第十二話 伽羅絶境
久生十蘭

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魔境に土を求めて
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 安南《あんなん》のカムラン湾の南に、パンランという町がある。そのパンランから避暑地のラン・ビァンへゆく軽便鉄道が、いま石獅谷《ヤト・シムハ》に近い峡間《たにま》で立往生している。雨期終りの特徴でじめつく晴れ間があるかと思えば、サアッと一降り飛沫《しぶ》いてくる雨が、遂に大豪雨となった。なま温《ぬる》い滝しぶきのような水煙が、どうどうと薙《ちぎ》れる叢林《そうりん》を覆いつつんでいる。
 石獅谷《ヤト・シムハ》のこの一廓《いっかく》は特に大難所といわれている。ソン・カイの一支流がここを流れているが、蛇行《だこう》がひどく、すぐに溢《あふ》れる。眼下の奇巌も怪石もすっかり視野から消え、じりじり車輪にせまる濁水をみる車内では、不安というよりも死の顎《あぎと》に在《あ》る心地。と、ここに、こうした情勢にあっても眠っているとしか見えぬような、じつに異色のある、五十がらみの男がいた。平順州警察区域《セルクル・デ・ピンチユアン・コロニー》の高等課刑事部長ラウール・ド・サンチレールという男だ。
 こいつは、日本人嫌《ぎら》いでは名うての奴《やつ》、一見|好々爺《こうこうや》然とみえるが、なかなかの策謀家。すべてが陰に込も罩《こも》るという打って付けの役どころを、このサンチレールが永年やっているのである。いまも、だぶだぶした頬《ほお》に埋まってしまいそうな、象に似た目をどきどき光らせている。
「こりや、いかん。ラン・ビァンにすぐというのに、困ったことになったもんだ。秘密測量の予備行為の嫌疑《けんぎ》で、ラン・ビァンのホテルにいる折竹を押える……。わしは、そのため河内《ハノイ》に呼ばれた。奴が、三月もぶらぶらとこの仏印にいるなんて……地図作成以外には考えられんことだという。成程と、わしもそれに同意した。しかしだぞ。いまこの列車がここに停っている間に、奴が急速に動きだしたとしたら、どうなる。逸するか?日本の南進政策の前駆となって踊っているあの大物を、わしが逸するか」
 爪を噛《か》み噛み、しだいにサンチレールも居たたまらぬような気持になってくる。それもそのはず、たかが一植民地の部長|風情《ふぜい》の彼が、相手にするのは名だたる世界人折竹。じつに願ってもない一世一代のことである。
 さて、ここで折竹は捕えられるだろうか。それとも、サンチレールの杞憂《きゆう》がかなしくも実現し、思わぬ運命的な転換がこの停車の間におこるか?作者はそれを暫くのお預りとして……場面を、夜のパンランの蛇皮《じゃび》線《せん》の音のなかに移すことにする。

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 音もない夜更けのパンランの空気を、胡弓《こきゅう》や、銅鑼《どら》や十六絃琴《ドン・トラン》の音がゆすっている。その野天芝居の放尿所の向うが、パンラン警察の留置場になっている。ここは、いずこも同じ酔漢の鼾声《かんせい》。ひっそり閑《かん》としたなかに、看守巡査の靴の音。と、一隅の房から話し声が洩《も》れてくる。じつに此処《ここ》にはめずらしいような、父娘《おやこ》二人のモイ族がはいっている。
 娘は、二十四、五で猫のような顔。そのぷんぷん発散する野性のかおりには、愛らしい獣というような感じがする。また老人は、もう七十を越えたろう。痩《や》せこけてはいるが、鋼鉄のような手肢。剽悍《ひょうかん》、黄褐色《こうかっしょく》の短躯《たんく》をおどらしてジャングルを駆けめぐり、毒箭《どくや》をつがえては虎豹《こひょう》と挑《いど》みあうモイの精気が、まだこの老人には潜んでいるようだ。いずれも、部落にいるときは裸体ではあるが、娘は里へでるためか更紗《サラサ》を身にまいて、うつくしい天鷲絨《ビロード》の膚をかくしている。
 しかしなぜ、この二人のモイが留置場にはいっているのだろう。またなぜ、ジャングル種族のモイが里へ出てきたのだろう。ともかく二人の会話を盗み聞くことにしよう。
「お前は、おらのことを短気だ短気だちゅうけれど、あん時、『英勝』号のオヤジをぶっ殴《ぱた》かねえもんがいたら、おらァそんな奴はモイでねえと思うだよ。だいたい、野郎を殴ったのは、お前が先だぞ。あんな、下種《げす》支那人に淫《いや》らしい目をされて、手まで引きよせられたら、黙れるこんでねえだ。おらァ、お前が殴るのをみて、ぞっと嬉しくなっただよ。まだまだモイの気っ節は衰えねえと思ってな」
「だけど、お父っつぁんが殴ったのだけは、余計もんだと思うよ」と、かるく責めるような口吻《くちぶり》で、娘のデイが言い出した。おやじのラオ・バートが目のなかへ入れても痛くないような利発で器量《きりょう》よしのこのジャングル娘は、またおやじの苦手にもなっている。
「お父という人は、人も虎《クリュー》も見分けがつかないんだね。どんな事をしたらここへ打《ぶ》ち込《こ》まれるかくらいが、お父には分らないらしいんだね」
「ここは、風通しはわるいが、食いものはええだ。部落のものよりや、なんぼか良かんべし……」
「馬鹿」と、おやじを睨《にら》んだ顔も、泣かんばかりになってきて、
「そりゃね、ここにいる私たちはいいよ。だけど、部落が立つか立たないかという大事な用を背負ってきて、このパンランへ出てきた私たちの帰りを、なんぼか留守のみんなが首を伸ばして待っているだろう。それが……、いつ此処を出られるか、当もありやしない。おらァ、そう思うとみんなにはすまねえし、お父の馬鹿一徹が恨めしくなるし……」
 それなりで、二人の声がしばらく絶えていた。ときどき、看守部屋かららしい占“Baquan《バカン》”賭博の音にまじって、デイがしくッしくッと欷歔《しゃく》りあげるのが聴えてくる。留置人の中にいる、象皮病のにおい。驟雨《しゅうう》のまえのもの凄《すご》い蒸し暑さで、電灯の灯がどんよりと暈《かさ》を着ている。さて、デイの嘆きには次のような訳があるのだ。
 ラオ・バートが酋長になっている、バーラプの部落は、パンランの北西方、百マイルほどの所にある。ここは、ここは、安南、カンボジア境いのおそろしいジャングルだが、また、世界でも有名な香料伽羅《きゃら》の産地。“Goul《グール》”といわれる伽羅樹の幹から、にじみ出る樹脂が香料の伽羅になる。しかしへ伽羅樹《グール》は多いが、伽羅《ガハルー》はなしの例え。樹皮下にたまっている伽羅をもつ樹といえば、まず百に一つも難しいというくらいなもの。それを見分けるため|伽羅さがし《カグニ》を引き連れて、毎年ラオ・バートが原始林のなかへ入ってゆく。すなわち、頑固《がんこ》一徹のこの老バートは、酋長でもあり、伽羅頭でもあるわけだ。
 ところが、この楽土に闖入者《ちんにゆうしゃ》があらわれた。ドンナイ川の上流の水力電気工事に、どしどし入り込んでくる安南人の工夫が、ほとんど全土の伽羅樹を伐り倒してしまったのである。狩猟にいった若者がそれを部落に伝えたとき、ラオ・バート以下はあっと声を呑《の》んで悲しんだ。どうしたらいい。伽羅で生活しているこのバーラプのモイ族。狩猟もほかのモイのように上手ではなし、ただ伽羅脂をもっている樹皮を見分ける才能が、この一族の特技のようになっていたのだ。
 毎年三、四月の乾燥期に伽羅さがしがはじまる。しかしそれは、いちばん伽羅のある老樹でもー、二斤くらい。せいぜい、一期を通じても二十斤程度の採取量が、部落四百人の生計の基になっていた……。その大切な伽羅がいまはない。ラオ・バート以下は途方に暮れてしまったのである。
 そこで、寄り合いの結果きまったことというのは、一つ、「英勝」号に嘆願してみようということだった。「英勝」号は、パンランにある福建人の薬材商。伽羅をはじめ豹頭、当帰樹などの、薬肉、薬草の類までモイ弛採らせていた……、そこは、支那人のこととて如才がなく、ずいぶん量目などでモイを瞞《だま》したらしい。その、「英勝」号のあるじ宋森《スンセン》が、父娘の話を聴くと次のように言うのだった。
「冗談じゃないよ。伽羅樹《グール》がなくなったから、薬草の値を上げろだって。へん、あの薬草というのはお前らは知るまいが、わしが伽羅欲しさに買うていたものなんだ。いわば、お前らの機嫌《きげん》とりの品物だ。伽羅があるならよいが薬草だけなら、わしはもう、不要《プヤウ》、不要だ」
 そんな具合に、宋《スン》が冷酷に突っぱねてしまうのだ。しかし彼は、そう言いながらデイをみては、意味ありげにニヤリニヤリと笑っている。
 まったく、デイの短謳ながらもすばらしい均斉。モイにはめずらしい金属的《メタリック》な肌膚《はだ》の艶《つや》。おまけに、甘杏《アルモンド》がにおう瞳《ひとみ》の色をみては、つい宋爺ならずとも口が濡れてくるのである。しまいには、聴き入れる条件にデイを持ちだしてきたので、おやじのラオ・バートが嚇《か》っとなってしまった。そうして、宋は前歯を四、五本ほど虧《か》き、父娘《おやこ》二人は豚箱入りになったのである。
 まったく今、バーラプのモイは浮沈の瀬戸際に立っている。土をうしなった百姓同様に、伽羅をうしなっては生活の道がない。餓死か、それとも、一族全部で乞食《こじき》になるか。頑固なラオ・バートは痩《や》せ我慢はいうけれど、目をつむれば二人の帰りを待っている部落のものの顔が次々とうかんでくる。そこへ、デイが訊《き》きた顔に言い出した。
「あんとき、『英勝』号の宋《スン》の爺が……伽羅が欲しくば。“Yat Giang《ヤトジャン》”。へゆけと言うてたな。そこは、お父、どんなところだね」
「そこはな、ラオスの北の、ビルマ境ちかくにある。そこなら、伽羅はいくらでもあるだ。香靉谷《ヤト・ジャン》という名のとおりのところで、地下からは沈香《じんこう》のかおり、渓《たに》をうずめるのは一面の伽羅樹《グール》だ。だが、そこへは人間がゆけねえだ。行けんければこそ、爺がいうだよ」
 仏印のなかでも、北部ラオスときたら、峻嶮《しゅんけん》の群立。山気悽涼《さんきせいりょう》として、蛮烟瘴気《ばんえんしょうき》漲《みな》ぎりわたり、虎豹や、犀《さい》や錦蛇《ピトン》が跳梁するそのなかに、この美しき魔境「香靉谷《ヤト・ジャン》」がある。詳しく言うと、仏印、ビルマ国境をなすメコン川と、それから百マイルほどの東の、フウ川との中間。東経百一度二十分、北緯二十度八分のところに、この怪仙境、「香靉谷《ヤト・ジャン》」がある。
 香木伽羅の複郁《ふくいく》たるかおり、数千の伽羅樹が峡間をうずめ、地下には、一瑞香科木の埋《いちずいこうかぼく》の埋もれ木からできるという、沈香が得ならぬ地気をたててくる。それが、合したもの仙靉《シェン・ジャン》といっている。
 孔雀《くじゃく》舞うなかをゆらりゆらりと漂い、嗅《か》げば恍惚《こうこつ》となってこの世の苦をわすれ、あたかも酔うたごとく魅せられたごとく、故郷も家族もその妖香には忘却し、思わずその仙境さして佳酔裡の足をむけるという――香靉谷《ヤト・ジャン》からは、こうした魔霧が漂ってくる。従って、その周囲にはほとんど部落がない。泰族《タイ》も、[#「けものへん+果」、464−13][#「けものへん+羅」、464-13]《ロロ》も、苗族《ミョウ》もとおく離れていて、この、無憂境《むゆうきょう》ながらも忘郷の妖気をたててくる香靉谷には近付くまいとしているほどである。
 これについて、いまだに名高いシトロエンの探検隊――先年、フランスシトロエン自動車会社が、「黄の巡遊《クロアジェール・ジョース》」と名付け、ジョルジュ・マリー・ハールト氏を隊長に、中央アジア横断をやった。その途上、河内《ハノイ》にむかう途中車を降りたハールト氏が、わざわざ香靉谷《ヤト・ジャン》をのぞむため、ビルマ境にきたことがある。そのときの、香靉谷周縁のおそろしさを、
 ――ここは、巨竹《バンプー》、また巨竹《バンプー》である。成土や蕃竜眼《ばんりゆうがん》などの熱帯樹が鬱蒼《うっそう》と生しげり、あいだに、七、八丈もある麻竹《まちく》が円柱のようにそそり立っている。そこからは、ゆけばゆくほど竹の密生はもの凄く、やがて視野がひらけ、山峡のようなところにでた。雨霧《もや》が濠々《もうもう》と立ちこめ、視界も定かではない。しかし私は、前方の地上をみるや、あっと叫んだのである。
 そこは、じつに珍しい石灰岩奇形地《カレンフェルド》である。熱帯多雨のために溶解した石灰分が、その傾斜に複雑多岐な孔をうがっている。それは、見方によれば、巨大な蜘妹《くも》の巣か。それとも、珊瑚《さんご》か海綿などの腔腸《こうちょう》動物が、無数の孔をのこした死骸を横たえているように思われる。ましてそこは、いまも落ちそうな危《あやう》さで、地上を支えている。むろん、踏めば惨胆たる落盤であろうが。
 土人に訊くと、この辺は濃霧《ガス》の晴れ間がないという。そしてここが白骸渓《ヤト・バイ・バイ》という怖ろしいところで、ここから先は行ったものがないというのだ――。

 その通りである。踏めば、どこまで落ちるか分らない、石灰岩奇形地《カレンフエルド》の白骸渓。そこを通れぬかぎり酔香霧のただよう香靉谷《ヤト・ジャン》へは絶対にゆけぬのである。しかし、そこには、伽羅がある。バーラプのモイには生命にもひとしい、伽羅樹の樹脂が複郁とかおっているのだ。
「行きたいねえ、そこへ」とデイが溜らなくなったように言った。いま、活路といえば伽羅をもとめる――それ以外にはなんの術《すべ》もない。このままでは痩せるばかりと思うと、若いデイの血がかっと煮えてきたのだ。
「うん、なんとかして行かぬことには……」
 とラオ・バートも撫然《ぶぜん》と呟くのである。いま、生きようとする道は香靉谷《ヤト・ジャン》への一筋。しかし、しかし――と、やがて老爺の顔を絶望の色が覆うてゆく。
 そこへ、通りかかった留置人の一人から、なにやら、父娘《おやこ》の房ヘボンと抛《ほう》り込んだものがある。

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巨人対侫物
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「オーイ、巡査、氷水《アイス・ウオーター》はないかな」
 父娘《おやこ》がいるとなりの房で、一人の酔漢が大声を立てていた。それが、ちょっと暫くのあいだ止んでいたかと思うと、がちゃりと音がして、便所へ出されたよう。で、その男の帰りしなの時であるが……なにやら、父娘の房へそっと投げ入れられたのである。それを、機敏にもデイが膝の下へ掻い入れて、暫くして出すとどうも意外な品。デイは、また膝のしたへ入れて、せわしそうに呼吸《いき》付いている。
「お父っつぁん、百フランの紙幣が四、五十枚もあるんだよ。隣の人は、これを私たちに、なんで呉《く》れたんかしら……」                                                   
「恵んでくれたものなら、返すがええだ。まだ俺《おれ》たちは乞食じゃねえだから……」
「また、そんな痩せ我慢。でも、なんの理由《わけ》もなしに、呉れたでもないらしいよ。紙幣《さつ》の一枚に、四方《ぐるり》の白いとこだけに何か書いてあるの。私は、すこしフランス語は話せるけども、字は知らない。読めりゃ、なんだかこれが分るんだけど……」
 もしデイがフランス語を読めたとしたら、次の一文がはっきりと目に浸みたろう。また皆さんも、これには少々驚きを感ずるにちがいない。
[#ここから一字さげ]
 僕は、君らの同情者である。この金は天与のものとして、再び伽羅を得るまでの食料のために使ってもらいたい。なおもし、君らが活路を香靉谷《ヤト・ジャン》に求めようと言う時は……、僕の力を遠慮なく借りるがいい。その時は、サイゴン日本領事館へ、折竹といって訪ねること。
[#一字下げここまで]
折竹だった。いま彼自身は知らぬが、密偵サンチレールに追われ、ラン・ビァンの避暑地での運命を気遣われていた折竹が、意外や、密偵せまるというその危険な一夜を、パンラン警察の豚箱で明かしていたのだ。
 その日の午《ひる》、彼はパンランに出て安南王弟に会い、その憤懣《ふんまん》を聴き、指針を与えながら、大いに食い鯨《くじら》のごとくに飲んだのである。その帰り、梯子酒《はしござけ》の彼があちこちと寄ったことから、ついに路傍にぶっ倒れ、豚箱入りになった。――というのが、これまでの訳であるが。
 その数日後、石獅谷《ヤト・シムハ》の氾濫がおさまった翌日の夜である。パンランをながれるソソ・カイ川に連なっている小運河のうえを、籾舟《もみぶね》がながれている。その、櫂《かい》をあげ流れに任せているなかに、折竹をはじめ、三人の日本人がいる。その一人が、彼の顔を見入るようにして言った。
「では、男子死所を得るか」
「ゆく!」と折竹が沈痛な声でこたえた。
「いま、日本軍がいる広西省から、仏印の、東京《トンキン》、ラオスをとおってビルマまで……いずれは、非征服アジアを救ううつくしい血が流れてゆくだろう。俺は、その際の用意に、命令をうけている。北ラオスの雪南国境にちかい“Moungsing-Djenbienff”隘路《あいろ》以外の、新通路の発見。それに加えて、北部ラオスの秘密測量《シークレット・マッピング》」
「ふむ」とその二人は無言のまま領いた。身分はいわれないが、折竹と語るといえば、大体この二人がどんな人たちであるか、皆さんにも想像がつくと思われる。
 で、いま折竹がいった秘密測量――これほど栄《は》えない仕事、辛い仕事があるだろうか。まかり間違えば、官憲の手によって暗黙裡に葬られ、あるいは蛮土の一角に無名の死を遂げねばならない。しかし、これを欠いては国家の飛躍がない。発展の動向にあたる他国の領土へ入りこんで、ひそかに実測する自己犠牲者の労苦。頑忍《がんにん》、細智、機略、豪胆と……、あらゆる人間力を総動員し、そのうえ、国家観念試練の最高の道場として、いま折竹は死地へゆこうとしている。
「とにかく、問題は香靉谷《ヤト・ジャン》にある。でいま、地図をみると、こういうことが分るのだ。東京《トンキン》の“Sonla《ソンラ》”から隘路が迂廻《うかい》して、はとんど雲南国境に添い、ムーンシンへでる。仏印、ビルマ間の道は、これ以外にはない。しかしだよ、もしもあの未踏地が明かになれば、そこへ、ビルマへゆく最短線ができあがる。一朝有事の際は、電撃隊の通路――ということも、夢想ではないだろう」
「うん、カンボジアの米が内地米といわれたり、マニラの麻で日章旗をつなぐ――。そういう時が、かならず来るだろう。しかしだよ、重い三脚を背負ったり測量具を持ったりする、助手が一人要るように思うがね」
「それだ、いつぞや話したモイがくるのを、じつは待っている。伽羅樹がなくなって、暮しようがなくなったあの連中は、いま新土開拓の必死の意気に燃えている。おなじ香靉谷へ目的こそちがえ、俺と同様にかぶり付こうとしている」
「だが、いつ来るね」
「いつかは分らんが、かならず来るだろう。俺はそう信じて、出発を延ばしているんだ。
で、いま君が言ったサンチレールの問題だが……」
「ふむ、気を付けるがいい。あいつも、機略縦横のなかなかの人物だ。ラン・ビァンのホテルへ君を狙《ねら》っていたという情報が河内《ハノイ》から入っている。しかし、石獅谷《ヤト・シムハ》の水も退いたらしいよ、おそらく今夜あたりはパンランへ帰ってきたろう。おめおめ、君が退けをとるとは思わんが、なにしろ、相手はじぶんの国、君は敵地におる」
「気を付けよう」と、折竹はそれだけしか言わなかった。どこかで、水車がまわるもの懶《う》げな音がする。櫂《かい》をとると消えるとおい蛇皮線《ドン・タム》の音。竹林がつくっている地平線の影のむこうに、沙霧《ヘーズ》をとおして光る天狼星《シリウス》を見つめながら、早く、モイよ来いと、折竹はさけんでいた。ではその、バーラプのモイはどうなったろう。
 魔法医者《ウイツチ・ドクター》がくる太鼓の音が響いている。陽がたかいころの茨地の熱気。脂肉の熱帯植物が発散するむせ返るような匂い。いまデイは野生の薄荷《はつか》をとってきて、それを噛み噛み、一軒の家へはいってゆく。
「おや、頭の娘っ子が、また口説きに来ただな」
と、藁筵《わらむしろ》のうえから起きあがった若者が、目脂《めやに》のついた目を、瞬きながデイをみている。
「うん、ピンギイは男だもんな」
「やれ、また香靉谷《ヤト・ジャン》へゆけちゅうて、腰をぶっ殴《ぱた》きなさるんじゃろ。俺ァ、なんぼ男でも、恐いのは知っている。行きァ、どうなるか知っていて、行く気にゃなんねえだ」
 デイはいま、部落の大移住のことを、真剣に考えている。農耕もできず狩猟も上手でない。このバーラムのモイには伽羅あるのみだ。もし香靉谷へこの部落が大移動するとするならば、まず、魔境を切り拓《ひら》く道をつくらねばならない。そしてそれには、開拓者の意気と救族の熱情に燃えている、一人の若い健気《けなげ》な血が必要だが。……いくら説き廻っても相手にされず、しかし、デイはめげずに続けている。
「私は、ピンギイこそ、モイ中のモイと思っているよ。他のは、なんぼ行けちゅうたところで、行く男衆ではねえで。一つ、ピンギイが先立ちになっておくれ。この部落が生死のときに、香靉谷《ヤト・ジャン》へゆくのが、なぜ嫌だ?」
「おんや、白ばっくれて、なに言いくさるだ⁈」
「怖えか、汝は?」
「なんて、目をするだ。おらばかり、怒りくさるだが、一帯ではねえか。誰がいるだ⁈バーラプの男のなかで、誰がゆくだ」
 事実はピンギイの言うとおりであった。ジャングル種族がジャングルを怖れるといえば逆説のように聴えるが、永年伽羅のため懶惰《らんだ》になったこのモイには、新土開発などという、そんな勇気はない。まして、郷土を離れることを極度に嫌うという、土民通例のものが、やはり此処にもある。
「そうけえ」と、デイは切なそうな息をした。
「では、ピンギイは私のお婿にはなれないね。私のすべてがお前のものになる時は香靉谷からピンギイが帰ったときだよ」
「駄目、駄目」とピンギイは相手にもしない。
「そんな色目を使っても、わしは行かねえだから……。オッ死んでしまってから、お婿になったって、どうもハア、身も蓋《ふた》もねえだ」
 やはり、駄目――と、デイは失望して此処をでた。きのうの大雨で死んだ白蟻の屍が、骨にしみいるような腐敗臭を放っている。こんなになる、今にこんなになるぞ――と、デイは部落の男衆をひっ括《くる》めて、呪っていた。意気地なし、気が付いたときは、もう遅いだぞ。腹を減らして、野垂れ死しようと、もう俺ア、なにも知らねえだ。と、絶望の間にもむくむくと盛りあがってくる、ある一つのことが、くきりと囁いてきた。
「デイや、いま山廻りの役人衆がお見えになったで、わしィ、あの紙幣《さつ》の字を読んでもろうたぞ」
 帰ると、父親のラオ・バートが待ちかねたように言った。
「なんて、言ってただ」
「それがな、あんじょう妙なことでな。どうも、わしには合点がいかんのだ。マア、わしが言うから、聴いてみてくれ。
 ――俺は、日本人だで気前がええだから、乞食にくれるつもりで、お前らに金をやる。また、里へ出たときは、俺のとこへ来るがよい。サイゴンの、日本領事館の折竹。
 と、役人衆はこう言いなさるんだ。それで、お二人ともゲラゲラと笑うてな、とにかく、この紙幣《さつ》は貰うておく。代りをやるから、ええじゃろうちゅうて、あれはお取り上げになってしもうたよ。だが、どうも儂《わし》がみたところ、噓を吐《つ》いているだ」
「そうらしい、私たちに字が読めないと思って……。だけど、その折竹という人の名だけが、本当だといいね。あたし、なんだか頼れる人のように思うよ。ねえお父、あたし、いよいよ決心した」
「なにをだ?」
「香靉谷《ヤト・ジャン》へ、あたしが行くよ」
「滅相もねえ。女だてらに、なにを言いくさる。さては、お父を捨てようというには、里の男でも出来たのか」
 が、とうとうデイはラオ・バートを説き伏せてしまったのである。新月がほそい銀の隈をつけて、山径を照していた。風はゆるやかに動いて、凄涼《せいりょう》の巒気《らんき》身にしみるとき……デイは父にわかれて、独りパンランへ向ったのである。つらい、その別れよりも部落を救いたい、そして、折竹というその人がサイゴンにいるということが、父に噓を読んだなかで唯一の真実であれ。デイは、それのみを念じ、祈りつつ歩いていた。
 すると、それから二週間ほど経った夜、いま着いたばかりの営林官が、サンチレールと会っている。輿《こし》でパーラプを下ったその官吏よりも、デイのほうが五日以上も早かった。それが、サンチレールに察せられたらしく、
「じっはね、いま折竹のところに、妙な娘がいるんです。察するところ、それがパーラプ・モイの酋長の娘、デイという奴でしょう。すると、父親のラオ・バートに貴方《あなた》がたが嘘を読んだということが、奴らには分っている訳ですな。ふうむ、奴らが香靉谷《ヤト・ジャン》ゆく……」
「左様、紙幣《さつ》に書いたなかに、そうあったですから。で、私も折竹という男の危険性を知っていますで、これでも、輿を急がせて、大急ぎできたんです」
「では、山娘の足に負けたわけですね。勝てばよかったが、負けたんじゃ仕様がない。向うも、この競争に勝ったばかりに、警戒するでしょうし……。いや、当分は掛っておきましょう」
「なんでです⁈」と、営林官が二人とも驚いたが、
「つまりですよ、奴らはカンボジアを通っで、タイへ入るでしょう。それから、タイのチェンカンあたりから、フウ川に沿うて、北ラオスの山嶽地帯に潜入する。だいたい、道筋はこんなものより外にない。するとです。わしの仕事というのは、開けたカンボジアよりも、かえって、蛮族剽盗出没する泰《タイ》ラ境のほうがいい。その意味は、お分りだろうと思います」
 そう言いながら、サンチレールはうつらうつらと目を閉じている。こういう時が、この男のいちばん危険な時期。その、泰ラ国境でどう折竹を扱うか、唯一の道筋に陥穽《かんせい》をしつらえて、これまで、ありとあらゆる秘密測量者が出逢った運命とおなじものを、折竹にも与えようとするのであろうか……。一方、折竹もデイをば連れて、重い測量具を背負い、サイゴンを発ったのである。しかしタイまでは、領事館員を同伴で、何事もなかったけれど……。
 その、泰ラ国境のチェンカンの町は、一歩出外れたら嶽盗《がくぞく》の巣である。兇暴な蛮族のまえには、国境もなにもなく、泰ラ双方に住んでいて、さかんに掠奪《りゃくだつ》をやる。したがって、ここにはタイ軍の守備隊がある。また、連日血のかわく間もない銃殺場もある。そこは、野象の糞があちこちに盛りあがり、素馨《そけい》は咲けど、血腥《ちなまぐさ》さは覆い得ない。
 いま、チェンカンの町を望みながら騾上《らじょう》の人となっている二人に、口取りの老人がしきりと話しかけてくる。
「ホウ、お前さま方は、クナプサクをご存知かね。あれは、ハア、えれえ泥坊だよ。耶蘇《やそ》が嫌いで、教会を焼くし……なんしろこの辺切っての大親分でがす」
 その、クナプサクという嶽賊の首領が、いま基督教的半植民地《クリスチャン・セツツルメント》をめざしてこの辺にまで進出してきている牧師や町役人などを、顫《ふる》えあがらせているのだ。まだ若く、艶々《つやつや》として、蛮族にはめずらしい房々とした髯《ひげ》。髭髯《しぜん》というものが人種的にも考えられぬこの辺では、たしかに驚異である。しかも、神出鬼没、白昼屯所をおそい、牧師を罵り警告をさけぶところは、どうして、文字の素養さえも窺われる。
 快隼《かいしゆん》、賊というよりも変革者であろう。しかも、貧民にはめぐみ王家をうやまい、なにより、基督教侵略の害毒から土民を救おうとする――牧師の大敵だったのである。
 折竹とデイは、チュンカンの町外れに立って、国境をのぞんでいた。空がかすんで鈍いひかりが、千の丘といわれるこの辺りをつつみはじめる。突風が、山|襞《ひだ》から山襞へごうごうと谺《こだま》し、密林は山腹から谿へかけて穂波のように薙《な》がれてゆく。彼は、根樹《ガツマル》の樹上でふうっと吐息をした。
 いよいよ、これまでの平穏な旅がおわり、じつに一歩一歩が百里にもひとしい、密偵網中の難行がはじまるのである。生還は期せず、というが自信はなく……また、生きて帰らねば秘密測量の成果はない。が、そのころ、国境一つ向うのパクライ、ラオス領内ではいたるところの辻々に、次のような布告が貼られていたのである。
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 この者は、ラオス領内の某地点に秘密測量を計画し、いまや潜入せんとする危険極まりなきものなり。さるによって、彼を見かけたることを報じたるもの、もしくは、生死を問わず、捕えたるものには、その事績に応じ、賞金を支払うべし。
   パクライ警察分遣所《ポスト・ド・シュルヴェヤンス》にて……ラウール・ド・サンチレール。
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国境突破の夜
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「見ろよ。いまに引っかかって、吠《ほ》え面をかくからな。石獅谷《ヤト・シムハ》の氾濫で仕損じた腹癒《はらい》せを、今度はあの南進野郎にたっぷりと食わしてやる」と、大魚よ来れ――と待つサンチレールの微笑《ほほえ》みは、じつに残忍なる漁師のそれだろう。しかし、一方折竹らも国境線の厳戒を、不審に思うのか、なかなか動かない。こうして嵐のまえの静寂というか、粘っこい無風状態が、国境線を覆い数週のあいだ続いたのである。
 しかし、サンチレールも一流の謀士だ。まい日、タイ領へゆく紫檀《チャック》の仲買に言いつけて、警備の手薄の点はこれこれと、触れさしたのである。と、その効果|覿面《てきめん》というか。あくる日、彼のもとに達した密偵からの報告に、いよいよ折竹、行動を起す――とあったのだ。
「馬鹿め、灯火に飛びこむ蛾《が》の運命とも知らず……」
と、さすがフランス人だけに台辞《せりふ》もどきでサンチレールが、パクライの本部を出て、その地点に急行した。すると、その途中の山径に大変なものが待っていたのである。
 それは、傾斜を覆うている銀色の松楊のあいだに、ちらほら彩点をちらつかせて一隊の人馬が近づいてくる。その、また先頭が美々しい服装《なり》の男。
 金色の縁取りのある上衣のうえに、真紅の目ざめるばかりな半袍をまとっている。そして、豹皮《ひょうひ》をつづった鞍《くら》覆いにまたがり、一行の前方にぴたりと馬をとどめた。不敵にも、銃もなにもてんで目にいらぬらしい。
 すると、髭《ひげ》だ髭だという声がざわめきとなって、隊中を騒然とながれはじめる。髭、すなわち大盗クナプサクである。
「待て、発砲はならん」
 と、いきりたつ部下をサンチレールは押しとどめ、
「みれば、わずか二十名足らずだ。その賊に、五十の警吏が狼狽《ろうばい》したとあっては……タイ領への聴えもある。よいか、合図のあるまで発砲はならんぞ」
 そうして、一人隊をはなれ前方へあるいてゆく。すると、クナプサクが右手をあげ、親指をたてて尊崇の意思表示をする。はじめて、音にきく悍盗《かんとう》クナプサクを、彼は二十メートルほど前方にみたのである。
 髭で、老けてみえるがまだまだ壮齢だ。剽悍《ひょうかん》、雹《ひょう》にうたれ朔風《さくふう》に削《こ》けたなかにも、凛《りん》とした気品さえ感ずる。そのうえ、胸には安南の王族章“Ba-Ngai《バガイ》”とおなじきものを着け、眼中王なく国境もなき彼は、この山地の無冠の王であったのだ。
「安南に名だかいサンチレールどのであると察するが」
 と、それがクナプサクの第一声。
「わたくしは、はじめて見参申すクナプサクです。悪者の常で里にはおりませぬ。また、山霊に愛でられてか、いまだ捕われもせぬ」
 しかし、サンチレールは小首を傾げて考えた。この嶽盗がなぜ馴れ馴れしく、いわば仇敵ともいうじぶんに接近してくるのか――それが彼にはどうしても分らなかったのだ。
「では、なんだ?君は、本隊に捕まりたくて、やって来たのかね」
「ハッハッハッハ」とクナプサクがいきなり哄笑《たかわら》いをはじめた。
「貴方がたのような、百なしどもを追い剥いで、なにになりましょう。じつは一人、あなたにお目にかけたい者がいるが……」
 といって、鞍のしたを指さすと鞍覆いのかげに、結いつけられた女らしい顔がみえる。縄は肌ふかく無残にも食い入っていて、ぐたりとその娘は人心地もないのである。とたんに、「デイ」と、サンチレールは目を剥《む》いたのである。デイだ、デイがいまクナプサクに捕らえられている。では、折竹はどうなっているのか。訊こうとするのを、クナプサクはおさえ、
「これは、私がしたことの内容の一端を、ちょっぴりお洩らしするだけの見本にすぎません。あなたが目がける大物のほうは……」と、彼が意味ありげに笑うのだ。
 落胆《がっかり》した。せっかく、じぶんの手でと思ったのに横槍《よこやり》が出て……では、折竹はいまクナプサクに捕まっている。ううむ、さては功名を横獲られたわいと、さすがサンチレールも唸《うな》らずにはいられない。が折竹――。ここは壮士、泰ラ国境に散らんとす。雄途むなしく嶽盗の手に落ちて、まさにサンチレールに売り渡されようとする情けなさ。
 やがて,二人のあいだに商談がはじまった。が、それは最初もの欲し顔をみせたサンチレールの負。さんざん愚図られて莫大な額になりおまけに,引き渡す場所もクナプサクの言うとおり,国境線にちかいラオス領にある、いまは空小屋の屯所を使うことになったのだ。こうして,警吏対嶽盗の紳士協定が成り,いよいよ折竹には最後の日が近づいた。
 その夜、サンチレールは得々顔で、約束の時間にその小屋に赴いた。クナプサクはいた。彼は,部下も連れず一人で酒をあおっている。雲の低い,真っ暗な夜。そのひどい湿気のなかへ、茴香《ういきょう》がにおってくる。
「オヤッ、一人かね。どうした玉は?」
「いま来ます。マア,酒でものんで、ゆっくり待ちましょう」
 やがて、人馬の響きが,この小屋に近付いてきた。馬を鎮める声や,拍車の音。来たかと思うと自然と頬がゆるぐ。勝利の微笑を禁じ得ぬサンチレール。と、やがて扉《ドア》があいた、数瞬後のことである。入ってきたのを見れば,なんたる意外ぞ。折竹とデイをかついだクナプサクの部下と思いきや,これは雪崩《なだ》れこむ一隊のタイ兵。アッと、サンチレールは衝きあげられたように立ちあがった。
「ううむ、タイ兵がなんのための出現だ?」
 と、しばらくは呆れたように、唸っている。折竹とデイがいぬことよりも、一国の正規兵が国境を犯すとは何事であろうと考えるが、また今、そんなことで紛争を起しては、やがて着くだろうクナプサクの手下と、このタイ兵どもがどうもつれるかも分らぬ。と、クナプサクをみればタイ兵に背をむけて、顔を隠すようにし、チビリチビリとやっている。これだ、早くタイ兵を追っ払わねば事面倒になる。
 と、サンチレールは瞬間に腹をきめ、タイ兵にむかって、穏かに言った。
「君らは、暗いので道に迷ったのだろう。ここは、ラオス領であり、屯所であった場所である。むろん、君らの誤ちを追求して国境侵犯を云々《うんぬん》することは、この場合、いと安易《やす》いことだ。しかし儂《わし》は、そのような法律の化物ではない。たぶん、君らの誤ちだろうから、胸三寸におさめる。行きたまえ。これが、儂でなければとんだことになるんだぞ」
 そのあいだも、全身を耳にして戸外の響きに気をくばり、タイ兵の退散後にクナプサクの部下よ早く来い、と、念ずるようなサンチレールの前へ、タイ兵の隊長がのっしのっしと進み寄ってきた。これは縦よりも横幅がひろく、顔もタイ人らしくのっぺらと光っている。が、出る言葉はおそろしく辛辣だ。
「お訊き申すがね。いまご貴殿は国境侵犯といわれたが、それは、わしらにいうのか、ご自身にいうのか。まず、その差別《けじめ》をきっぱりと付けてもらおう」
「ふむ、絡《から》んできたな」
 と、サンチレールの顔にちょっと怒気がのぞいたが、思えばこれは、大事のまえの一小事にすぎぬ。いまは、折竹を得るため万全を期さねばならず、万事、隠忍、隠忍でご退散をねがおうと、サンチレールがやっと顔の紐《ひも》を解いた時、タイ軍の隊長がまたも不思議なことを言う。
「ご貴殿の顔には、なんのタイ国ごときがという軽蔑《けいべつ》の色が見えておる。ではしからば、大国のフランス共和国が小国のタイに対し、国境侵犯すとも構わんという、理窟であるかな」
「ちがうではないか。国境侵犯は君らのほうだ」
「マア、お聴きなさい。それは、この小屋がラオス領にあると思うからだ。ところが、今夜この小屋がひとりでに国境を越えて、ふらふら浮かれたように、タイ領へ移ってきた。そりや、この小屋がひとりでに動いたのか、それとも、人手によって動かされたのかは、分らん。がとにかく、これはいまタイ領にある」
瞬間、やられた――と、サンチレールは苦汁三斗を嚥《の》む思い。さては、暗夜で気付かなかったと見える。一キロ動かせばタイ領であるうえに、ここは一本道で目標もなにもない。と、分ったのもやや暫しの後。いまじぶんが引かれる身であるということも、なんだかまだ夢のようにさえ思われる。そこへ、丸い大将と、クナプサクがにやりとし、
「そんなに、俺の顔を悦んだって、おれの所為《せい》じゃないぞ。白人が威張る仏印よりもタイがいいってんで、この小屋様がひとりでに動いてくれたのさ。マア、裁判がきまるまでタイ米でも食って、暑いことだがゆっくりご逗留を願いましょう。どれ、これからお客さまを送ろうか」
 翌暁、悍盗クナプサクの助力で国境線を越えることができた折竹とデイは、奥地へと向ったのである。これは、親日クナプサクを見込んだ折竹の謀略で、まんまとサンチレールが、してやられることになったのだ。二人と、クナプサクはプウ・ビアで別れた。
「お礼ですって⁈なにもあなたにお礼を言われることはありませんよ。いずれ、お国のご厄介にわしらはなるのですから」
 と、にぎった折竹の手をやんわりと振りはどき、クナプサクの一隊は、もと来た路をかえってゆく。いま、茜《あかね》色に染んだ尾根伝いの山道を、点々とつらなる騎馬隊が消えてゆく。
「ご苦労だったよ。君も、馬の腹の下にいるときは、辛《つら》かっただろうが」
「ええ、でも、お父《とう》や部落のもんを思えば、何でもないですよ。これで、私たちは国境を越えました。でも、まだこれが戸端口《とばぐち》だと思うと……」
「しっかりして!」と折竹がデイを励まして、ほそい山径伝いに、プウ・ビアの中腹《はら》をあるいてゆく。
「君は、伽羅の新土を、その手に握る。バーラプのモイは、それで呼吸《いき》をふき返す。どんなことにもめげない堅忍不抜の精神が、君になくては開拓者にはなれん。サア、ゆこう。モイの籾《もみ》つき唄でもうたって、元気を出せよ」
「ええ、あたし、からだは疲れませんが、気疲れがしたんです。こんな道は、モイにとりゃ、散歩道みたいなもんですよ」
 やがて、ジャングル、峻瞼入りまじる世界的悪気候地の、北ラオスの山地をウー河伝いに分けいってゆく。そこは、一万尺たらずの。“Pou Bia《プウ・ビア》”をはじめ、“Pou Lei Lang《プウ・レイ・ラン》”をかしらにした九千尺級の峰々が、中腹《はら》に密林をまき、数十座も立ちならんでいる。しかも、世界に名だたる大多雨林《だいレイン・フォレスト》。四月から七月までは猛烈な雨。たちまち溢《あふ》れる渓流は大河のごとくなり、低部の密林は水中に没してしまうのだ。もちろん雨期には絶対にゆけるわけはない。
 で、折竹は乾期をえらび、やや低温の正月跨《また》ぎのあいだに、全コースを踏破せんと試みた。が、乾期にも香靉谷《ヤト・ジャン》を中心とするこの北ラオスの山地は戦傑的な土地である。

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奏でる雷鳴
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 もし皆さんが、タイのバンコックからハノイへゆこうとして、エール・フランス航空会社の旅客機に乗ったとしよう。すると、泰《タイ》ラ国境のヴィアンチャンまではいいが、そこから安南《あんなん》のヴィンまでの空が、じつに荒涼無限たる雲上飛行であるのを知るだろう。あとで、空港《エアポート》のサロンで操縦士《パイロット》に訊けば、おそらく彼はこう言うにちがいない。
「僕は、この会社に七年もいますが、ヴィアンチャン、ヴィン間の空から峡間を見たということは、まだ一度もないというくらいです。雨期も乾期も、北ラオスを覆う雲はかわりません。で、われわれは、無雷指示局《ビーコン》にたより、計器飛行をします。しかしです。もしこれが商業機ではなく、ここへ侵入してくる爆弾機だとしたら、どうでしょう⁈未知の地であり、猛烈な悪気流。なんぼ、スペリー式の盲目飛行《ブラインド・フライト》器具はあっても……やはり操縦士としては、地物をのぞみたい。そこで、目当になるのが山頂列《ピーク・ストリーマー》――。雲海を貫いている峰々のかたちが、そうした場合なによりの助けです」
 それを知る、あるいは知らぬでは、たいへんな相異になる。近代の秘密測量は地上のみならず、そういう空中からの目標になる地物のかたちに、いろいろカメラの角度《アングル》を変え、正確を期さねばならぬのだ。もちろん、折竹の任務にもそれがあることはいうまでもない。
 ところで、その北ラオスを覆う大雲層のしたは……。
 頭上の雲のため日射の熱が放散せず、蒸気は湯気のごとくジャングルにたち罩《こ》め、雨靄《もや》梢に垂れるという大湿熱界である。そこへ、紫檀《チャック》や、加麻刺《カマーラ》や、扇椰子《ファン・バーム》などの大樹が、仏印特有の巨藤にからめられ、まさに自然界の驚異ともいう大障壁をなしている。しかも、乾期とはいえ、ひっきりなしの大雷雨。堆葉がくさった、沢地のような下の土。この大湿林のなかは到底ゆけたものではないのである。
「先生、この防蚊ヴェールを除るのは、何時でしょう」
 と、口にはださないが、山娘のデイも、時々目をうるませて、折竹に訴える。
 蛮地そだちのデイが喘《あえ》ぎだしたように、顔には紗布《しゃふ》のついた面覆い《ヘッド・ネット》をつけ、帆布《キャンバス》の手袋に厚地の靴下。皮をなん枚剥いでも堪えられぬこの暑さのなかで、この厚着は思うだに慄《ぞ》っとなる。しかし、こうしてマラリアを避けねばならず、といって、じわりじわりとくる熱射病的症状に、もう二人は堪えられそうにもなかったのである。
 下痢、瘴癘《しょうれい》の気といわれる熱帯性疲労。経緯儀《セオドライト》をのぞくが、視力に自信がない。しかし時偶《ときたま》、蚊を食う川狗《かわせみ》がいる渓流へでると、そこで防蚊ヴェールをとり、やっと外気を吸う。と、ぷうんと鼻にくる蘆薈《ウデイ》のにおい、目を刺すようなまっ赤な赤液樹《ダーク》の樹脂。見るもすがすがしい素馨の白花があると思えば、色もかたちも糞塊さながらな魚腥草《ひめふうろ》の花粉がどろっと顔に落ちてくる。すべて、快も不快も色もにおいも、この大湿林では渾然と蒸れている。
 そうして、ただ気力のみで押しとおす密林行、二月後、よく保ったと思われる肉体に鞭うちながら、疲憊《ひはい》、漂徨《ひょうこう》のうちにも測板を組み、測高器をのぞいてあくまで任務をわすれない……。ここら辺りは、さすが折竹。
 と、その辺りから、雨靄はいよいよ濃く、ますます立ち罩めてくる。しかも、それまであったいろいろな樹木は消え、ただ巨竹《バンブー》、巨竹《バンブー》の世界――。
 真竹、孟宗などが異常生育をし、さながらギリシアの廃墟における大円柱のようになったのが、樹間せましと他樹を圧しつつ、いよいよ暗くて涯《はて》もないこのジャングルに、最後の植物界をつくっているのだった。
 一晩のうちに這《は》いだした根で、眠った豹《ひょう》がうごけなく白骨になったのもあり、またとつぜんの降雨にすべり落ちた錦蛇《ピトン》が、麻竹の辣《とげ》に串ざしになったのもいる。が、それにもましてこの暗さの気味わるさ。――固形アルコホルトの火も、二、三間でみえなくなる。
 普通気象学でいう濃霧というやつは、はぼ見透し距離五十ヤードが原則である。が、これは、二十はおろか、十ヤードも危い。これではと、折竹も途方に暮れたところへ、とつぜんデイが前方の地上を指して、
「あっ、あれ、何でしょう⁈まっ自な蛇が固まったみたいな……」
 わずかな風が雨靄《もや》の崩壊《ほうかい》をおこしたその際に、まるで昔|噺《ばなし》にある土|蜘蜂《ぐも》の巣のようなものが、ちらっと見えたと思うとまた隠れてしまうのである。とたんに、いよいよこれは白骸溪《ヤト・バイ・ハイ》へ来たと思った。
 ジョルジュ・マリー・ハールト氏が言ったことは、さすが嘘《うそ》ではない。石灰分への滲透《しんとう》は、地下なら鍾乳洞。地表は、いま白骸渓にみるごとく無数の孔条で、さながら海綿のようになる石灰岩奇形地《カレンフエルド》が出来あがる。しかも、多雨区のここは風化作用が強烈で、たぶん触れても崩れるような脆弱地になっているだろう。と、数万の白蛇がのたくるような目前の地をながめながら、彼は天を仰いで長嘆の息を吐いたのだ。
「駄目だ。踏めばただ、崩れるばかりだろう。せっかく、ここまで来て、行き詰まってしまうなんて……」
 左右の山峡は、ますます樹間がせばまり踏み入る余地もないところで、唯一の進路である前方の自骸渓が、こんなようでは前進どころではない。絶望が夜とともに次第に濃くなってくる。はり詰めた気が一時にぬけ去って、もう戻るもならず、ぐったりとなってしまった。
 それからも、ただ時は過ぎるが、懊悩《おうのう》と焦慮のみ。踏めばズルズルもぐる泥沼か流沙のような、この白骸渓はいかんともなし難い。だんだん、彼の目にひかりが失せてくる。気だけで保っていたのがガックリとなると、ただ思うのは二人の死の姿。いまは、止まるも死。戻るも死。気力盛んなればこそ此処まで来たのだが、もうこの衰弱に気落ちが加わっては……。
 とそこへ、デイの力のない声で、
「先生、もうあたしたち、駄目だと思います」
「ふむ、どうも俺にも成算がないからな」
 と、今はもう正直に言うほかはない。
「しかしデイや、ここで僕らが死んでも犬死ではないということを、はっきり頭のなかに止めておいて貰いたいね。これは、どんな時代にもある先駆者の運命だ。誰でも、ある場合、甘受せにゃならんことだ」
 といって、なにやら目のまえの土に指で書くのをみれば、「人は死に、新土はうまれる」……。それを聴かされるとちょっと不服のように、……しかもデイは悲しげに言う。
「それはね。先生のお国のような、国柄ならいいでしょう。まるで、最初の芽を摘んだ草みたいなもんで、後から後からといろんな人が出てくるでしょう。だけど、あたしたちのモイは駄目です。そういう点では、犬死もおなじです」
 お父の顔、じぶんが帰らねば乞食のようになる部落のもの。もう、絶望ときまるとデイの目のまえに、懐しい顔やら、いろいろなものが泛《うか》んでくる。彼女は、筋のつくほどギュッと唇を嚙み、こみ溢れてくるものを洩すまいと、耐えている。と、間もなく、目を宙にゆすりながら、ちがった人のような声で、
「先生、あたし、恋をしました」と言った。
「誰だね。君が惚れたのなら、さぞ立派な男だろう」
「ええ、その人には誰でも惚れますわ。上は女王から下はあたしたちまで、一目でもう惚れてしまうような方です」
 そう言うと、デイは焚火《たきび》のむこうへ隠れるように転がった。伽羅の新土の手前で死なねばならぬ悲しみと、なんだか意味は分らぬが、異常な歓喜とをまじえ、パチパチはぜる陰からじっと折竹をながめている。が、その目も、使命を思えばもう一度となってくる彼には悟ることが出来なかったのだ。
 なんとかして、任務を全うするためには生きなければならぬ。その生きることとは、白骸渓を越えること、秘密測量者には生還を期せずという言葉は、悲壮のようであるが、大の禁物だ。と、いまは気落ちと憔悴《しょうすい》とで動けないような身体から、まるで魂魄《こんぱく》のように図体を抜け出ても、立ちあがろうとする生命力の迸《ほと》ばしり。しかし、駄目。万策尽きて、泥のような困眠へ……。
 すると、その過度の思考が禍いであったか、ここに折竹は幻聴をみるようになったのだ。まず、肉体よりも先に脳が死のうとする。いよいよ彼は最後の段階へ。
 その夜、暁がた近くに大雷雨がきた。
 拳はどの雹《ひょう》、濃霧《ガス》層をつらぬくまっ赤な稲妻。谿はごうごうと鳴り耳を聾《ろう》せんばかりだ。すると、雹が落ちはじめたころ、彼は、頭上の空に不思議な音を聴いたのである。それは、たしかに彼の幻聴であろう。数千の木琴《シロフオン》を一時に叩くような、澄んだ、膨《ふく》らみのある、転ぶような楽音が、世にも妖しい調べをかなで、雷鳴のなかで聴えていた。
 と翌朝、おなじことをデイが言いだした。ゆうべ、雷鳴のなかでしたあの椅麗な音は――−と、言うのだからいよいよ幻聴ではない。楽音、真実奇しくも中空の音楽と、彼も唖然となってしまった。
「奏でる雷。そんなものが、この世にあるもんか。ひょっとすると香靉谷《ヤト・ジャン》の酔香霧がここまで匂ってきて、じぶんははや、あの魔境の囚虜《とりこ》になったのではないか。魔夢だ。香靉谷《ヤト・ジャン》のおそろしい力だ」
 と、なかば夢みるごとく、なかば怖ろしく、いまは魔境の妖気を否定しようにもないところへ……、この美しい楽音雷の幻想が、ふと、彼の理性によって破られた。雹が降る、と頭上の空から木琴のような音が、聴えてくる。はて、雹がたたく何物かが、雨靄《もや》にかくれて空中にあるのではないか。
 明くる日、彼はデイに決意をうち明けた。
 大探検家の資格には、高度の科学性、鋼鉄の意志が必要だ。と同時に、芸術家らしい感受性もなければならない。むかし、南アフリカでリビングストソ博士が、霧が鳴るだよ――といった土人の片言から、かの超巨人的瀑布ビクトリア滝を発見した。それが、いま後輩の折竹にどんな形で現われるだろう⁈
「君の部落にも、乾いた木片を叩くと澄んだ音がでる楽器があるだろう。その理屈が、ゆうべ聴いた音に、ぴったりするような気がするよ。ねえ、ゆうべの雨靄のなかには想像もつかぬような、巨きな竹群《たけ》があると思うんだ。むろん、なかには枯れたのもある。それを、雹が叩いた音が昨夜のではないか。とマア、僕はそんなように考えている。つまり、いまは仏典以外にはない想像界の大巨竹《だいバンブー》――あれは迦枳竹《カキちく》というやつだろう」
 邪正品《じゃせいぽん》の註に、迦枳竹《カキちく》虚空にありて、黙然と住す――とあるが、そんなことは、みなディには訳もわからぬことばかり。ただ、折竹のいうのを、ポカンと聴いている。
「とすると、あの石灰岩奇形地《カレンフェルド》がその根のように思われる。ひどい濃霧《ガス》で正確にみえぬため、ハールト君はじめ、僕までが間違えた。ゆこう。どうせ死ぬならば、進んでから死のう」
 路がひらけた。やはり、迦枳竹《カキちく》の露出根《エキスポーズド・ルーツ》である。万の樹齢あるやもしれぬこの竹群の根のしたは、さながら無数の蛸《たこ》が肢足を垂らしているかのよう……。錯綜《さくそう》、瘤とむすばれ絡み合うなかをかい潜り、やっと白骸渓を抜けでることが出来たのだ。
 艱苦《かんく》四月ののちに、遂に決勝点《ゴール》へ。二人は、生気をもどし、香靉谷《ヤト・ジャン》へと近付いてゆく。
「やれやれ、これでデイには伽羅の新土。この健気な娘が、開拓者になれる。俺には、仏印政府以外にはどこにもない、香靉谷《ヤト・ジャン》をめぐる山頂列《ピーク・ストリーマー》の写真――」
 とまさに完成されんとするじぶんの任務のことも、だんだん香靉谷《ヤト・ジャン》へ近付くにつれ、消えゆくかに忘れてゆく。最初は、十マイルあたりから匂いだしてきた伽羅の気に、恍《う》っとりとなったのもほんの暫し。しだいに濃くなる酔香霧に没すれば、もう折竹は鉄人の彼でなく、あわれ、魔境の奴隷にすぎなくなってしまうのだ。強烈な匂いによる放心状態を、たぶん皆さんもご存知であろうと思われる。
 こうして彼は、任務をわすれ、人の世をわすれ……。香靉谷を征服し、征服されることになったのだ。
 そんなわけで、彼もそれからの事をあまりハッキリ憶えていない。ただ、伽羅はかおり沈香はにおい、数千の伽羅樹《グール》のあいだを葉がくれの陽のように、ちらつく仏印の稀鳥「冠青鸞《かんむりらん》」や……小孔雀の舞い、宝玉のその衣裳。
 二人はその仙境で半覚《うつつ》のように暮していた。いや、半覚《うつつ》というよりも、白痴《ばか》といおう。熱気と、あまりにも濃い伽羅のにおいのため、脳力はしびれ感覚は失せ、いまは阿呆か酔いどれのような有様だ。しかしその間も、折竹だけは心の奥底になんだか、気になってならぬしこり[#しこりに傍点]のようなものがある気がする。
「デイ、なんだか俺は、忘れたものがあるような気がするよ」
「サア、なんでしょう。ゆうべも、そんな事を言うもんだから、考えてみたんだけど……」
 このまま行くと、二人はこの魔境の永遠の捕虜にならねばならない。とやがて、はからずこの魔香から遁《のが》れる機会がやってきた。それは、たぶん気圧の配置が変ったためであろうが、それまで濃く立ち罩《こ》めていた雨靄《もや》がゆらいだ。その隙に、ほそい暈《かさ》をつけた新月の光りとともに、かつて彼が片時も忘れ得なかったこの香靉谷《ヤト・ジャン》をめぐる山頂列《ピーク・ストリーマー》――。靄の夜空に凄涼の山気ふりまき、黒い稜線からたつ突兀《とつこつ》たる銀の角。
 あっ、見えた。とたんに一道の冷光をサッと浴びたような気がした。祖国の目、彼の行手に絶えず注がれている、一億の目の凝視をみる心地。
 醒めた――。山頂列《ピーク・ストリーマー》に聴く、祖国の呼び声だ……。
 しかも、天祐《てんゆう》はなおも続いた。翌朝まで、空の状態が同じだったということは、まった
く百年に一度もないことだ。そのため、彼は撮影を完了し、使命をはたしたことを神々に感謝した。かくて、魔香みなぎる、ここは猛鷲《もうしゅう》の道しるべ。また、パーラプのモイの新しき土に……。


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Last-modified: 2010-09-20 (月) 13:51:42