カトリイヌ・ド・メディチの宮廷にあって最も名高い呪術師は、フィレンツェ生まれのコシモ・ルジエリであり、また最も名高い占星博士は、彼女が三人の息子の運命を判じさせたノストラダムスであった。 彼女がパリに建てた宮殿は「女王館」と呼ばれ、館の庭には、頂に天球儀のような球の載っている、太い円柱のような不思議な建造物も立っていた。円柱のなかには螺旋階段が通じていて、柱頭はトスカナ様式、基底部はドーリア様式、そして柱幹には十八条の縦溝が彫られ、王冠や、百合の花や、動物の角や、砕けた鏡や、8字型に結ばれた飾紐や、さまざまな魔術の象徴物がいっぱい彫り込まれていた。ルイ十五世の時代には、この円柱の柱頭に日時計が設置され、周囲に泉水が彫られた。この奇妙な建造物は今でもパリの市中に残存している。 こうした魔術愛好的な、倒錯的な本能は、多かれ少なかれ彼女の子供たち、フランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世などの気質にも認められ、彼女を中心にして、ヴァロワ朝は数限りない隠微な頽廃的な血の惨劇を繰りひろげることになった。 フランス王家の君臨していた当時のルーヴル宮に、いかに毒の脅威がみちみちていたかを示す好個の例としては、後にブルボン王家の祖となったアンリ四世(当時のナヴァル王)が、いつも自分でセエヌ河に水を汲みに行き、自分の部屋で卵をゆでて食べていたという涙ぐましいエピソードをあげておこう。 十四歳でスコットランド王女メアリ・スチュアートと結婚し、十五歳で王位についたカトリイヌ・ド・メディチの長子フランソワ二世は、あるとき、教会内で突如として高熱に苦しみ出し、そのままぽっくり死んでしまった。 この事件は複雑な政治的陰謀や、またノストラダムスの予言などとも絡み合って、一個の歴史上の謎とされている怪事件である。 フランソワ二世は虚弱で、腺病質で、幼い頃から吹出物や下痢や慢性中耳炎に悩み、性格も暗くて、無口で、ほとんど精神薄弱に近いような出来損いの子供であった。 十九世紀末のポティケ博士が綿密に分析研究したところでは、若い王はアデノイドから左の耳の中耳炎を誘発して死んだらしいのであるが、死んだ当時は、その疑わしい死をめぐって多くのひとが毒殺犯人に擬せられたものであった。 すでに宗教戦争がはじまっていて(一五六〇年)、暗殺者は対立する新教・旧教両陣営内にしばしば不吉な黒い影を見せていた。王の下手人として疑われたひとびとは、実の母であるカトリイヌ、スコットランドから来た若い王妃メアリ、それに、宮廷付外科医であった名高いアンブロワズ・パレも、当時すでにプロテスタント側に同情を示していたので、職掌を利用して王の生命をちじめたのではないかと、あらぬ嫌疑をかけられることになった。 旧教側の大立者ロレエヌ枢機卿(ギーズ公)の元家庭教師たるボオケエル・ド・ペギヨンのごときは、この温厚な外科医パレが、ギーズ家の反対派たるモンモランシイ一族と手を結んで、まるで『ハムレット』の芝居のように、暗愚王の耳の孔に毒物を注入したのだとさえ吹聴した(ド・トゥーの『歴史』第二十六巻による)。−日頃おとなしいアンブロワズ・パレも、こんな毒殺をめぐる疑心暗鬼の雰囲気にはほとほと厭気がさしたのであろう、めずらしく激しい言葉で、「将来毒薬使いになるような人間は母親の胎内から堕《おろ》してしまった方がよいと思う」と述べているほどだ。 カトリイヌ・ド・メディチとその三人の息子を中心とした十六世紀中葉以後のフランスの複雑怪奇な政情は、プロスペル・メリメの『シャルル九世年代記』とバルザックの『カトリイヌ・ド・メディチ』という、十九世紀の小説家の筆になる二つの史伝にくわしく描かれているが、そこには、まことに怖ろしい宗教動乱の呻吟、銃火の響き、火刑台の焚煙、さては悪魔礼拝と毒薬の乱用が、あの華麗なヴァロワ王朝ルネサンス文化の暗い背景として、拭い去ることのできない汚点のごとくに染みついているのであって、ばたばたと死んでしまった肉体的にも精神的にも不具にひとしい王たちの末路も、あの陰惨な黒ミサやノストラダムスの予言と結びついて、なにか凶々しい宿命のごときものを感じさせずには措かないのである。 |