ギリシア神話では、ヴィーナスはまるでフリー・セックスの実践家のように、多くの男神と恋をする。しかし彼女にも夫はいて、火と鍛冶の神ヘパイストスが、ヴィーナスの夫なのである。しかもヘパイストスは老人で、非常な醜男《ぶおとこ》であった。だから彼女が浮気をするのも、無理もない話なのであった。

 たとえば、ホメロスの『オデュセイア』のなかに、こんな話がある。

 あるとき、ヴィーナスは夫の目をかすめて、美男の軍神アレースと恋をする。妻の姦通を知ったヘパイストスは、たぎり立つ胸をおさえて、鍛冶場へ行き、細い、クモの糸のように透き通った、魔法の網をこしらえる。これを寝室にそっと仕掛けておくと、ヴィーナスが恋人と一緒にやってきて、ベッドにのぼり、まんまと網にかかってしまう。二人は動きがとれず、神々一同の笑いものになった、という話である。

 中世になって大いに流行した貞操帯のことを一名「ヴィーナスの帯」というが、このヘパイストス魔法の網は、もしかしたら、史上最初の貞操帯だったかもしれない。

 このアレースヴィーナスとの交情から、エロス(愛の神)とアンテロス(愛に対して愛を報いる神)、デイモス (恐怖の神)とポボス(逃走の神)の子供が生まれた。キューピッドの姿をしている可愛らしいエロスは、じつはヴィーナスの子供なのである。デイモスポボスは、火星(アレース)のまわりの二個の衛星の名前として残っている。

 哲学者プラトンは、崇高な魂に対応する「天上のヴィーナス」と、低俗な魂に対応する「地上のヴィーナス」との二つを区別した。別の言葉でいえば、「処女」のヴィーナスと「娼婦」のヴィーナスである。これはなかなか意味深長な分け方といわねばならぬ。

 たしかに、女性の愛は、処女と娼婦、この二つの極のあいだで揺れ動くものであり、一方、女性を眺める男性も、この二つの両極端に、ひとしく魅惑されるものらしいからである。


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Last-modified: 2009-03-25 (水) 23:06:39