塩梅

  • 『春秋左氏伝』の成立は戦国時代(紀元前四〇三−三二)だが、その昭公二十年の項
    に「塩梅」のことが見える。
      斉の景公(在位、紀元前五四七−四九〇)が狩猟をすませて休んでいると、梁丘拠(りようきゆうしよ)という寵臣が馬車をとばして迎えにきた。景公がそれを見て、
    「わたしと気が合うのは梁丘拠だけだ」
    いうと、傍らにいた宰相の鼻平仲(あんへいちゅう)が、
    「梁丘拠はわが君に気を合わせているのです。それを、気が合うとお思いになってはい
    けません」
     と諌め、そして、合うと合わせるとの違いを美の調味を例にして次のようにいった。
    「彙(あつもの)を作るときには、水・火・酢・味噌・塩梅などを使って魚肉や獣肉をいため、煮て味かげんをよくし、甘さや辛さをととのえて、足りないところは増し、過ぎたところは減らします。そうしてこそはじめて口に合う彙ができるのです。君臣のあいだもそれと同じことで、臣はただ君の心に合わせるべきではなく、君の足りないところを増し、君の過ぎたところを減らすように忠告して君を正してこそ、はじめてよき臣といえるのです。君の心に気を合わせるだけの者を、気が合うとお考えになってはなりません」
     これによっても、そのころの調味料が酢と味噌と塩梅とであったことが知られる。
     わが国の「塩梅(あんばい)」という言葉は、この「塩梅(えんばい)」が転じた言葉であって、加減して程よい味つけをするということから、よい具合とかよい程度とかいう意味を持つようになったのである。

鉄面<>鉄面皮

  • 宋の孫光憲(?−九六八)の『北夢項言(ほくぽうさげん)』に次のような逸話がある。
    進士の王光遠は、権力者の近づきになろうとしてせっせと訪ねまわり、時には鞭で門
    前払いを食らわされるような屈辱にあっても、なおやめようとはしなかった。それで当
    時の人々はいった。
    「光遠、顔厚きこと十重の鉄甲の如し」(光遠の面の皮の厚さは十枚重ねた鉄のよろいのようだ)
     この逸話から「鉄面皮」という言葉が出たといわれている。
    『宋史』の趙べん(べん京のべん)伝に、次のような記述がある。
    趙べんは殿中侍御史(官吏の不正を摘発する官)となるや、権力者であろうと天子のお
    気に入りであろうと、かまうことなくその不正を摘発したので、都では鉄面御史と呼ばれた(京師、目して鉄面御史と為す)。
    また『福建遺志』には次のような記述がある。
    宋の趙善は宣教郎という官に任ぜられて崇安県(福建省)の知事になったが、峻厳に法令を守ったので、人々は趙鉄面とあだなした(人、趙鉄面と号す)。
    「鉄面」という言葉は、このように、権威に屈せず剛直なこと、峻厳なことのたとえと
    して用いられていて、厚かましいとか恥を知らないとかいう意味は持たない。
    なお、超べんと趙善とは同じく宋の人であるが、別人である。
    わが国の今日の政治家には、鉄面皮の人は多いが、鉄面の人はまずいないようである。

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Last-modified: 2006-08-19 (土) 10:56:03