十五世紀から十六世紀にかけて、ヨーロッパの北部、ドイツやフランドル地方では、農民一揆や宗教戦争がえんえんと続いた。いわば新旧勢力の交替期だったわけで、ルッターのような闘志満々の宗教改革者が出たのも、この動乱の時代である。
 これからお話する″放浪の医者″パラケルススが生まれたのも、やはりこの時代、十五世紀の末で、彼は「医学界のルッター」といわれているように、おそろしく鼻っばしが強く、当時のもっとも革命的な学者で、保守的な医者や哲学者を相手に、一生涯、喧嘩をして通したような男であった。彼ほど悪名高く、伝説の多い男もめずらしいが、ゲーテのような後世の文学者も絶大な尊敬を捧げているように、現在では、じつは偉大な学者であったことが証明されている。
 パラケルススの本名は、フィリップス・アウレオルス・テオフラストゥス・ボンバストゥス・フォン・ホーエンハイムという、おそろしく長ったらしい名前である。パラケルススという通称は、ドイツ語のホーエンハイム(「高い家」という意味)をラテン語化して、本人みずから作ったものだ。またパラケルススの父親は、かねて尊敬していた古代ギリシアの鉱物学者テオフラストゥスの名をとって、自分の息子の名にしたという。この父親もやはり有名な医者だった。
 母親は早く亡くなったが、子供の頃から恵まれた環境にあり、父親の指導よろしきを得ていたので、パラケルススは青年期に達すると、すでに該博な知識を身につけた医者となっていた。生まれはスイスの山中の小さな町であるが、父親が教師をしていた、豪商フッガー家の創立になる鉱山学校で、みっちり鉱物学の実験をしたり、冶金学の理論を修めたりしたのである。そればかりか、当時のもっとも名高い魔法道士であった、シュポンハイム僧院長のトリテミウスから、魔術の理論も学んだので、単に医学のみならず、占星術や神秘哲学や錬金術の領域においても、並びなき知識の持主となっていた。
 しかし、パラケルススは喧嘩っ早く、傲慢不遜で、やたらに敵をこしらえたり、大言壮語癖があって、どこまで本当か分らないような大法螺をふいたりするので、まるで誇大妄想狂か、いかさま師のように見られていたところもあった。ボンバストゥスという彼の名前には、だから、後世になって「誇大妄想狂」という意味が出来てしまったほどである。
 次に、パラケルススに関する伝説を一つ二つご紹介してみよう。 まず伝説の第一は、彼がつねに身辺から離さなかった剣である。彼の肖像画を見ると、必ず剣を握ったところが描かれている。この剣には、柄頭《つかがしら》に「アゾット」という銘が刻まれていて、その中には一匹の悪魔が封じこめられており、また剣の鍔《つば》には、象牙の容器が仕込まれていて、少量の「賢者の石」あるいは阿片チンキが封じてある、と信じられていた。そして彼は、自分の気にくわない相手には悪魔を送り、自分の味方には、医学上の万能薬とされていた「賢者の石」をあたえる、というのである。
 パラケルススは医学史上はじめて、水銀とか、アンチモンとか、亜鉛とかいった金属による療法を用いて成功したので、そのふしぎな金属の効能が、大衆のあいだで怖れられ、こんな伝説を生む原因となったのであろう。悪鬼を手足のように使う怪人物として、彼は敵のあいだでも大いに怖れられていた。
 こんなエピソードもある。ー彼が諸国を放浪中、ドイツのインスブルックの近くで、貧しい農家の息子の病気を治療してやったことがあった。農家のおかみは喜んで、「何もございませんが、先生、じやがいもの揚げたのを召し上がってください」と言って、貧しい食卓をととのえ、医者を饗応した。この心からのご馳走に大そう感動して、パラケルススは、農家の暖炉の上に置いてあつた一本の火かき棒を取ると、剣の鍔の容器から黄色い軟膏を取り出して、この火かき棒に塗りつけたのである。すると、錆びた鉄の火かき棒が、たちまち黄金に一変してしまった。「さあ、これを持って金銀細工屋へ行きなさい。高
く売れるよ」といって、パラケルススは飄然と農家を立ち去ったという。
 奇怪な放浪の医者に関する伝説の第二は、彼がインポテンツではなかったか、という説である。パラケルススの生涯で注目すべき異常な点は、女性関係がまったく見当らないことで、そのため、彼の医学上の反対者や敵たちは、彼を去勢された男とか、男色家とか呼んで馬鹿にしたのである。一説によると、彼は幼い頃、豚に男根を食いちぎられて、完全な性的不能者になったというが、この説はあまり当てにならない。第一、豚が人間のペニスを食うなんていう話は、聞いたことがないからである。
 それはとにかく、パラケルススが子供の頃から佝僂病《くるぴよう》の傾向があり、極端に病弱だったということは事実のようだ。生まれつきの虚弱な体質のため、肉体的な快楽をあきらめ、もっばら知識や学問を身につけて、その弱点をカヴァーしょぅとしたのかもしれない。もっとも彼は大酒飲みで、夜な夜な居酒屋に入り浸っていたともいう。一種のすね者[すね者に傍点]で、権威に対しては真っ向から挑戦する、偏屈な男だったことは間違いないようだ。


 彼がバーゼル大学の教授になったのは、三十そこそこの年齢だったと思うが、古来の慣習を破って、彼はドイツ語で講義をした。中世以来、アカデミーの教授は、ゆったりしたガウンを着、赤い帽子をかぷり、金の指環をはめ、ラテン語で講義をするきまりになっていたのに、パラケルススは、薬品でよごれた灰色の仕事着に、粗末な黒いベレー帽といった服装で、学生の前に現われたのである。俄然、スキャンダルの種になり、非難攻撃が彼のまわりに集まった。
 が、パラケルススは、町中の保守的な医師や大学当局を向うにまわして、果敢な闘争をはじめた。彼を敵視する医者に対しては、偽善者呼ばわりし、自分こそ神によって定められた、医学界の王者である、と主張するのであった。大へんな自信である。あげくには、聖ヨハネ祭の日に学生を煽動して、当時の医学の最高権威書であるアヴィケンナの『医学正典』を焚火のなかに投げこみ、大いに気勢をあげた。ちょうど今日の大学紛争のようで、パラケルススは無鉄砲にもスチューデント・パワーの先頭に立って、大学当局に闘争を挑んだわけである。
 結局、彼の過激な思想や行動は、バーゼル市の保守的な学者たちに容れられず、彼は翌年、逃れるようにして諸国放浪の旅に出た。前にも述べたように、当時は農民一揆と宗教戦争の時代である。動乱のヨーロッパを彼は精力的に歩きまわり、いたるところで病人を治療し、ドイツ、イタリア、フランス、オランダ、ポルトガル、イギリス、スエーデン、ポーランドから、遠くアジアにまで足をのばした。黒海沿岸の大草原でダッタン人に捕えられ、モスコウに連れて行かれたとか、トルコの宮廷で手術を受けて、宦官《かんがん》にされてしまったとかいった、冒険小説もどきの噂もある。しかし彼自身は、「誰が何といおうとも、余はアジアにもアフリカにも渡った覚えは断じてない」と大見得をきっている。
 まさに放浪の天才ともいうべき人物で、同じ町に三、四カ月以上は決して留まらなかったというから、見事なものである。それにしても、あれほどカトリックや保守勢力に憎誉れ、多くの敵を周囲にもちながら、彼がヨーロッパ中の貴族や豪商の家を転々と渡り歩き、どこへ行っても厚遇されたという事実は、いかにもふしぎである。むろん、これは、一つには、彼の医学上の技術がいかにすぐれ、いかに彼が世間で必要とされていたかを示すものだろう。と同時に、パラケルススは何らかの秘密結社に属していたのではなかろうか、という疑問も生ずるのだ。
 中世には、相互扶助の精神から発足した同業組合がヨーロッパ各地に名のりをあげた。なかでもフリー・メーソンと呼ばれる建築家や石工の組合は、八世紀以前からすでに存在していて、国王や法王からいろんな特権を賦与されていた。また、これとは別に、薔薇十字団と呼ばれる、二種の宗教上の革命をめざす国際的な秘密結社もあって、異端の魔法道士や錬金術師がひそかにこれに属していた。こうした組織に属している者は、どこへ旅行しても、合言葉やバッジを示すだけで、一宿一飯の恩義にあずかることができたのだ。
 一説によれば、パラケルススは、この薔薇十字団の陰《かげ》の大立物であって、当時の社会に不満をいだく急進的なインテリ貴族や豪商のあいだに、大きな影響力をもっていた。一流の学者や芸術家も、彼には一目おいていた。たとえばバーゼルの著名な出版業者で、スイスの文芸復興の推進者であったヨハン・フローペンとか、名声並ぶ者なき当代の碩学エラスムスとかは、いずれもパラケルススに病気を直してもらってから、すっかり彼を信用してしまった連中である。
 実際、パラケルススは『予測の書』というパンフレットのなかで、カトリック教会の没落や、フランス大革命を予言しているともいわれており、そんなわけで、彼が革命的な思想の持主であったことは、ほとんど確実に推測し得るのである。
 生涯にわたって、勉大な量の書物を書き残したパラケルススの学問や思想の体系を、言のもとに要約するわけにはいかないが、まあ、一種の神秘的な自然哲学だと思ってもよいだろう。占星術と錬金術をごっちゃにしたような、大宇宙や小宇宙の理論も見られる。さらに、当時までは主として薬草に頼っていた医学に、化学療法を導入したという意味から、彼は医学上の先駆者の地位に立っている。『子宮論』などという著作もあり、男の精液を蒸溜器のなかに密封して、ホムンクルス(一種の小人《こぴと》)を製造する方法がくわしく述べられている。この小人の製造法は、のちにゲーテが『ファウスト』を書く時に利用したものと思われる。
 一五四一年、パラケルススはザルツブルクで死んだ。享年四十八。その死をめぐっては、いろんな風説が流された。その一つは、彼が居酒屋で喧嘩をして殺されたという説である。
 もう一つは、彼の名声をねたむザルツブルクの医師団が、与太者に金を握らせて、泥酔中の彼をなぐり殺させたとか、高いところから突き落して殺させたとかいう説である。それほど、彼の酒びたりは有名だったのだ。
 十九世紀のはじめに、フォン・ゼンメリンク博士が当局の許可を得て遺骸を掘り出し、頭蓋骨をしらべると、後頭部に外傷の跡があり、てっきり噂を裏書きするものと思われた。しかしその後、カール・アバーレ博士が四回にわたって再調査して、後頭部の傷害は、佝僂病のためのものであることを証言した。
 けれども、この証言に疑問を呈する人もいる。もしも佝僂病による後頭部の傷害が、はっきり分るほど進行していたのならば、胸廓や手脚も、当然、いちじるしく変形していなければならないはずではないか、というのである。なるほど、そういわれてみれば、そうかもしれない。
 いずれにせよ、死んでまでも謎を残しているのだから、まことに奇々怪々な人物というべきであろう。


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Last-modified: 2006-08-19 (土) 10:56:19