犯罪史上に名高い「切り裂きジャック」の名を、読者はご存じであろう。時代は英国ヴィクトリア朝の頃、霧ふかいロンドンの秋の貧民衝ホワイトチャペルで、一八八八年八月七日から十一月九日まで、連続的に六人の淫売婦が、いずれも下腹部を兇器で切り裂かれ、内臓をえぐり取られて無残に殺された。犯人は凰のように姿をくらまし、ついに事件は迷宮入りとなった。ただ、犯人が警察によこした手紙にJack the Ripper(切り裂きジャック)と署名があり、ロンドン中を恐怖のどん底にたたき落したこの正体不明の名前が、年月とともに伝説的な光輝に包まれて、今にいたるまで語り継がれているのである。
 これほど映画や小説に題材を提供した犯罪者も、めったにあるまい。ドイツ表現派の映画からジュリエット・グレコのシャンソンまで、ブレヒトの『三文オペラ』から前衛音楽家アルバン・ベルクの歌劇『ルル』まで、象徴的な人物となった切り裂きジャックは、作品のなかで生きているのである。
 何より不思議なのは、この謎の犯人が、まるで古典悲劇の法則に忠実に従ったかのように、犯罪の行われる場所と、時間と、それから血祭りにあげるべき犠牲者の種環(職業)とを、つねに変えなかったということだろう。
 まず場所について申せば、それはロンドンのイースト・エンドのごみごみした貧民衝、ホワイトチャペル地区と呼はれる、ごく狭い範囲に限られていた。貧困と犯罪と悪徳の巣窟のような場所である。それから時間について述べれば、犯罪はほとんど必らず、金曜日の夜から月曜日の早朝までのあいだ、つまり人出の多い週末に行われた。そして犠牲者はすべて淫売婦、しかも一人を除いては、ことごとく四十歳過ぎの、酒飲みの、乞食に近いような、病み衰えた淫売婦であった。−そこが一般の性犯罪と違う点であろう。切り裂きジャックは、若い美しい娘をねらったのではないのである。
 殺し方の残酷さときたら、身の毛もよだつほどであった。大部分の女が、下腹部を深くえぐられ、腎臓、卵巣、子宮などを抜き取られ、それらは犯人によって運び去られるか、あるいは屍体の上に置いてあった。顔面をめちゃめちゃに傷つけられた女もいた。とくに最後の犠牲者、メリー・ジャネット・ケリーと呼ばれる女の殺され方は、ひどかった。彼女だけは、他の犠牲者よりも若くて二十四歳、しかも、いつものように道路で殺されたのではなくて、部屋のなかで、まるで解剖のように、臓腑をばらばらに摘出されて殺されたのである。 ややくわしく屍体発見の現場を説明するならば、ケリーは血の海のようにな
ったベッドの上に、全裸で仰向けに寝ていた。右の耳から左の耳まで断ち切られ、首は胴体から離れそうになっていた。鼻と耳がそぎ落され、顔は原形をとどめぬほど切傷だらけであった。上腹部も下腹部も完全に臓腑を抜き取られていて、肝臓が右の腿の上に置かれ、子宮をふくめた下半身も、えぐられていた。壁には血痕が飛び散り、ベッドのわきのテーブルの上に、妙な肉塊が置かれていたが、これはあとで調べてみると、犠牲者の二つの乳房だった。その近くには、心臓と腎臓がシンメトリックに並べてあり、壁にかかった額縁には、腸がだらりとぶら下がっていた。まるで肉屋の店頭のようであり、この綿密な解剖の仕事には、少なくとも二時間は要するだろうと警察が推定した。
 四番日の犠牲者キャサリン・エドウィズが殺されたとき、左の腎臓が抜き取られ、犯人に持ち去られたが、事件後しばらくして、ホワイトチャペル地区の自警団の団長の家に、その腎臓らしき肉塊の断片が小包みになって送り届けられてきた。医者に分析させると、それは紛れもない中年女の、アルコール中毒患者の腎臓であった。
 切り裂きジャックには、自分の犯罪をできるだけ目立たせようという、一種の自己顕示欲が強くはたらいていたようである。彼は何度も新聞社や警視庁へ、自信たっぷりな、嘲弄的な手紙を送った。はたして犯人のものかどうか疑わしいような手紙もたくさん混じっていたが、専門家の研究によると、三十四通は真正の手紙だそうである。最初の手紙は、一八八八年九月十二日、セントラル・ニューズ・エージェンシーに届いたもので、赤インクで書かれていた。「おれは淫売どもに怨みがある。腹の虫がおさまるまで斬ってやる。偉大な仕事、至上の仕事だ」といったような文面だった。−ロンドン警視庁(スコットラ
ンド・ヤード)の犯罪博物館には、今でも、これらの手紙がガラス・ケースにおさめて展示してある。
 連続殺人事件によって、ロンドン市の恥部のような貧民街が明るみに出され、新聞は警察の無能ぶりを筆を揃えて非難し、やがて一種の社会問題にまで発展しそうな勢いであった。反ユダヤ主義者やアナーキストが不穏な動きを見せた。夜は自警団や学生が街をパトロールした。犯人は外国人ではないか、という説があって、多くの容疑者がしらべられたが、いずれも白であった。警察に対する風当りはいよいよ強く、ついに警視総監チャールズ・ウォーレン卿が辞職するという騒ぎになった。


 この事件については、まだまだ書くことがたくさんあるけれども、いったい、切り裂きジャックの正体は何者か、という問題に話をしばってみよう。当時から現代にいたるまで、これほど多くの仮説や臆説の立てられた問題も、めずらしいのである。
 いちばん傑作なのは、医者で毒殺犯だったトマス・ネイル・クリームを犯人とする説であろう。
 彼は処刑台の上で、「おれがジャック・ザ……」と言いかけた瞬間、ばたんと台が落ちて死んでしまった。しかしこの説の弱点は、ホワイトチャペルの犯罪当時、彼がアメリカの刑務所にいたという事実である。これでは話にならない。犯罪者のなかには、自分の犯した罪をできるだけ大きく吹聴したいという欲望をもった者がおり、クリームも、この型に属する人間だったのだろう。 犯人はポルトガルの船員ではないか、という説もあり、遠洋漁業の漁船の乗組員ではないか、という説もある。魚の腹を裂くことに熟練した者ならば、女の内臓をえぐり出すことも容易だろう、というわけである。
 ウィリアム・スチュアートという広告絵描きは、切り裂きジャックの正体は女であり、産婆ではなかったか、という珍妙な説を提出している。淫売婦たちに堕胎の世話をしてやる産婆であれは、怪しまれずに女たちに近づくこともできるし、女の部屋へこっそり入ることもできる。最後の犠牲者ケリーの部屋の炉には、女の服を焼いた灰が大量に残っていた。これは、犯人が血にまみれた自分の服を焼き、犠牲者の服を代りに着て、部屋を出て行ったのではないか、というのである。ちなみに、探偵作家のコナン・ドイルも、犯罪が行われた当時はまだ無名であったが、犯人が女装をして警察の目をくらましたのではない
か、という説をいだいていたらしい。
 強盗、詐欺、銀行破り、殺人などの罪状で死刑を宣告されたフレデリク・ディーミングという男も、死ぬ前に、自分がジャックだと告白した。彼のデス・マスクは、ロンドンの犯罪博物館に残っているが、これをジャックの本物の顔だと信じている人もいるようである。毒殺魔として名高いポーランド人のジョージ・チャップマンも、同じ頃ホワイトチャペルで、外科医の店を出していたので、よくジャックと混同される。
 新聞記者のドナルド・マコーミック、およぴ小説家のコリン・ウィルソンが熱心に主張しているのは、ロシア人のペダチェンコという医者を犯人とする説である。この医者は先天的な殺人狂で、ラスプーチンの親友で、ツァーの政府の手先となって、英国を混乱におとし入れるためにロンドンへ送りこまれた。つまり、ロンドンにはロシア人の亡命アナーキストが大勢いるので、世間を騒がすような犯罪を犯して、その責任を彼らに負わせようというわけである。ロシアの秘密警察《オフラーナ》の公報によると、ペダチェンコがロンドンで女に化けて、五人の女を殺害したという事実が記載されているという。
 そのほか、犯人は胸を病んだ貴族の医学生だという説(まるでドストエアスキーの小説のようだ)や、王家の血をひく名門ラッセル家の一員だという説(パートランド・ラッセルは抗議をしている)もあるが、どれも根拠は薄弱なようである。


 ところで、ロンドン警察では、いつ頃からか、ほば真犯人の見当をつけていた模様である。ごく最近になるまで厳重に公表されなかったデータが幾つかあり、当局者のあいだだけで、真相は秘密にされていたらしいのだ。じつに奇怪なことと言わねはならないが、たぷん、犯人の家族の名誉のために、このような処置がとられたのだろうとしか考えようがない。アメリカの作家トム・カレンが、当時の記録を丹念にあさって、一九六五年、ようやく切り裂きジャックの正体を見破ったのである。ホワイトチャペルの恐怖の日々から数えて、じつに六十八年後のことである。
 秘密の保管者は、一九〇三年から一九二二年まで、スコットランド・ヤード刑事捜査部長を勤めていたメルヴィル・マクナートンという男だった。彼のノートに、有力な容疑者として三人の名前が挙げられてあり、とくにそのなかで第一番目の者が最有力だ、と言及されているのである。
 一八八八年十二月三十一日、つまり、切り裂きジャックの最後の犯罪から七週間目に、テームズ河から一人の溺死者が引き上げられた。モンタギュー・ジョン・ドルーイットと呼ばれる三十一歳の青年弁護士で、オックスフォード大学出の秀才、父は王立外科医アカデミー会員・ドーセット家につながる名門の息子だった。代々医者のー家で・祖父も叔父も従兄弟も医者である。溺死者の屍体は、約一カ月間、テームズ河の水に漂った末に、ある船頭に発見され・引き上げられた。ポケットには石がつまっており・覚悟の自殺と見なされた。死亡診断書には、発作的な精神錯乱と書かれた。−これが切り裂きジャックの
正体である!
 少年時代から、大ブルジョワの子弟として何不自由なく暮らし、学業は優秀で、テニスやクリケリトなどのスポーツにも堪能で、将来を嘱目されていた青年であった。それがいつ頃から・怖ろしいサディストの徽候をあらわしはじめたのだろうか。刑事捜査部長のノートにも、くわしいことは全く書かれていないのである。ただ、トム・カレンの推理によると、彼は事件の当時、ホワイトチャペルから歩いて数分の距離にある、法学院インナ一・テンプルに下宿していたのであり、これが深夜の犯行を容易にしたらしいという。まさか法学院に殺人鬼が住んでいようとは、警察も思い及ばなかったにちがいない。
 警察内部でも、多くの者は犯人を医者ときめこんでいたが、事実は弁護士だつた。しかしこの弁護士は、子供の頃から医者に取り巻かれて暮らしていたのだった。
 バーナード・ショウは例の皮肉な調子で、切り裂きジャックは社会改革家だ、と言ったことがある。殺人という電撃療法によって、社会の病根をえぐって見せた、という意味だろう。その通りかもしれない。


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Last-modified: 2006-08-19 (土) 10:56:19