もっとも、カトリーヌはメディチ家の出身だけあって、美術や芸術上の良い趣味をもち、芸術家を保護し、この時代のフランス文化を大いに発展させた。祝典や豪奢な音楽会を催し、ルーヴル宮に美術品の数々を収集した。壁掛、リモージュ焼の七宝、宝石細工、稀覯書、陶工ベルナール・パリッシーの陶器などは、当時の工芸文化の粋であろう。 カトリーヌがパリに建てた宮殿は「女王館」と呼ばれ、館の庭には、内部が空洞で螺旋階段のある奇妙な円柱が立っていた。円柱の頂きには、円形と半円形の交錯した天球儀のような球が載っている。柱頭はトスカナ様式、基底部はドーリア様式、そして柱幹には十八条の縦溝が彫られ、王冠や、百合の花や、動物の角や、鏡や、飾紐や、さまざまな魔術の象徴物がいっぱい彫りこまれている。 この奇妙な円柱は、王妃が御用天文学者レーニエのために建ててやった占星術師用の観測所で、今でもパリの市中にそのまま残っている。ルイ十五世の時代には、円柱の柱頭に日時計が置かれ、周囲に泉水が掘られた。 神秘学や魔道を好んだカトリーヌの宮殿には、レーニエのほかにも、フィレンツェ生れの妖術使ルジエリだとかいった、有名無名の魔術師たちが雲のごとく集まっていた。 ノストラダムスといえば、彼がカトリーヌの夫アンリ二世の不慮の死を予言したことは、あまりにも有名である。 王の娘マルグリット・ド・フランスとサヴォワ公との結婚式の折、王は若い近衛隊長モンゴメリー伯をさそって、余興の野試合をしようといい出した。伯は最初つつましく辞退したが、王の懇望にとうとう負けてしまった。そこで、試合をはじめたが、どうしたはずみか、伯の槍が王の黄金の兜をつらぬいて、片目を突き刺してしまったのである。槍は脳にまで達していた。それが原因で、王は九日間を昏睡状態ですごしたまま、まもなく死んだ。 ところで、ノストラダムスの『百詩編、第一の書』という予言集には、次のような四行詩が書かれていたのである。 若き獅子は老人に打ち勝たん、 いくさの庭にて、一騎討ちのはてに、 黄金の織の中なる、双眼をえぐり抜かん、 酷《むご》き死を死ぬため、二の傷は一とならん、 アンリ二世が、病床に呻吟する身となるや、カトリーヌは王の枕もとから、寵姫ヴァランチノワ女公を断固として遠ざけた。女公が王のところへお見舞いするのさえ、許さなかった。「死にゆく王は王妃のものです」と彼女はきっぱりいうのであった。そして、女公はその館に退き、かつて王があたえた印章や王冠の宝石をただちに返却するよう、また、王妃が控えを取っておいた王からの贈物の数々を送り返すようにとの命令を受けた。 女公は、陛下がもう亡くなったのかと訊いて、そうでないことを知ると、「それでは、まだわたしにそんな命令をなし得るひとはありますまい。陛下が信頼してわたしの手にお渡しになっているものを、だれも返せとはいえないはずです」と答えた。 長いあいだ美しいディアーヌの蔭にかくれて目立たぬ存在だった王妃も、夫の死とともに、俄然、女丈夫としての本領を発揮し出した感があった。政治の舞台に踊り出したのも、夫の死後である。 しかし、アンリ二世の横死事件以来、フランス王家は徐々に痛ましい運命をたどりはじめた。今や王太后となった摂政のカトリーヌに残されたものは、三人の暗愚な王子と、宗教動乱によってずたずたに分裂した王国とであった。 三人の王子とは、その後次々に王位につくことになったフランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世である。 母親の血を享けてか、三人の息子はいずれも頽廃的な、魔術を好む気質の持主で、しかも極端に病弱、かつ遊惰であった。これは滅亡寸前のヴァロワ家の王たちに特有な性格である。 |