しかし別の説によると、シャルル九世は母の手によって毒殺されたのだともいう。そしてその理由は、王太后が最愛の息子たる三男(後のアンリ三世)に王権を確保するためだった。もしこの説が本当なら、カトリーヌはたぶん、シャルル九世の優柔不断な性格と無軌道な放蕩が、打ちつづく宗教動乱によって四分五裂の状態になっていた王国を、破滅にみちびくことを憂えたのであろう。 毒殺の疑いを抱かせる有力な証拠は、死の直前、シャルル九世の顔に奇妙な斑点が生じたこと、それから、彼が血の混じった寝汗をかくようになったことである。 毒薬の本場ともいうべきフィレンツェから来たカトリーヌは、その周囲に、毒薬を提供してくれる香料商人を幾人も抱えていた。なかでいちばん有名なのは、サン・ミッシェル橋の上に店舗を構えていたルネ・ビアンコという男である。手袋や手紙に毒を滲みこませる方法は、彼がイタリアからフランスの宮廷に持ちこんだのである。 すでにカトリーヌの送った毒の手紙の犠牲となって死んだと信じられていたひとに、ナヴァル王妃のジャンヌ・ダルブレがあった。当時のひとびとも、ほとんどこの噂を信じて疑わなかったようである。ジャンヌは息子のアンリとマルグリット・ド・フランス※(カトリーヌの娘で、後に女王マルゴの名で知られるようになった淫蕩な王妃)の結婚式に参列するために、パリにやってきたが、到着後六週間にして死んだ。 だからカトリーヌ・ド・メディチの名は、ちょうどイタリアのボルジア家と同じように、当時から、毒と結びついた不吉な名となっていたのである。 もっとも、ジャンヌ・ダルブレは永く結核を病んでいたので、その死はただの病死かもしれなかった。それでもカトリーヌに恨みをいだくユグノー派の連中は、毒殺にちがいないといって王母を非難したし、噂は噂を呼んで、いよいよ不吉な名声を国の内外に高まらせたのである。 ブラントームによると、シャルル九世は「人間を永いこと将卒させやがて蝋燭の消えるように絶命させてしまう」海ウサギの角の粉末を、母の手から飲まされて死んだのだそうである。海ウサギとは、プリニウス以来その実在を信じられていた一種の水棲動物で、昔の毒物誌には必ず登場してくる名前である。もちろん、そんな動物は現実には存在するはずもない。 さて、こうしてシャルル九世が死ぬと、母の命によってポーランドに送られていた末弟は、ただちに呼び返されて新王の座についた。これがアンリ三世である。 このアンリ三世は、王母に輪をかけた魔道の愛好家で、頽廃的な倒錯者でもあったらしい。モォロワの『フランス史』によると、「新王アンリ三世は奇妙で不安定な魅力をもっていた。長身で、痩せていて、優雅で、親切で、嘲弄的で、理智と自然な自由主義とを示した。しかし、尊敬の念をひとにあたえなかった。彼の女性的な態度、腕輪、首輪、香水趣味は気にさわるものだった。彼が宮廷のある祝宴で女装していたと知ったとき、ひとびとは彼を『男色《ソドム》殿下』と呼んだ。」 新王はパリ郊外のヴァンセンヌの宮殿に住み、古塔のなかに閉じこもって、寵臣デペルノン公爵らとともに、降霊の術や黒ミサに熱中していた。当時のパリ市民のもっぱらの噂では、王はここで人間犠牲を捧げていたので、王の死後、古塔からは鞣《なめ》された子供の皮や、黒ミサ用の銀器などが発見されたといわれている。 アンリ三世がブロワに三部会を召集し、その席で油断を見すまして、政敵ギュイーズ公を暗殺させた事件は、映画にまでなった有名な歴史の一齣である。ギュイーズ公はブロワの城で逮捕され、斧でなぐり殺された。 だれもがやるまいと思っていたことを、この気の弱い女性的な王は、母にも相談せず、自分だけの考えでやってしまったのである。カトリーヌ・ド・メディチは驚いて、「何をなさったのです」と詰問した。「これで、わたしだけが王になりました」と息子は澄まして答えた。 すでに摂政を辞し、ブロワに隠退していた七十歳の老母は、この事件でひどいショックを受けた。「わたしはもう何もできません。床につくばかりです…」と嘆いた彼女は、事実、ふたたび起きなかった。そして三週間後に死んだのである。 「死んだのは一女性ではない、王権なのだ」と、当時の歴史家ジャック・ド・トゥーは、いみじくもいった。
※マルグリット・ド・ヴァロワの誤りと思われる。 |