これより先、まだ夫のアンリ二世が生きていたころ、カトリーヌは三人の息子の未来を知りたく思って、ノストラダムスパリに呼び寄せたことがあった。そのとき、この高名な占星学者は「三人の息子は一つの玉座にのぼるだろう」と予言した。ところで、三人の息子はノストラダムスの予言通り、相継いで一つの玉座にのぼりはしたものの、三人三様のみじめた死に方をしたのである。(妖人奇人館/ノストラダムスの予言/02参照)

まず長子は父のあとを次いで、十五歳で王位につき、フランソワ二世を名乗ったが、即以後一年にして頓死してしまった。教会内で突如として高熱に苦しみ出し、むごたらしく悶絶したのだ。一説によると、毒殺だともいう。

フランソワ二世は虚弱で、腺病質で、幼いころから吹出物や慢性中耳炎に悩み、性格も暗くて、無口で、ほとんど精神薄弱に近いような子供であった。死因はたぶん中耳炎から来た脊髄髄膜炎であろう。

二番目のシャルル九世は九歳で王位につき、母のカトリーヌが摂政となった。ところが、彼女はノストラダムスの予言がようやく気になりはじめ、当時ペストで荒廃していた南仏サロンの町へ、息子とともに旅をして、占星学者の意見を聞きに行った。ここで予言者が傷心の母親に何を語ったかは、知られていない。

シャルル九世もまた、ヴァロワ家の人間らしく虚弱で、遊惰で、美術好きで、いつもおどおどした臆病な人間だった。メリメによれば、「その顔色は憂鬱で、その大きな碧い眼は、決して話相手をまともに見ることがない」のだった。

例の聖バルテルミー祭の日、ルーヴル宮の窓から長い火縄銃で、逃げて行く新教徒たちを狙い撃ちしていたといわれるシャルル九世は、この怖ろしい虐殺の日以来、夜ごと悪夢に悩まされるノイローゼに陥り、それを忘れるために、身をすり減らして快楽に耽溺するようになっていた。そしてついに、王母の手に抱かれたまま、二十四歳を一期として死んだのである。医者は肺病と診断したが、一説には、あまり瀉血をやりすぎて貧血して死んだともいう。

このシャルル九世の原因不明の憂鬱病については、世にも奇怪なエピソードが残っているので、事のついでに紹介しておこう。

息子の病気が日ましに悪化し、医者もついに匙を投げるほどの状態になると、王太后カトリーヌは、ドミニコ派の背教僧と図って、涜神的な黒ミサを行い、悪魔の口を借りて、息子の運命を語らせてみようと考えたのである。

ミサは深夜の十二時に、悪魔の像の前で執行された。列席したのは、カトリーヌシャルルと、その腹心の部下だけである。まず倒れた十字架を足で踏みつけた妖術使が、黒と白の二つの聖体パンを捧げた。白いパンは、犠牲として選ばれた美貌の子供の口のなかに押しこまれ、子供は聖体拝受がすむとすぐ、祭壇の上で首を刎ねられた。胴体から切り離された首は、まだぴくぴく動いているうちに、おおきな黒いパンの上に置かれ、次にランプの燃えているテーブルの上に安置された。

やがて悪魔祓いの儀式がはじまり、悪魔は子供の口を借りて、お告げの言葉を発することを要求された。シャルルはおずおずと質問したが、その声は小さくて、誰にも聞えなかった。すると弱々しい、とても人間の声とは思えない奇妙な声が、犠牲にされた子供の小さな首から聞こえてきた。それはラテン語でVim patior(よくもひどい目に遭わせたな)という意味の言葉だった。

この言葉を聞くと、病人は恐怖のあまり五体を戦慄させ、しゃがれ声で、「その首を追いはらえ。近寄せるな」と叫び、最期の息を引きとるまで、「血まみれの顔…血まみれの顔…」と、うわ言のようにいいつづけた。周囲の者には、王の叫ぶ言葉の意味が分っていた。たしかに王は、聖バルテルミーの夜に虐殺された新教徒の首領、コリニー提督の幻を見たのにちがいなかった。

子供の口から洩れた「よくもひどい目に遭わせたな」という言葉は、じつは、コリニー提督の呪いの言葉だったわけだ。…

かつてシャルル九世コリニー提督とは、きわめて親密な一時期をもったこともあった。
その重々しい人柄によって、人の好い若いシャルルの心をすっかりとらえてしまったのである。王は母に知らせることさえしないで、コリニーとともに、熱中してフランドル遠征の作戦計画を立てていた。のんきなシャルルにとっては、戦争ごっこぐらいの気持だったのかもしれない。カトリーヌはこの有様に憤激した。「この提督は愛児を盗み、祖国を無益な戦争に追いやろうとしているのだろうか…」と。

カトリーヌは思案し、ついにコリニーを除く決意を固める。旧教側の頭目ギュイーズ家と共謀して、手筈をととのえる。かくて一五七二年八月二十二日金曜日、コリニー提督はモールヴェルという兇漢のために、火縄銃で射たれて重傷を蒙った。これが、あの恐ろしい八月二十四日の新教徒大虐殺、すなわち聖バルテルミーの惨劇の、そもそもの発端である。

二十四日の深夜一時半、虐殺の合図の半鐘が鳴った。「今日ほ残酷なことこそ慈悲にして、慈悲深きことは、すなわち残酷なり」というカトリーヌ王太后の言葉が、口々に唱えられ、女や子供を殺すときには必ず繰り返された。

コリニー提督は寝こみを襲われ、その屍体は窓から街路に投げ出され、路上を引きずりまわされ、最後にモンフォコンの刑場で、絞首台にぶら下げられた。成行を察して態度を豹変し、かつての親友を裏切ったシャルル九世は、わざわざ刑場に出かけて行って、コリニーの屍体に凌辱を加えたという。

「血まみれの顔」とは、この時のむごたらしい幻影であろう。彼が良心の呵責に堪え得なかったのも、道理である。


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Last-modified: 2008-03-17 (月) 21:52:25