畸形か、奇跡か? 処女懐胎したマリアとは、申すまでもなく、聖書のなかに登場するキリストの母親である。処女のままの清浄潔白な身で、キリストを生んだと伝えられている、パレスティナのナザレ村生まれの女性である。 「処女のままで子供を生むなんて! そんな馬鹿なことが!」とおっしゃる方があるかもしれない。だからマリアの婚約者であった大工のヨセフも、最初は、マリアの潔白を疑って、結婚の約束を破棄しようと考えたほどだった。 マリア自身も、はじめて天使ガブリエルが自分の前に現われて、「あなたは懐妊あそばしました。いずれ男のお子さんをお生みになるでしょう」と告げられた時には、びっくり仰天、恥ずかしさで消え入りたいような気持だったにちがいない。 いったい、処女のままで妊娠するとは、どういうことなのだろうか。マリアの処女膜も、無傷のままだったのだろうか。どこかから、精虫が侵入したのではあるまいか。 現代の科学的合理主義の見地から眺めれば、こんな疑問がつぎつぎに浮かんでくるのも当然であろう。 昔のキリスト教の神学者たちも、この処女懐胎という問題に、何とかして合理的な、納得のいく説明を加えようとして、苦心惨憺したらしいことが知られている。 紀元三世紀のオリゲネスという大学者は、つぎのように述べている。「キリストの母親の膣はただ一回、分娩のために開かれただけである」と。一方、四世紀のアンブロシウスという教会博士は、おごそかな調子で、つぎのように断言している。「聖母マリアには腹門というものがあったから、膣がふさがれていたにもかかわらず、キリストは無事にマリアの体外に出ることができたのである」と。 こんな奇想天外な意見を聞かされると、私たちは、思わず噴き出したくなってしまう。「腹門」とは、いったい何事であろう! これでは、聖母マリアは一種の畸形、一種の怪物ということになってしまうではないか。 しかし、マリアの婚約者のヨセフは、マリアが聖霊によって受胎したのだということを知ると、疑いを晴らし、彼女と結婚するのである。そして二人でベツレヘムヘ赴いて、その地でキリストを生む。キリストが成長して、宗教活動をさかんに行なうようになると、もう聖書のなかには、マリアの名前はあまり出てこなくなる。 |