悪くはないが本質ではない。電子書籍とは無関係の話だ。
大体、蓄音機もCDも再生音なのだ。管弦楽団の生の音圧に勝るものなどない。

P191 写真撮影の電子化は芸術性を損なう場合がある デジカメに大容量のメモリー・カードを入れてしまうと、フィルムを交換した時のように、「さあ、撮るぞ」というモチベーションは持続しにくい。フィルムは、限られた枚数しかとれないからこそ真剣勝負なのだ。そういう緊張感がデジカメでは失われがちである。
ーフィルムの残枚数を気にするのは写真に集中できてないことだ。アナログ時代だってプロは一枚の写真をものにするために何十本ものフィルムを使っていた。36枚取りのフィルムを一本入れて「さあ、勝負」なんて写真家アナログ時代だっていなかっただろう。
それに、撮影可能枚数が増えたからといって集中力が削がれてしまうのはカメラマンの能力不足でしかない。フィルムカメラを使ったことのない写真家も現れる。彼らはそれを当然として受け止めて写真芸術を作るだろう。というより、すでに写真展とかに出品される写真も大半がデジタルカメラだ。だからといって以前より芸術性が落ちただろうか?この人、知らないなら黙ってたほうがいいよ。
後で処理できることについても、フィルムカメラは写真屋さんがやってくれていた(激安現像チェーンではオート)だけで、デジカメは自分でできるようになっただけだ。自分が見た(感じた)画像に近づけるための操作が自分でできるのは素晴らしいことだ。フィルムカメラがそうであったように、デジタルカメラでもプロは現像にも力を注ぐ。「デジカメは撮影半分、現像半分」と書かれていたプロがいた。

P194 白黒だからこそ表現できる、高い芸術性や精神性があることも確かだ。それを見た人が想像力で被写体の意味や写真家の意図を補うから、色などの要素が除かれても、その作品が芸術になるのである。写真家が本質を絞って表現するのも、想像力で補って鑑賞するのも、ともに人間的な創造性を高め、「脳を創る」ことにつながるのである。
ーデジタルカメラでもモノクロで撮れるし、そういう写真を撮ってる写真家もいる。デジタルとアナログの話ではない。

P195 ユーサフ・カーシュの写真を見ていると、そのことがよく分かる。・・・著名人たちの写真を大判の白黒フィルムで撮った(少数ながらカラー写真もある)。・・・たった一枚の写真で、その人となりから意思の強さや哲学までが表現されている。カーシュ自身がその人と対峙し、語らい、そして人柄に惚れ込んだからこそ、このような写真がとれたのだと思う。モデルになった人たちも、カーシュに心を許していたからこそ、自然な表情をレンズに向けられたのだろう。写真とは、写真家と被写体、そして写真家と鑑賞者の対話なのである。
ー白黒フィルムで撮ったと言っているが、それしか無かったのではないだろうか。「白黒だから」表現できたのかどうか?
「たった一枚の」と書いているが、撮影したのが何枚かは分からないだろう。伝わっている代表作が一枚しかないのとシャッターを切った回数が一回というのとでは全然意味が違う。この人は前に、デジカメは沢山とれるから作品のレベルが上がらないと書いていた。
「写真とは、写真家と被写体、そして写真家と鑑賞者の対話」というのは賛同する。そして、これを文章にも当てはめるべきだと思う。「読書とは、作家と作品、そして作家と読者との対話」だ。作家と読者の間にあるのは作品(このばあいテキスト)だ。写真の額縁ではない。


トップ   編集 凍結 差分 バックアップ 添付 複製 名前変更 リロード   新規 一覧 単語検索 最終更新   ヘルプ   最終更新のRSS
Last-modified: 2013-12-29 (日) 23:37:26