一五八九年に王母が死んだ後も、毒薬使いたちは、決して商売が暇になったりはしなかった。彼らは新教に改宗したブルボン王朝の創始者アンリ四世に対して、手を変え品を変え、攻撃を開始することを要求されたのである。デュロオルの『奇妙な歴史』(一八二五)によれば、アンリ四世は十七回も暗殺の危険にさらされたという。 たとえば一六〇〇年、ニコオル・ミニョンという一女性は王の食膳に毒を投入しようとして、宮廷の厨房に近づき、発覚して、グレエヴ広場で生きながら火炙りの刑に処せられた。 十七回も危険にさらされて、よくも逃れ通したものである。我、ついに、一六一〇年、アンリ四世はラヴァイアックという狂信的な田舎の一旧教徒の凶刃に斃れたのであった。やはり毒よりも短刀の方が効き目は速いものと見える。 アンリ四世は有名な色好みの王様で、その恋人の名は歴史に五十六以上も残っていると言われるが、中でもいちばん名高い美貌の情人ガブリエル・デストレは、一説によると、毒殺されたのであった。 歴史家ミシュレも毒殺説を採っている。すなわち、妊娠九ヶ月だったガブリエルは、徴税官ザメの家でレモンを食い、三日後に死産児を生んで、怖ろしい苦悶とともに息絶えたのであった。 しかし解剖の結果によると、胃に異常は認められなかったと言うし、またアンリ四世も特別の捜査を命じなかったようであるから、彼女の死は子癇か産褥熱による自然死にちがいない、という説をなす者もある。 それよりもっと怪しいのは、アンリ四世の二度目の夫人たるマリイ・ド・メディチの最後であった。 この女ほど評判のわるい王妃も少ないので、それというのが、彼女は大柄で頑丈で、あまり美貌とは言えず、おまけに、フィレンツェの財閥メディチ家の出身だったからである。 彼女の父は、ビアンカ・カペルロと結婚したために死亡し、彼女の叔父は実の母を毒殺した経歴の主である。これも悪評の原因であった。 彼女自身も、若い頃から、錬金道士や魔術師の中で育ったので、カトリイヌ・ド・メディチのように、毒物の操作に慣れ、晩年には壊疽《えそ》に侵された片脚の痛みを毒物の利用によって鎮静していた。 マッソン博士の主張するところによると、彼女はケルンで壊疽が再発したとき、治療に用いていた腐蝕剤を口から飲んで毒死したという。おそらく食物か飲物か、医薬品中に混入していたにちがいない。故意か偶然か、あるいは自殺でもあろうか。(『十七世紀中における妖術と毒物学』一九〇四) |