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第九話 第五類人猿《アンソロポイド》
久生十蘭

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化木人《ラーモス・デ・ジンテ》
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 今夜は、いよいよ「神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》」河、想像に絶するアマゾン奥地の大魔境――。と、この折竹が吐いた冒頭の数語だけで、もう何も言うことはないだろうと思う。「有尾人」の、「悪魔の尿溜」のなかのあの怪奇でさえも、この「神にして狂う」河にくらぶれば物の数ではない。という、その大魔境の地理的説明を、まず本文に先だって簡単にしておこうと思う。
 南米一の大河アマゾン本流が、ペルー境に近付いたあたりに、二つの支流がある。一つは"Yacaranamor《ヤカラナモール》"もう一つは"Jurua《ジュルア》"といい、そのあいだに"Jutahy《ジュタイ》"というのがもう一つ出ている。そしてこのジュタイ河が、樹海また樹海の涯の大密林のなかへ没したその奥に、神でさえ狂うといわれるこの大魔域がある。すなわちそこは、西経七十度、南緯五十度辺を中心に、約百キロほどの半径で、くるっと廻した円のなか。その攻撃路は、わずか一つ秘露《ペルー》寄りに開いているだけ。
 が、さて此処《ここ》は……誰しも奥アマゾンといえば大原始林を答えるはず、アフリカコンゴのイーツリ、ギャブンと併称される、湿熱、暗黒々たる大植物界である。しかも、これまでも、この「神にして狂う」河には二回の探検があったのみ。
 一つは一九二〇年にコロンビア大学の薬学部長、ラマビー博士がマルフォード会社の出資で、ヤカラナモールの河沿いにここを攻撃した。そのとき、むろん探検は失敗で這々《ほうほう》と逃げかえったのだが、ほんの「神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》」河の戸端口を覗《のぞ》いただけでも、つぎの、大難所、怪異境に出逢っている。
 "Corda[#aはウムラウト(¨)付き]o de umbigo《コルドーン・デ・ウムビーゴ》"――訳名は「臍《へそ》の緒」
 すなわち、切れたら最後の命の緒という意味。ここは、河面もくらい数千尺の屹立。鳥さえ飛ばぬという一枚岩の大断崖が「神にして狂う」河にそそぐ無名の一支流の両側を、蜿々二十マイルも続いている魔境、地獄の一丁目。
 "Brejo de Euryale Carnivorus《ブレージョ・デ・ユーリアレ・カルニヴォルス》"――訳名は「食肉鬼蓮の大湿地」
 世界一の大蓮、ヴィクトリア・レジアにまさる十メートル余の大巨葉。それが、なんの動物かしらぬが白骨をのせ、まるで姿がみえぬ怪物が異様に呼吸《いき》づいているような、開花の音をパタリパタリと聴かしている。そこを、マラビー博士はついに越えられず、命からがら這々と逃げかえった訳だ。
 次が、一九三四年米国地理学協会の、これは、飛行機による低空探検だ。じつに、思いきった低空飛行をやったらしく「神にして狂う」河攻撃路をふさぐ人外境の種々相が、ややこれで漠然とながら分ったのである。
 曰く、"Gotta da cobras《ゴッタ・ダ・ブラス》"(毒蛇の点滴)。また言う、
 "Costella de Inferno《コステルラ・デ・インフェルノ》"(地獄の肋骨)とは、いかなる所か⁈ さらに"Rio no barriga《リオ・ノオ・パリーガ》"(胎内川)といわれる不思議な名の場所は⁈ そうしてああ遥かに望む"Arrrebol venenosa《アレボール・ヴェネノーザ》"「毒ある空焼け」とは神さえ狂うという、この大魔域の核心赤霧ガス地帯ではないのか。
 「毒ある空焼け《アレボール・ヴェネノーザ》」――。この、樹海また樹海の涯を染める怪赤霧のしたへ行きつけることは、人力では、とうてい出来ないのではないか。途中一つを取りだしてさえ魔境といえるほどの、難所、怪絶境を抜くことさえ容易ではないのに。一つ二つではなく大集団をなし、人間来るなかれと立つ大障壁のなかには……。
 何がある⁈ また、そこには何かあると想像されている⁈
 私が、そのことを折竹に訊くと、
「さあねえ」
 と彼は意味あり気に微笑んで、
「これは君、興味上保留しとこうと思うよ。しかしだよ。その神でさえ狂うという本体がいかなるものかということを、仄《ほの》めかすくらいなら、やってもいいがね」
「頼む」
「じゃ、まず最初にこの話からしてゆこう。君は奥アマゾン名物の化木蛇というのを知っているかね。"Galho Jalalaca《ガーリヨ・ジャララカ》といってジャララカという蛇が、木にはさまれて木質化してしまうやつだ」
「珍しいもんかね」
「そうだ、僕の口ぶりじゃザラにあるようだけれど、まだこれは二つ三つしか発見されてない。ところが、数年前のことだが化木蛇ならぬ、化木人というどえらいものが現れた。つまり"Ramos de gante《ラーモス・デ・ジンテ》というやつだ」
「どこへ」
「それがね、ジュタイがアマゾン本流に合してから五十キロほど下流の、フォンテボアという土人町に流れてきた化木人だ。じつに、完全無類な人間の木質化。するとだよ、その木にお化けなすった人間さまをよく調べると、どうも骨格からいっても、人間じゃないのだ。といって、大腿骨や頭蓋の様子が、さらばといって類人猿でもない、ゴリラ、黒猩々《チンパンジー》、猩々《オラン・ウータン》、手長猿《ギボン》のいずれにも当たらない。こりゃきっと、その四つ以外にあるもう一つの、今まで発見されたことのない南米種の新種『第五類人猿』ではないかとなったのだ」
「では、その棲息地が『神にして狂う』河か」
「そうなっている。で、ここで面白いのがその化木人の掌、サア、掌というよりも、掌紋といおうかね」
「それが、どうした」
「つまり、掌紋からして三つの類人猿と、黄、白、黒、三人種とのあいだに繋がりがあるのが分る。というのは猩々《オラン・ウータン》の掌紋にはまっ縦に貫いている、一本のふかい溝がある。これが、よく蒙古人種に発見される。それから、ゴリラの掌には二条の貫通線がある。これは黒人にしばしば出るものだ。また、黒猩々《チンパンジー》にはV字型の筋があり、これはチョイチョイ白人中に発見される。そんな訳で、三猿三人種同祖説というものがあるが、さて、この化木人の掌にはどんなものがあるのだろう。それは、二条の線がやんわりと曲って、掌の中央に楕円形をつくっている。しかしこれは、現存南米人種中のいかなるものにもない」
「では、とうに死滅した奴の中に」
「インカか⁈」
 と折竹はじぶんでそう言って、意味ありげにニヤリニヤリと笑うのである。
 十六世紀の昔、スペイン人に滅ぼされた大富国インカ族の版図は南米西海岸一帯にわたり、金銀、緑玉のすばらしい富を、われは太陽の子なりと称する、インカ王が擁していた。スペインはそのため、世界一の大富国となったが、インカ人は、のちに鉱山使役のためほとんど全滅し、いわゆる「インカの頭蓋」といわれる特異な縫合線のある種族が、今はまったく影を消している。しかしこれには、後代をなやます、さまざまな謎があるのだ。
 その一つは、当時略奪をまぬかれた、王室の巨宝の行方。一枚三"Arrobas《アロバス》"の重量のある黄金板二千枚が、アタワルバ王処刑前後に、いずかたへか消えている。その、一アロバスとは英斤二十五ポンド。してみると、その黄金板総額は今日の金にして、ほぼ邦貨一億円ほどになる。これは、インカ征服者フランシスコ・ピザロが、あとで財務官《クラカ》を責め、やっと分ったことである。
 またもう一つは、王弟ワスカルの妃バタラクタが、同族をひきつれ行方を晦《くら》ましたことである。と同時に、黄金板全部が消え去ったのであるから、バタラクタが、ひそかに駱馬《リャマ》に積み健脚の走夫《チヤスキス》をそろえ、これを運び去ったことは言わずと明らかなことだ。では、バラタクタらはどこへ行ったのか。彼女の行方はすなわち、黄金版の所在。インカ遺跡の発掘があまねき今日でさえも、これだけはいまだ分らずいる。
 土中の黄金⁈ それとも、どこか密林中に蔦葛に覆われて新インカ国の正妃《コヤ》となったバタラクタの誇り、この黄金板が埋もれているのではないか。私が、インカといわれて即座に思いだしたほど」「バタラクタの黄金」は、ひじょうに有名な話だ。
 しかし、折竹は二度とインカには触れず、
「つまり、その『第五類人猿』という仮想的存在だね。人猿不明のいと漠然たる先生の掌紋が、この一篇ではひじょうな役をする。いたか、いないか――それはまずお預かりとして、発端は、新宝島ココス島の発掘。しかしその前に、ペルーの首府リマでちょっとした話がある」

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  新宝島の怪婦人
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 リマの海港カリャオの埠頭《ふとう》、そこへツルマーヨ耕地の星製薬社員を見おくった折竹が、遠ざかる船尾灯をじっとながめている。沙霧《ヘーズ》のかかった蒸し暑い夜に、故国へとゆく愛鷹丸が発ってゆく。
 彼が、ペルーへ来てからもう、十か月にもなる。そのあいだ、どうにも「神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》」河攻撃に成算がたたず、編んでは崩《くず》す紙上計画《ペーパー・プラン》の山積に、もういい加減ゲンナリしていたころだ。で、こういう時には気分転換にかぎる、いちばん憂晴《うさば》らしに海へ行ってやれと、偶然リマで知りあったホアン・デ・グラードという男と、新宝島のココス島へゆくことになったのだ。
 その前夜、いま知人を見おくったカリャオの埠頭で、彼の肩をボンと叩くものがあった
のだ。
「先生、妙なところでお目にかかるもんで……」
 と言われてひょいと振りむくと、かねて顔見知りのニューヨーク市警察の名物男、ヒュウ・ファーレーという強力犯の刑事だ。鍔広幅《オーヘダ》をかぶり陽焼けこそしているが、猛牛ファーレーといわれるほどの閂《かんぬき》のような肩で、薄闇でもすぐ分る。
「奇遇だ」
 と折竹もいつまでも手を離さず、
「追い込みかね。ここへ、猛牛ファーレー君がくるようじや、唯事じゃあるまい」
「そうです」
 とファーレーは隠さず領いた。しかし、そのファーレーもどうも元気がない。智恵こそたんとないが牛のような粘りと、天賦《てんぷ》の体力とでぐいぐいと犯罪者を詰めてゆく、頑忍男のファーレーが悄《しょ》んぼりとしている。
「そいつがね。いよいよ追い詰めた土壇場で、消えちまったんですよ。はるばる、やっと
追っかけ二千マイルですかね。それが……そいつの故郷のリマでやっと見付けたと思うと、もうその途端に消えちまってやがる」
「その男は、なんと言う?」
「いや、女でして」
と腹癒《はらい》せのように、ファーレーはべっと唾を吐く。
「齢は二十四、五の、ちょっとした女《あま》ですよ。先祖がカルメンかどうかは知らねえが、婀娜《あだ》っぼいやつでね。東区河下道口《タネル》のキャバレーじや有名なもんでした。ところが、顔に似あわねえ荒っぽい奴で、情夫《おとこ》をブスリと殺《や》って逃《ずら》かりやがったんで。あっしゃ、それから闇雲《やみくも》と追っ駆けた。すると、阿魔は故郷に帰っている。ずいぶん道草をくってやっとこのリマへ来ると、ここの『海神《ネプツーノ》』という酒場に平気な顔でいやがる」
「じゃ、君を撒《ま》いたりするような、そんな気配はなかったんだね」
「そうですとも。こっちは、いろいろ無い智恵をしぼるから、つい道草をする。ところが阿魔は、奴にとりゃいちばん危険な故郷《くに》へ、一直線にすうっと来ちまったんで。つまりこっちは思案倒れというやつ。阿魔は、人一人殺《ば》らしたくらいは、平気なような奴なんです」
「じゃ、なんという名の?」
「ドーニァ・ジオルダーノって言います。そいつがね、このリマへ来ても変名をしやがらねえ。どうも、何からなにまで分らねえ阿魔だ」
ドーニァ・ジオルダーノ――その名を聴いたときちょっと顔を伏せ気味にして、折竹は動揺を現わすまいとしていた。それは、明日ココス島へゆこうという彼の同伴者、若きインカ学者としてひじょうに名の高い、ホアーン・デ・グラードが頻繁に口にしているからだ。
 ドーニァは、けっして心の底まで荒《すさ》んだ女じゃない。まだ純なものが仄《ほん》のりとあるのが分る。僕がドーニァを愛すことは、彼女を高める。と、いかにも学者らしい理想主義的恋愛論を、これまで彼は再三となく拝聴している。
 では、あのドーニァが殺人者か――と、くらい潮をみつめ排水の音を聴いているうちに、また新たな疑問が折竹に湧いてきた。それは、じぶんが人を殺した犯罪者であるということを、意識しないかのような不思議なドーニァの態度。追跡者も考えずいちばん犯罪者には危険な故郷のリマヘ、まっしぐらに帰ったドーニァ。分らない、異常心理というのか、どうしたという訳か。と、しばらく二人のあいだに言葉がないところへ、
「これまで阿魔は、独りぽっちのお袋に金を送ってたんですよ。そいつが、死にかけたという電報が殺人の夜にきた。といや、奴が取るものも取り敢《あ》えずここへ来た理由も分りますが、それから、人を殺したくせに名前も変えず、平気でこのリマにいるという、そこが分らない。しかしです、いまこの埠頭で見失ったとはいえ、いずれは、あっしの手でくるくるっと検挙《あげ》ますよ。先生は? えっ、ココス島ですって。気保養半分、宝探し半分で…… おやおや、この可哀想な刑事《でか》の身も、察してやって下さいよ」
さて、彼はファーレーをのこし、翌朝船出をした。ココス島、新宝島へ、というには次のような訳がある。
 ココス島は、パナマの西海岸から四百マイルほどの位置。文字どおり、ここは絶海の孤島だ。そしてここに、もしも”Mary Dyer《 メアリー・ダイヤー》”号の漂着がなかったらとしたら、おそらく世人の耳目には触れないようなものだったろう。というのは、 十世紀ほどまえのリマの暴動で、そのとき、市中の貴重品が悉《ことごと》く略奪《りゃくだつ》され「メアリー・ダイヤー」という帆船に積みこまれた。すると、その船の水兵がまた暴動をおこし、巨宝を積んだまま、公海上へと乗りだした。その後、嵐にあって漂着したのが、この東太平洋の孤島ココス島だったのだ。しかし、ここで乗員は悉《ことごと》く死に絶えた。いずこへ巨宝を埋めたのかその所在もわからず、いまは射倖心《しゃこうしん》をそそる新宝島として、この島へくるのは欲張りばかりとなっている。
 折竹とホアンが、この島についた翌日のこと。全島を覆う鬱蒼《うっそう》たる椰子樹のしたで、二人が紺碧の海をながめている。そよ吹く北東貿易風のなごやかな頬ざわり、海は熱射下に押しつぶれんばかりの閃めき。
「時に、この発掘は誰の出資だね。例の、コカ王のロドリゲスかね」
と折竹がぷうっと紫煙を靡《なび》かせる。しかしこの事は、とうに彼には分っていたことで、ホアンも、ことさら訊く折竹を訝《いぶ》かしげに見やっていたが、
「そうだ。しかし、ロドリゲス先生も期待しちゃいまいよ。ここには時々高潮ってやつがあるからね。『メアリー・ダイヤー』の宝がはたして埋もれているか、それとも、高潮が掠《さら》って海底へ持っていってしまったか⁈ その辺は、分ったもんじゃないよ」
「じゃ、そんな気持だけで、金をだすような男かね」
「いや、どうして。あの先生の欲ときたら、人間離れがしている。第一、この発掘だって広告に利用するだろう。原価《もと》くらいはとうに取っているよ」
 リマのクラブで、ホアンがちょっと口走ったことから、ようし、我輩が後援しようと、コカ王のロドリゲスが準備金をだしたのだ。この男は、ペルーの政界、実業界を通じての非常な利けもので、コカ、クーベなどの大耕地をもち、卑賤から身をおこしただけに抜け目ないことも人一倍。
 今度も「神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》」河攻撃待機中の折竹氏加わる――というわけで、関係菓子会社が大宣伝をはじめる。それだけに、このココス島行きはひじょうに気が楽で、ホアンも折竹も気散じぐらいにしか思っていない。
 ホアンは、静かな学者らしい男だ。三十を過ぎても女を知らず、美男で、鼻下の細|髭《ひげ》も上品で映りがよい。これまで、地元には一人も出なかったところの、インカ学者として著名でもあるし、浮気なラテンアメリカ人には珍しい謹厳さも物をいい、リマの社交界では話題の一つになっている。折竹は、しばらくその横顔をじっと見つめていたが、
「ホアン君、君はここへくる前夜、お別れをしてきたろうね。例のドーニャ嬢に、いくつ接吻《キッス》をしたね」
「それがね」
 ホアンはちょっと顔を曇らして、
「いないのさ。買物に行ったなり、帰ってこないという。翌朝も、行ってみたが、やはりいない」
「そうだろう。とにかく、その女は断念《あきら》めてしまい給え」
「なぜだ。薮《やぶ》から棒に、どうしたという訳だ⁈」
「それは、君には適《ふさ》わしくない女だからだ。君は、そのドーニァという人を買い被っている。――純潔な婦人でなけりや、ほんとうの愛はない」
「定まり文句だね」
 とホアンはせせら嗤《わら》うように言う。
「なるはど、ドーニァはいま賎《いや》しい身過《みすご》しをしている。また、あの女の前身を考えたら、うんざりもするだろう。しかし、君が腹の底まで荒《すさ》みきったと思うような、ドーニァはそんな女じゃない」
「そうか」
 と、暫く折竹は足もとの砂を見つめていたが、
「では、ドーニァがどんな女かと証拠を、ここで君にハッキリと挙げよう。あれは、ニューヨークで情夫《おとこ》を殺している」
「えっ、なに」
「じっは、ドーニァを追ってきたファーレーという刑事と、僕は出発の前後、カリャオで逢ったのだ。君が、翌朝行ってもいないという訳は、ファーレ一に捕まったもんだと思う。もう、ドーニァは君の手にはない。君も悪い夢をみたと思って、すっぱりと断念《あきら》めるさ」
 それなり、ホアンはなにも言わなくなった。信じようか信じまいかの躊《ためら》いも、相手が折竹であればつい信じたくなってくる。ドーニァのいない、去った女のかなしげな影をもとめる、ホアンはフラフラと立ちあがった。
 椰子の葉陰から、夕暮ちかい光線《ひかり》が矢のように差しこんでいる。道とてない島の中央にむかって、ホアンは空虚な足を進めてゆく。と、その跡をつけてゆく折竹の目が、ふと足もとの土のうえに止ったのである。
 ひょっくり、飛びだしているのが鳥の形のようなもので、苔蒸《こけむ》してはいるが彫刻らしいのだ。手をかけるとズルズルっと引出されてくる。その、土中から現われたのが鳥の頭彫りのある、錆《さ》びきった王冠のようなものだった。
「なんだ、こりや」
 と折竹の頓狂な声に、ホアンも惹《ひ》かれたように、ふり向いた。
 その瞬間、ほんの一瞬だがじっと目がすわったけれど、いまはこの世のすべてになんの価値も感じないホアンは、折竹をのこしてサッサと行ってしまう。だが、古びた王冠はいかなるものだろう⁈
 きっとこれは、ホアンの気が鎮まったら分るかもしれないと、彼は折れそうなのを抱えるようにして、じぶんの天幕《テント》にそっと持ちかえったのである。
 するとその夜、この島に奇怪なことが起ったのである。
 夕食後の散歩に砂を踏んでいた折竹の目に、はるか前方の汀《なぎさ》に異様なものが現われたのが……。幽霊⁈ たしかにそれは白衣がはためいているよう。夜光虫の微茫《びぼう》をぼうっと裾《すそ》にうつし、白いその姿には慄《ぞ》っと背筋がなってくる。はてなと、彼はおどる胸を押し鎮め、
「この、絶海の無人島に人間がいるわけはない、目のせいか⁈ いやあれはたしかに女の姿だ。快走艇《ヨット》着、ううん、たしかに」
 では、どこかに船が着いているのか。と、闇の海上をみたが、微光一つない。その間に、女の姿はいずこへか消えてしまったのだ。快走艇《ヨット》着の女、この絶海の孤島を訪れた白衣の婦人と――夢に夢みる心地で足も空なる彼の爪先が、まもなく、満潮のひた寄せる汀で踏みつけた……⁈ ぐにゃりと。それはたしかに肉体の感じ。
「女だ!」
 と、また新たな驚きに撫でまわす折竹の指に、腕ふかく食い入っている無残な縄数条。やがて、満潮に浸ろうというその女を抱きあげたとき……顔をみた、彼の蹌踉《よろめ》くような驚き。
「ドーニァ!」
 ああ、ドーニァ・ジオルダーノ。それが、絶海のこの島の潮増す汀のうえに……何時、そして何人が運んだのであろう⁈
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「神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》」河へ
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 ドーニァは、まもなく気がついた。しかし、問われてもどうして此処へ来たのか、また、彼女を連れてきたのが何人であるか、その辺はいっこうに分らないと言う。なんでも、カリャオの埠頭を歩いていると黒布をかぶせられ、抛りこまれたのが船底のようなところ。それから、船がでて十日ばかり経ったころ、いきなり無理に魔薬を嗅がされたが……その後のことはいっこうに覚えがないと言う。
 しかし、折竹は相当突っこんで、訊きだした。
「あんたが、船底に囚われている間ですね。なにか、水夫同士の会話のようなもので、これはと思ったことは」
「ないわ。ただ、こわい顔で睨めるばかりで……私が聴いたのは波の音だけだったの」
「じゃ、女の声のようなものは」
「それは……たしか一度だけ聴いたと思います。齢ごろの、見当はつきませんが、たしかに女の声で」
「姿はみませんね」
「ええ」
 とドーニァはコックリと領《うなず》いた。唇のあつい、濡れたような黒目。肌は、桃を包んだむく毛のような美しさ。誰でも、男がみれば唇が滞れるだろうという……ドーニァにはそういう毒がある。しかしこれで折竹がみた快走艇《ヨット》着らしい女の存在は、ほぼ確然としたわけである。ドーニァを……この孤島にはこんで、満潮にひたし殺そうという。それには、一体どんな事情があるのだろう。
 快走艇着の女、それがドーニァに絡《から》む秘密のようなもの。と、折竹が堪《たま》らず訊きだしたのだ。
「あんたには、なにか殺されるような、事情が、おありかね」
「そんなこと」
 とドーニァはちょっと笑って、
「殺すほうも、殺されるほうも……私にはどっちとも無いですわ」
 嘘を吐け、ニューヨークで情夫《おとこ》を殺しここへ逃げてきた君が――と、危うく出そうなのを噛み殺した折竹が、相手を見据えるようにじっと見るけれど、ドーニァは筋一つうごかさない。妙だ、こりやどうも不思議な女だ。と、折竹もしまいには呆れてしまう。しかし一方、これでホアンが、ひじょうに元気になった。じぶんから進んで、折竹が掘りだした王冠のようなものの説明を、ついぞ先刻《さっき》とは見違えるような情熱ではじめる。
「君は、なんと偉いものを見付けたもんだ。『メアリー・ダイヤー』が、リマから掠《と》ってきた宝の一部だろうが、これは、インカ王の"Llantu《リヤンツ》"というやつだ。インカ最後の王アタワルパの王冠だ」
「ううむ」
 と折竹が嘆声を発するところへ、
「で、それに就いてこんな物語がある。つまりだね、国家万一の際の王族逃入地、そこへ逃げこめば確実に安全という所が、この王冠のどの部分かに現われているという……」
「なるはど、物言う王冠というわけか」
「そうだ。そこへパタラクタが二千枚の黄金板とともに、はるばる逃げこんだものと、推定できる。ながいながい謎だったパタラクタの行方も、今日ここで、やっと解けるだろう。それも、絶海の孤島ココス島で暴露されるとは……」
 とホアンは暫く感慨ぶかげに黙っていたが、やがてボツボツ、この王冠が闇へ消えるにいたった、アタワルパ王処刑の日のことを話しはじめた。
「アタワルパ王は、部屋いっぱいを埋める黄金を積んで、ピザロに身代金として出したのだ。ピザロはそれを容れたがいろいろな事情が、王を死に就かせることになった。アタワルパは、"Garroto《ガロート》" という絞架にかかることになったのだ。するとその前に、王は王冠を脱ぎたいと言った。|世界四分の一《クヴァンチンスユ》の王が忌わしい刑具にかかるのに、王の象徴たる王冠をつけるのは嫌だと言った。で、別室に入り王冠を脱ぎ、それを、賢者《アムウタス》の"Vilac《ヴィラク》 Umu《ウム》"というのに渡した。そのとき、王がこんなことを言ったというのだ。
 ――パタラクタが逃げたそうだね。だが、あれがどこへ行ったかということは、儂《わし》が死ねば永遠にわかるまい。
 と言って、王冠を置いて処刑室にいったのだが、それを受けとったヴィラク・ウムの姿が、その日からいずこかへ消えてしまったのだ。王族最後の逃入地が王冠の一部に現われている――ということは近侍こそ知れ、スペイン人には、一人も知るものはない。やっと、それと分ったときは後の祭り、王冠も、ヴィラク・ウムもともども消えてしまっている。というんでパタラクタの行方が、ながいあいだ分らなかった訳なんだ。では、それが王冠のどこにあるのだろう」
 と言った、ホアンの手がどこに落ちたかというと、それは頭彫《ずぼ》りの鳥のうえであった。それは、見様によれば鶴鵡《オウム》のようにもみえる。しかし、ホアンはそれを指して、"Coraquenque《コラケンケ》"とすこぶる妙な名をいう。
「コラケンケ⁈」
 と折竹も異様な名に惑うところへ、
「君が、知ってなくてはならん。黒鶴鵡《くろおうむ》だよ。それが何処にいるかということは、問うまでもない。
『神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》』河の魔域に包含されている、"Manan《マナン》 Pasanchu《パサンチュ》というところだ」
 折竹は、それを聴くと魅せられたように、黙ってしまった。"Manan《マナン》 Pasanchu《パサンチュ》とは、「神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》」河の最初の大難所、「臍の緒《コルドーン・デ・ウムビーゴ》」の渓谷《たに》を過ぎると間もなくのところ。土語で、「越えられぬ濯木帯」という意味だ。
 そこに、黒鸚鵡がいるということはかつてそこを過ぎた、ラマピー博士一隊の報告にも載っている。しかし博士は、終局地へ急ぐのあまり詳しくも調べず、ついにインカの黄金のことは逸してしまったわけである。いや、博士は知らなかったのだ。
 黒鸚鵡《コラケンケ》、黒い鸚鵡のいる「越えられぬ灌木帯《マナン・パサンチュ》」――。そこへ行くことは、必ずしも不可能ではない。
 「とにかく」
 とホアンが沈黙をやぶって、言いだした。
 「この王冠は、とにかく出資者のロドリゲスの所有になる。奴が、これについてどういう考えをするか」
 「定まってる。全身欲ぶくれのような奴のことだから、こと黄金板となったら、一溜りもあるまいよ。
 しかし僕は、『越えられぬ灌木帯《マナン・パサンチュ》』だけでは満足ができん。ふかく『神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》』河を衝いて真核地の、『毒ある空焼け《アレポール・ヴェアネノーザ》』までゆくよ」
 こうして、いずれ行かねばならぬ魔境の種々相を、濃藍の海を隔ててあれこれと思っているうちに、ふとドーニァを思いだしたのか、ホアンは顔を曇らして、
「時に君、ドーニァの殺人というのは本当のことかね」
「嘘にも、言っていい事と悪いことがあるよ。なんでも、その男というのが大変な無頼漢《ごろつき》で、それをドーニァは知らなかったというんだ。しかし、事情はとにかく人を殺したということは」
「そうか、絶対なのかね」
 とホアンはむすっと黙ってしまった。なにか、ドーニァの処置について惑っているらしい。と、また折竹には快走艇《ヨット》着の女の影が。
 ドーニァがニューヨークでした情夫殺しと、あの快走艇着の女とのあいだには何か、関係があるのではないだろうか。すると、この怪事件の発端をニューヨークにもとめなければならぬ。それとも、折竹にはわからぬ全然別の事情が、ドーニァ、快走艇着の女間に伏在しているのではないか。また、人を殺しても平気でいるドーニァ⁈ じぶんが殺されようという、事情も知らぬドーニァ⁈ と、折竹もホトホト手を焼いたほど、ただ怪といい、謎というだけのこの事件。
 やがて、三人はリマへ帰った。舞台は、この孤島からロドリゲスの事務所にまわる。
「ホウ、ご両人ともさすが見上げたもんじゃ。欲をだすようでは、学者ではない。無欲恬淡世俗を離れるのが、まことの学者というもんだで」
 ロドリゲスが、脂肪肥満でだぶ付いた顎《あご》をゆるがし、揉《も》み手をし、さかんに悦に入っている。というのも、ホアンも折竹も黄金板の分前について、なんら要求をしなかったからである。
 折竹は、むしろホアンの任事についての好意的援助。おそらく、彼の助力なくては
「越えられぬ灌木隊《マナン・パサンチュ》」はおろか、「臍の緒《コルドーン・ウムビーゴ》」をゆくことさえ容易ではないのだから……。また、ホアンの要求はドーニァに就いて、彼女を、ファーレーの手に落さぬようロドリゲスの力で、リマの官辺へ運動をしてもらったことだ。いま、ドーニァはロドリゲス邸にいるのだ。
「とにかく、この『越えられぬ灌木帯《マナン・パサンチュ》』の黄金に就いては、他言はせんでもらいたい。いつ何時どんな馬鹿者が飛びだして、この仕事の邪魔をせんとも限らんからな。
これは折竹さんの仕事で、『神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》』河を衝く大冒険ということで」
「では、あなた自身は行かんのですかね」
「行かんで、どうする」
 とロドリゲスがちょっと目を剥《む》いた。発掘物を胡麻化《ごまか》されては大変と、とんだところで本性をだすのだった。とその夜、ロドリゲス邸のドーニァを、ホアンが訪れた。
「私は、あんたがね。なぜ私みたいな女に、血道をあげるのか分らない。有名なホアン・デ・グラード先生がこんな端た女に、関わりあっているなんて、可怪《おか》しいじゃないの」
 ドーニァは、ずれる薄着を肩にあげながら、怖いような目で紫煙の行手をみつめている。ドーニァもホアンを愛しているが、あまりな身分の隔たりに、時々こんなことを言う。
「そんなことは、僕ら二人の仲じゃ、何のことでもないよ。君がそんなように、じぶんを卑下するのがいちばん不可《いけ》ないことなんだ。僕は、君のまえでは唯の男だ。あくまで、僕ら二人は対等のつもりだ」
「だけどね、あんたは私という女がわかったら、きっと厭になるわ。あたし、ずいぶん悪い女なんだから」
 そう言ってドーニァが、鍵のかかった小笥《キャビネット》のなかを暫く探していたが、やがて一つかみの封書を手に、戻ってきた。ばらりと、それを卓上に投げだして、
「見て、私という女の洗いざらいが、これにあるの。最初の、ブリッスというのは株式仲買人よ。ウォール街《ストリート》の銀狐といわれた……」
 ドーニァの過去を洗いざらい曝《さら》けたような、遊女にひとしいニューヨークの生活が、この幾つかの手紙のなかに語られている。ホアンは、いちいち読んでゆくうちに、呼吸づきさえも変ってくる。それを、ドーニァは勝ち誇ったようにみて、
「どう、あんたは、気が悪くなったでしょう」
「別に」
 とドーニァをみるホアンの顔には、いまのあの翳《かげ》がない。
「これで、君の過去がすっかり分ったつもりだ。だが、僕は君に感謝したいと思うよ」
「なァぜ」
「君が、全部を曝《さら》けだしたことは、愛情の証拠だよ。もう、僕のまえにはなんの嘘もない、君は純潔な女になっている」
 ドーニァは、じぶんの心の奥底を知らなかったように、狼狽《うろた》え、羞《はじ》らって、うつ向いた。私はやはりこの人を愛している――と、ドーニァははじめて知ったように。するとその時、挙げようとした目がふと窓越しにみえる、往来の人影のうえにとまった。
「ファーレー」
 とドーニァがかるい叫び声をたてた。
「あいつ、ニューヨークの刑事《でか》なんだけど」
「それだ。君が、ここから出られないのはどういう理由だと、僕にさんざん楯付《たてつ》くじやないか。あいつは、君を追っかけて、ニューヨークから来ている」
「だけど、私なにも、悪いことはしないわよ。あんな刑事に追っ駆けられるような」
「そう、それならいいが」
 とホアンが、女の一挙一動を見逃がすまいとするかのように、据えていた目をそっと落して、言った。
「とにかく、君は知らないだろうが向うはあんな具合だから、当分、僕の言うとおり此処《ここ》にいたはうがいいよ。二人の『越えられぬ灌木帯《マナン・パサンチュ》』への旅も、きっと楽しいだろう」
 ところが翌日、リマの郊外にある。"Qquente《ケンテ》"という山のうえで、ホアンと折竹が妙なものを見たのである。それは渓一つ隔てた向うの丘の中腹に、一人の女が肌もあらわに横たわっている。さんさんと降る熱帯の陽を浴びて、その女は身動きもしない。そしてそれが、翌日も、また次の日も……
 ただ、折竹は陽を浴びるこの女と関連して、いつぞやの快走艇着の女を想いだしたのである。やがて、「神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》」河を衝く彪大《ぼうだい》な組織を整え、ブラジル境いの"Cashibo-ya《カシボヤ》"から魔境へ向った。

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猿人の指跡
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 まず、最初の困難が、「臍の緒《コルドーン・デ・ウムビーゴ》」。|黒い湖《ヤナコッチャ》から発する無名の川の両岸を、アンデスの斜面《スロープ》が大絶壁をながしてゆく。
 じっに、雲をさく山巓《ピーク》からくらい深淵の河床にかけ、見事にも描くおそろしい直線。それが、一枚岩というか犀風岩《びょうぶいわ》といおうか、数千尺をきり下る大絶壁の底を、その無名の川がうねりくねりと流れている。
 鳥も、峡谷のくらさにあまり飛ばないところへ、人が、どんなに踠《もが》こうとけっして往けるわけはない。ただ絶壁の中途にある大蔦の茂みを、わずかな足掛りとする以外にはないのだ。しかし、ついにそこを越え、はじめてアマゾソ源流の大樹海をのぞんだのである。
 地平線は、樹海ではじまり樹海でおわっている。一色のふかい緑は空より濃く、まさに目のゆくかぎりを遮《さえぎ》るものも、またこの単色をやぶる一物さえもない。そして、はるか涯にうっすらと燃えている「毒ある空焼け《アレボール・ヴェネノーザ》」の残陽のような怪霧。やがて、「越えられぬ灌木帯《マナン・パサンチュ》」を目前にのぞむところへ来た。
「これが、折竹さん、どうしたというんじゃ。これが、越えられぬとは、どういう訳で
す」
 ロドリゲスが、なんの訳ないというように折竹をみるが、この「越えられぬ灌木帯《マナン・パサンチュ》」はけっしてそんなところではない。ぽつぽつと、ゴム樹が生えている陰湿な原で、コラブという棘だった灌木が、黒い土のうえをいちめんに覆うている。しかし、一足踏みこんだロドリゲスがあっと言って跳び退いたほど、ここは生易しいところではないのだ。
 土と思ったのは、腐りきらないコラブ茎の堆積《たいせき》。それが、踏めば切れて弾力ではねあが
り、あたり一帯が気味悪い揺れかたをする。前をゆく人の後ろから跳ねあがる茎の壁、この曠茫《こうぼう》たる原野は生あるもののように、前行者の行方をかくしてしまうのだ。そしてまた、ふとい茎に逢えば、相当な負傷をする。
「ふうむ、まるで生きものみたいじゃな。おいコンチャ、儂《わし》の肱《ひじ》に繃帯《ほうたい》をしてくれんかな」
 そのコンチャはこの一行の炊事婦で、ペルー人とプシュラ印度人《インディアン》の混血児《あいのこ》で、三十がらみの陰険そうな女だ。いつも、黙々として口数もない。人をみる目も、蜥蜴《とかげ》のように光る。あいつ、なんてえ女だ――と、折竹がホアンに言うはどである。すると、その原のなかに古い右積がある。インカ建築特有の積みかたをした、なにかの礎石のように思われる。
「とうとう、儂も運を掘り当てたらしいですな。寺院の礎石か宮殿の跡かしらんが、どこかにパタラクタさんの化粧部屋もあるじゃろう。どれ、ゆるりと頂戴をしますかな」
 で、発掘を明日にのばしたその夜のことである。焚火をしている人夫の一人を、折竹がそっと暗がりへ連れてきた。
「おい、ファーレー、頭巾《ずきん》を除れよ」
「見つかりましたかね」
 とその人夫は歯切れよく言って、苦笑した。ファーレーだ。猛牛《ブル》の猛牛《ブル》たるところを発揮して、どこまでもと追うてくる。
「これでも、汚なく作ろうとずいぶん苦心したんですが、やはり、先生のお目は高いね」
「驚いた、猛牛先生の根気にゃ負けたよ。しかし、ドーニァは悪い女じゃないね。僕は、交際《つきあ》っているうち、だんだん好きになってきたよ」
「おやおや、ドーニァの肩をもって儂《わし》を柔道で紋め殺す――てなことは、絶対ご無用に願いますよ。あんたが、粋狂でもってこんな所へくるのも仕事。わしが、ドーニァをしょっ引くのも仕事《ビジネス》。ご諒解ねがいます」
 そんなわけで、ファーレーが忽然《こつぜん》と現われたことは、第一、ドーニァにひじょうな恐怖
をおこさせた。ホアンも、温厚な彼にはめずらしく恐ろしい気力で、あくまで、ドーニァを護ろうという決意さえ見せている。こうして、急にたかまった息苦しい空気のなかで、いよいよパタラクタの黄金の発掘がはじまったのである。
 しかし、ついにそれは無かった。おまけに、どこを見ても黒鶉鵡《コラケンケ》などはいない。
「これで、儂《わし》が引き返せると思うかいな。もっともっと、掘らんことには断念もつかんて」
 薄い髪毛を掻きむしり、人夫を鞭打ちながら、ロドリゲスは虎のように咆《ほ》えたてる。しかし、石を除《どか》してもどんなに掘っても、コラプの茎で負傷者はでるが、黄金板の黄の字もあらわれない。ホアンも、見ていられなくなったように、
「しかし、此処にぽつりと遺跡が出たのですからね。そうそうあんたのように早合点をするのも、この際早計だと思いますよ。とにかく、もう少し先へゆくことだ」
 その時、ホアンの目に輝いた異常なひかりを、誰一人気付くものはなかったのだ。が、ここで胸をうち痛恨の気を洩らしたのが、誰あろう、猛牛《ブル》ファーレーだ。
「畜生、ここですむかと思ったら先へゆくなんて、|黄金板《いた》め、なんてえ奴だ。はやく顔を
だして隊を帰し、ドーニァを俺にしょっ引かせろ」
 翌日、負傷者をだしながら此処を越え、いよいよ奥アマゾソのにおいが濃厚となってゆく、「食肉蓮の大湿地《ブレージョ・ユーリアレ・カルニヴォルス》」をのぞんだのである。
 そこを、誰しも湿地とは思うまい。焼土のようなまっ赫《か》な沼滓《ぬまおり》。それを、亀裂のように裂いてすうっと泳いでゆく、大水蛇《アナコンダ》の厭らしい鼻先。これが湿地か、これが水かと思うものは、やっと食肉蓮をみて目醒めたような気になる。がここで、牛が二頭、人夫が四人、樹から飛びついて水中へと引きいれる、大水蛇《アナコンダ》の犠牲になったのである。
 しかしまだ、ここは暗黒奥アマゾソの戸端口《とばぐち》にすぎない。きのう見た、薮地《ブッシュ》のおそろしい棘草、その密生の間を縫う大アマゾソ蜘妹――。しかし今日は、いよいよ草は巨きく樹間はせまり、奥熱地の相が一歩ごとに濃くなってゆく。やがて、一行を襲ったのが、疲労とマラリヤ。
「いったい、折竹さん、どこまで行くんです」
 ファーレーも、そろそろ音をあげはじめてきた。
「何処へって⁈ インカの遺跡があって、黄金板がでるまでさ。でも、大西洋にだんだん近付いてゆくからね。その点は、安心し給えな」
「冗談じゃない。あんたは、マラリヤでもなんでも免疫でしょうが、まだ、儂なんぞは生身ですからね。下手ァするとドーニァより先に、儂のほうが死んでしまいそうでさァ」
「死ぬんだね。あの二人は、じつにいい恋人だ。犬に喰われて死ねばよい、君みたいな奴は、南米虎《ジャッカル》の餌食にでもなるんだな。ハッハッハッハ、いまのは冗談だよ、猛牛《ブル》」
 一人たおれ二人たおれ死骸を埋めながら、一行は地獄への旅を続けてゆく。ロドリゲスも、いくら欲とはいいながらこれ以上ゆくことには、もう堪えられなくなってきた。漂徨《ひょうこう》二週間のある夜、ホアンに言った。
「儂《わし》は、どうもあんたを信じすぎたように思う。そりや、黒艶鵡《コラケンケ》などというものは、滅びる期《とき》もあろう。しかしじゃ、あんたの名声を信じ人格を信じても、どうも、あの伝説は頼りないように思うな」
「しかし、どんな探検でも発掘でも、伝説によらぬものはないでしょう。巨費を損するのを覚悟のうえでなくては、探検などはやれるもんじゃない」
「ふむ、理窟はそうじやろうが」
 とロドリゲスが胡散《うさん》臭そうな目をし、
「じっはな、さっきファーレーというあの刑事君から聴いたがね。あんたが、こう奥へ奥へとゆくのは、あれを救いたいためではないかな。ドーニァを縛らせまいという……」
 ちょっと、ホアンの咽喉《のど》が鳴り、痞《つか》えたような顔になった。ファーレーをひき離すためには死の奥地ゆきも、彼には厭わぬところだから……。それが、正直な彼には描いたように現われる。ロドリゲスは反り身になって、
「読めた。儂《わし》は明日、断然たる処置にでる。ドーニァが仮りにどうなろうとも、あんたの身からでた鋳じゃからな」
 それから、ロドリゲス、ファーレ一間に密談が続いた数時間、一行の宿営地の付近に異様な唸り声がしはじめた。それは南米虎《ジャッカル》でも、南米豹《プーマ》でも、獏《タピール》でもない。これまで、この地方のいずこでも聴いたことのない、太い低い、狙うような獣の声。おまけにそこは、「地獄の肋骨《コステルラ・デ・インフェルノ》」の大荒地である。
 サボテンや、竜舌蘭《りゅうぜつらん》がどうしたことか枯れ、白い筋だけの沙漠の白骨のような残骸が、この荒地をいちめんに覆うている。すると、夜中ごろから湿気がたかまって、気温も華氏《かし》の百度ぐらいになってきた。焚火に、暈《かさ》ができて蒸し殺されんばかりの苦しさは、たださ
え異様な怪獣の声をまじえ、じつに眠られぬ一夜であった。と翌朝、人夫の一人が転がるように、入ってきて、
「大変でがす。ロドリゲス様がオッ死んでいるだ」
 ゆくと、咽喉《のど》をかき毟《むし》っているロドリゲスの死様《しにざま》。しかも、頸から咽喉にかけて印されている泥まみれの掌紋。それを見たときさすがの折竹も、一時に背筋が慄《ぞ》っとなるような思いだった。あの、化木人《ラーモス・デ・ジンテ》にあった楕円形の掌紋。
 第五類人猿⁈ きのうの唸り声はやはりそれだったのか。

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化木人
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 誰一人、烈日のしたで沈黙をやぶるものがない。蚋《ぶよ》が一杯にたかったロドリゲスの死体を、ポカンと口をあけた円陣がとりかこんでいる。化木人《ラーモス・デ・ジンテ》に想像されている、第五類人猿。それ特有の掌紋が、まざまざと咽喉にある。ああ、やはり昨夜の唸り声と、一同は悪夢をみるような心地だ。
「来たんだな」
 と目では囁きあうが誰もいうものがないところへ、猛牛《ブル》ファーレーがやっと口を切ったのである。
「じゃ、これは何ですかね、お猿の仕業だってんで」
「そうなんだよ」
 と折竹も呟くような声だ。
「この奥の、奥のずうっと奥にだね。まだ地上に未発見の五番目の類人猿。ゴリラ、黒猩々《チンパンジー》、猩々《オラン・ウータン》、手長猿《ギボン》の次の、南米新種のもの凄いのがいるだろうとなっている。というのは、木質化された化木人というのがあるからね」
「へえ、そんなのがね」
とファーレーは明らかに浮かぬ顔。世俗のことには、紐育下町《マンハッタン》そだちの彼はじつに呑み込みがいいが、こういうじぶんの智識の範囲をおそろしく飛び出たものには、呑み込みの悪いこと人一倍という男だ。
「しかしですよ」
 と折竹を円陣から連れだして、
「その、ごついお猿のことは、まず扠置《さてお》いてですね。わしは、そういうことは考えまいと思うのです。というのはね、ドーニァには動機がある。ゆうべ、ロドリゲスさんがホアンを嚇《おど》かして、明日此処をかぎり隊を帰す。君の虫であるドーニァの阿魔《あま》を、儂にしょっ引かせると言ったそうです。むろん、ホアンはそれをドーニァに話したでしょう。まして、あの女には殺人の前科がある」
「なるほど、それにしても、この掌紋はどうなるね。人夫がどっと入ったんで、足跡が荒された。第五類人猿がゆうべこの天幕に入ったという、証拠は掌紋以外にはない。しかし、こんなものが作れるかしら……」
「そりや、分りません。しかし、考えると女のドーニァでは、この爺を絞めても殺すだけの力はないかもしれない。といってです、儂の見込みがそれだけって訳じゃありませんよ」
 と今度はホアンを呼んで、
「ねえ、あんた、あんたはインカの黄金《きん》の所在を知っているね」
 とカマをかけたのに、引っ掛ったホアンが、
「うん、いかにも知っている。やはり『越えられぬ灌木帯《マナン・パサンチュ》』にあったよ。あれは、積石のなかに餡《あん》ようになって入っている。あの黒雲母石《グラナイト》の石の容積と目方を、計算すりやすぐ分るんだ。しかし、あんなものは僕は要らんよ」
「ハッハッハッハ、咽喉から手がでる思いで、要らん要らんというのかね」
「じゃ君は、僕が横奪《よこど》りしようとでもしたと……」
「そうだ、そうなりやこの爺《じじい》が邪魔だ」
「ふむ」
 と、暫くホアンは呆《あき》れたように相手をみていたが、
「止むを得ん、弁解しょう。じつをいうと、君にドーニァを渡したくないからなんだ。僕らは、黄金板がでれば折竹君だけをのこして、そのまま引き返すことになっていた。そうなると、ドーニァが君の手に落ちてしまう。そうさせないためには、板があってもその所在はいわず、ただまっしぐらに魔境のなかへ行かねばならん。いずれ君は、鰐《わに》に食われるかマラリヤで死ぬだろう。そうして、厄病神《やくびようがみ》をはらって清々したいというのが、僕のひそかな期待だったんだ」
 ひどい奴だと、こう明らさまに言われて文句も出ないファーレーは、ただ渋面をつくり苦笑をするのみ。こうして、第五類人猿の出現というはうに、ロドリゲス事件がじわりじわりと近付いてゆく。
 さて、折竹がゴム樹にのばってみると、これまでの半草原帯がいよいよこれで尽き、樹海また樹海の涯のとおい彼方《かなた》に、うっすらと靡《なび》く「毒ある空焼け《アレポール・ヴェアネノーザ》」の妖霧。しかしその日から、ドーニァの様子が変ってきた。
 なにかを追いもとめる、悶《もだ》えるような悲しみの色。口数も少なく表情もうごかず、ホアンにもほとんど物をいわない。ときどき、段状にかさなってゆく大樹海の涯の、一見、羊歯《しだ》群と思われるあたりをおそろしい目でながめていたり、なにより、葉摺《はず》れの音にもびくっとなるし、どうもドーニァが薄気味わるいものになってきた。それには、ホアンも折竹も、とっくから気がついていたのだ。
「どうも、変だ、『神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》』河の狂気が、ドーニァに来たのかしら……」
「さァどうかね」
 と折竹も憮然《ぶぜん》と呟くのみだった。
 しかしその数日後、いよいよ折竹、ホアン、ドーニァの三人がファーレーらとわかれ、死を賭しての奥地ゆきをすることになった。おそらくこれが、この世における三人の最後の日か。折竹は信念と意気のために、ホアン、ドーニァの二人は容れられぬ恋の完成を、はるかなる魔境でするものと察せられた。数|艘《そう》の丸木舟にすぐった土人をのせいよいよ「地獄の肋骨《コステルラ・デ・インフェルノ》」をはなれた大樹海へと入ることになった。別れの哀愁に、ファーレにも似げない涙をうかべ、
「成功をいのる。儂らはここに、二週間ほどいるからね。ぜひ、気違いにならぬよう気を付けて帰ってき給え。ホアン君、もうおたがいに敵意を去ろう。ドーニァ、僕はもう、君を追う刑事《でか》じゃないよ」
 そのとき、炊事婦のコンチャの顔をつつむ殺気と喜悦の色に、誰一人気付くものはなかったのである。やがて、川は大樹海のなかへ入ってゆく。
 密林下の川――。護謹《ゴム》樹、椰子《やし》、パルパティモン、トウマク椋欄《しゆろ》などの大樹が鬱蒼《うっそう》と天日を隔て、それにからまる寄生木《きせいぼく》の繁茂は大艦の砲塔のよう。羊歯《しだ》は樹木化し巨蘭は岸を蔽《おお》い、密生のおそろしさはさすが奥アマゾンと、折竹も唖然としたほどである。そこへ、水中植物を薙ぎながら流系もない川が、どろっと濁った伽排《コーヒー》色の水を流しこんでいる。はや、数間とゆかぬのに、まったくの暗黒。それにまず弱ってしまった。
「このまっ暗な中を、どうしてゆくね」
 と、ホアンが不安そうな顔。
 前方には、点々とちりばめたような大鰐の目。大水蛇《アナコンダ》の這《は》いずり、王蛇《ボア》の跳躍には……気根蔦葛《きこんつたかずら》をつたわるごうっという震動が、この大原始林の坤吟《しんぎん》のように聞えてくる。おそらく、数間先には死が待っているだろう。この「胎内川《リオ・ノオ・パリーガ》」を生きながら過ぎるということは、気違い沙汰か妄想にちがいないのだ。と突然、先頭をゆく舟の土人の一人が立ちあがり、全身をかき篭《むし》り、狂気のように喚きはじめた。
「あっ、"Tucandero《ツカンデロ》"」
 と折竹も愕《ぎよ》ッとしたように叫んだのは……長さ二インチもある|アマゾソ大蟻《ツカンデロ》の襲撃だ。まだ、微光がのこっている河面を埋めるほど、食いちぎった葉に乗ってくる大蟻の大群。まったく一歩が死の瀬、二歩が地獄。鉄光をながしたようなその河面の輝きに、土人たちは倉皇《そうこう》と逃げだそうとした時だ。
 どうしたことか|アマゾソ大蟻《ツカンデロ》の大群が、周章狼狽《しゅうしょうろうばい》、木の葉のように散りはじめた。それは、折竹が紫外線灯を点じたからだ。
 爬虫類や蟻は、光のなかで黄と赤を好む。青や紫は大の嫌い。ことに、人間にはみえぬ紫外線となれば、彼らは一堪《ひとたま》りもなく逃げだしてしまう。いま、この三艘の舟は不可視光線にまもられて、「胎内川《リオ・ノオ・パリーガ》」の暗黒の川を下ってゆく。そうして、三日になったが、まだ密林は尽きぬ。湿熱、湯気のようなこの三日間のうちに、もうへとへとなどの形容は言うも更というほどに一行は疲労のドン底にあったのだ。発熱、下痢、死の手は体内からも招いている。
 すると、最後の舟の尾灯のなかに、なにやら紙のようなものが流れてきた。手にとると、それはコンチャからのもの。水中植物のため進行が容易でないこの舟に、後で流した紙が追いついてしまった訳だ。それには、こう誌してあった。

 この紙は、おそらく死に絶えたころ、貴方がたの舟に着くでしょう。好んで死にゆく皆さんのために最後の餞《はなむ》けをしたいと思います。
 私とドーニァは、真《まこと》をいえば実の姉妹です。しかし、ドーニァは頑是《がんぜ》ないころ、ある理由のため家を離れました。それは、めずらしい楕円形の掌紋が、あの子の両掌にあるから
です。きっとそれは、誰にも考えられぬような遠い祖先の特徴が、ドーニァだけにポツリと出たのでしょう。私の家――リマの旧家ヴェラスケス家では、左様な片輪ものは家柄からも置けません。ああ、本当によかったと、数年まえに語り合ったほどですわ。というのは、化木人。あの第五類人猿といわれる怪物の掌にも、やはりドーニァとおなじ掌紋があるのです。実際、私たちはホッとした思いでした。誰でも、とおい祖先は猿とはいいながら、それを、明らさまにまざまざと見せられることは、私たち名家にはこの上もない苦痛です。と、つい先達《せんだつて》ドーニァが帰ってきた。やっと、縁遠い私にも恋人ができた時。
 私は、自分自身の幸福のため、おそろしい決意をしたのです。いつ露われるかもしれないドーニァのことを、私は極力蔽《おお》おうと致しました。で、あの子をココス島へ掠《さら》い、満潮の水にひたし殺そうとしたのです。しかし駄目、あなたがドーニァを助けてしまいました。私はそれから肌を陽に焼いて混血児をよそおい探検隊に入りました。そして、絶えずドーニァを殺す機会を狙っていたのですが、ついに私の手を俟《ま》たず、天が下した。それは自殺にもひとしい「胎内川」下り。
 私は、本名をイザベラと申します。|アマゾソ大蟻《ツカンデロ》がたかって骨の髄まで食われてしまっている、貴方には聞えますまいけれども……。
 恐ろしい女――と読んでゆくうち堪らない嫌悪の情。女の執念とあくことない我欲とを思うと折竹も慄《ぞ》っとなるような気持だ。しかしこれで、快走艇《ヨット》着の正体がわかった。と同時に、薄いゴム手袋をして巧みに掌紋をかくしている、ドーニァの化木人の血のことも……。そうすると、ニューヨークにおける彼女の殺人も、ジキル・ハイド式の二重人格ではないのか。第五類人猿の血で兇暴になるときの無意識裡の殺人ではないのか。無罪――。ただ可哀そうなのはヴエラスケス一家のなかで、ドーニァだけは濃い化木人のこの血。
 しかし、一方核心へ近付くにつれ、この一行を不思議なものが襲いはじめた。はじめは、周囲の植物の睡眠が分ることだった。日が暮れる――それは、この暗黒のなかでは時計でしか分らないが、その時はザアッと密林が騒《ざわ》めいて、水平だった葉がうなだれるように垂れてくる。と同時に、一行もしだいに睡くなってくる。こうして、人間と植物が交感をはじめたということは、すでに狂気の、第一歩ではないのか。と、心をひき締めてゆくうちに、また紙が流れてきた。今度のは、ファーレーから。

 昨夜、コンチャが絞め殺されてしまった。しかしこれで、ロドリゲス事件の正体がわかったよ。それは二人とも、竜舌蘭《りゆうぜつらん》の枯れたなかに寝ていたからだ。あの繊維は、湿気にあうと非常な収縮をする。それで、コソチャもロドリゲスもひとりでに首を絞められた。また、ロドリゲスの場合は、偶然にもその跡が第五類人猿のあの掌紋に似てしまったというわけだ。ドーニァさん、あんたを一時なりとも疑ったことは、あつくお詫びをする。

 天の配剤と、コンチャの死は当然のように思われた。しかしその時、土人の一人がアッと叫んで、頭上をみた。はるか、樹海の梢をゆく栗鼠《サギー》猿の大群。と、その辺の満天の星空のように、点々と散りばむ外光のまたたき、密林がうすれた。一行は歓呼の声をあげた。
「胎内川《リオ・ノオ・パリーガ》」をでると、名もしれぬ潅木がいちめんに生い茂っている。「毒ある空焼け《アレボール・ヴェネノーザ》」のあの怪赤霧が、もうほど近い野火のようにみえるのだ。とその辺に、まっ赤な花粉のようなものが散っている。嗅《か》ぐと、鼻に浸むぷうんと異様な匂い。
「ううむ、こいつ」
 と折竹がボンと手をうって言った。
「これは、"Cattleya Eldorado《カットレヤ・エルドラドー》という非常に椅麗な蘭の花粉だ。しかしこれには、合歓《ねむ》科の植物で"Niopo《ニオポ》"という、アマゾン土人がつかう魔薬のにおいがする。そうだ、たがいの根が交じって、"Niopo《ニオポ》"の成分を、この蘭が吸いあげたにちがいない。ホアン、あれは人を狂わせる花粉の雲なんだ」
 渺茫、蘭花の咲く狂気の原野。もし風が変ってこっちへ吹いた日には、この一行は狂人にならねばならぬ。と、明日は早々引きあげることにして、その一夜は露営という真夜中であった。
 この森閑とした狂気の楽園近くへ、どこか遠くでしている咆哮《ほうこう》が聴えてくる。やはりいる。第五類人猿はやはりと……。竦《うと》むような思いの時どうしたことかドーニァは、満面に喜悦の色をたたえ、惹かれるように聴いている。
 翌朝、ドーニァの姿が天幕《テント》から消えていた。折竹は、身も世もないホアンを慰めるように、
「血の掟《おきて》。また『神にして狂う《リオ・フォルス・デ・イオス》』河のこの原野の綻だ。血は血に帰る。ドーニァも悦んで行ったろう。あれは最初から人間ではなかったと、君も断念《あきら》めるんだな」
 暁は、「毒ある空焼け《アレボール・ヴェネノーザ》」を血のように染めている。しかし、折竹には血に帰ったドーニァとともに、かしこのゴム樹、ここのクーペ根と……祖国のための富源が一刻も頭を去らない。この奥アマゾソの大富源調査、彼もまた、時代の先駆者である。


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Last-modified: 2010-09-20 (月) 13:50:32