P55 †
科学者を蹟かせるものが山つあるとしたら、それは「常識」だろう。常識は真実にいたる道のおよそ当てにならない案内人として、科学の歴史に繰り返し登場してきた。
天文学を例にとってみよう。一八二五年フランスの哲学者オーギエスト・コントは、人類は星が何でできているかを決して解明できまいと断言した。これほど合理的な言い分もあるまい。なにしろ実験室で分析しようにも、星は遠すぎて手が届かないからだ。
ところがそれから百年も経たないうちに、天文学者たちは星の発する光のスペクトルの明暗を読み取って、そこから星の構成要素はおろか、その温度や年齢、運動まで探りだせるようになった。
では生物学はどうか。十七世紀にオランダの科学者レーウェンフックが簡単な顕微鏡で唾液を観察し、人体に多種多様なバクテリアが潜んでいることを発見したのだが、それまではそんなことが起こっているなど、いったい誰が想像できただろう？けれど今日の私たちは、地上や海中に住む地球上の生命体の大部分が、顕微鏡をとおさなければ目に見えないことをちゃんと承知している。私たち人間みたいな毛のはえた哺乳類なんぞ、およそ不格好な例外にすぎないのだ。
もっと近年になると、生物学者は、生命というものは太陽の光と酸素がなければ絶対に生きていけないという常識的な結論に達した。ところがそう結論したとたんに、海底の完全な暗闇の中、他の穴から吹きだし、熱く煮えたぎる硫黄の蒸気によって繁殖する生命体の集団が見つかったのである。
事実、生命には酸素が絶対必要だという常識的な考えは、歴史の記録を完全に歪めてしまっている。そもそもその辺に浮かんでいる酸素など、この地球にとって新参者であり、太古の緑色植物が大気中に吐きだした毒気のことなのだ。
また、大気中に吐きだされた二酸化炭素は、地球を「汚染」するという昔ながらの知識とは反対に、実は大気を自然な状態に戻すのである（もちろん人類は地球にとって「自然」の存在ではないのだから、大気が自然な状態に戻るといった劇的変化には耐えられない。まあしかし、そんなことは宇宙全体から見れば取るに足らないことなのだ）。
比較的安定した地球や惑星を研究する地質学者ですら、常識が生みだす危険を避けられなかった。なにしろ彼らは、大陸が動きまわって遊園地のバンパーカーのようにぶつかり合っては、その過程で地震を引き起こしているという（一見とんでもないが）紛れもない事実を、最近になってやっと信じはじめたぐらいである。
それでは、火星からやってくる、太古の化石を思わせる模様のついた岩石はどうだろう？隕石が偶然にその赤い惑星にぶつかって弾き飛ばしたかけらが、太陽系を一六〇〇万年ものあいだ漂ったあげく、やっと南極の氷原に落っこちてきたのだ、というのが惑星科学者の解釈だ。ところがつい二、三年まえまで、学者たちは火星の破片が地球に届くなどとは頭から信じていなかった。しかし今日の推定では、毎年約五〇キロもの火星のかけらが、地球に降り注いでくるのである。
しかし、そのなかでも常識をあまりに度々ひっくり返すので最も悪名高いのは、数学者だろう。
まず明らかに理屈にあわない「負数」を発明したのが第一（マイナス二個のリンゴを持っているとは、そもそもどういうことだろう？）。それから今度は「π（パイ）」のように永遠に尽きない無理数を発見してのけた。伝説によると、この無理数という文字通り無理なアイデアは当初、太陽の周囲を球形の地球が回転するという理不尽なアイデアと同様の扱いを受けたそうだ。そんなとんでもない考えを言いだした科学者は、嘲られるか、もっとひどい目にあわされるのがおちだったのである。
今日の数学者は虚数をはじめ超越数、他のすべての無限大よりもっと大きな無限大から、二〇次元の幾何学にいたるまで、すべてを受け入れている。かつては幽霊みたいな「無限小」を扱う不条理な学問だとして非難されていた微積分も、今では高校で必ず教える科目になっているのだ。
自然にとって人間が考える「常識」など何の意味もないというこの真理は、人をたいへん不安にする。だが、偉大な科学者の面々は、私たちよりずっと寛容にこの真理を受け入れるようになってきた。
アイザック・ニュートンは、「何もない空間に広がる目に見えない力」という考えに基づく自分のとんでもない重力理論など正気の人間なら誰一人信じはしまいと、自ら予言したぐらいだ。けれどもこのニュートンの考えだした理論こそ、NASA（米航空宇宙局）が火星へ宇宙船を打ち上げることを可能にし、また、火星の岩石を南極に送り届けたのである。ここで私たちが肝に銘ずべきなのは、理屈に合おぅと合うまいと、当たりまえであろうとあるまいと、もしうまくいくようなら、それはおそらく自然が意図したことなのだ、という教訓である。
物理学者のフランク・オッペンハイマーは、科学であれ社会政策であれ、とにかく「常識」に従って世界をあるがままに受け入れろと人に言われるたびに腹を立てた。そして、繰り返しこう言って聞かせたものだった。「常識的な世界なんてのは本当の世界じゃないんだ。そんなものはしょせん人間がでっちあげたものなんだよ。」
P160 偶然の一致 †
昨年、ほんの一週間だったが、九個の惑星すべてが空の一隅に顔をそろえたことがある。そういえば、私の新しい友人の隣家の猫と、私の飼っている猫は同じ名前だ。それにニュージャージーに住む私の継娘と、ロサンゼルスにいる心理学者の友人の出産予定は同じ日にあたる。
こうした一致は、何かを暗示する宇宙のできごとなのだろうか？ それともただの面白い偶然なのだろうか？
これは決して瑣末な疑問ではない。なぜなら科学には、起こったできごとのうちどれがただの偶然にすぎないか、どれがまっとうな原因をもっているかを、判断しようとする努力が関わってくるものが多いからだ。
「数学、科学、いや生活そのものにおいてさえ、われわれは意図と偶然とを選り分ける非常に微妙で危なっかしい作業に絶えず直面しているのだ」とアイヴァース・ピーターソンは著書『カオスと偶然の数学』に書いている。
ある町に限ってガンの発病例が多い場合、それは有毒残留物のせいなのか、それとも通常の病気の分布パターンなのだろうか？写真に写ったあの黒い点は、地球に家ほどもある雪玉が降ってくる証拠なのか、それとも検知器がとらえたランダムなノイズなのだろうか？
数学は、こうしたシナリオを選り分ける役に立つ。実のところ、ちょっとした数学的ノウハウは、人間の心につきものの信じやすさに効き目のある唯一の薬なのである。なにしろ人間というのは、根も葉もない偶然のできごとの背後に、何やら原因やつながりを見つけてしまいがちなものなのだ。
人間はもともと、混沌としたできごとのなかにパターンを読み取るようプログラムされている−−そして、混乱した視覚世界に意味を見いだそうとしているのだ。私たちは天井のひびに何かの形を見てとり、月の表面に顔を見つけ、雲のなかに毛のモクモクした羊を見る。また夜空の星をグループにまとめては、蛇だの戦士だの杓子だのの形になぞらえたりする。
ピーターソンの書くところによると、「人間は、ランダムな選択や混沌とした形跡だらけのこの世界の中に、秩序と意味を見るようにできている」ものなのだ。
もっとも「驚くべき偶然の一致」のほとんどは、−−夜空を飾る星座のように−−物とできごとのあいだにありそうな関係を見つける人間の癖が、頭の中につくりだしたものにすぎない。
飛行機で隣り合わせの席に座った他人同士を考えてみよう。この二人のあいだに何か共通なものがある可能性は、どれくらいあるだろうか？
数学者のジョン・アレン・パウロスによれば、好きな作家から故郷、以前の恋人や現在の職業、学校、知り合いなど、この二人が共通点をもつ可能性はごまんとある以上、彼らが二人以下の仲介者をはさんで、なんらかのつながりをもつ可能性は百回につき九十九回もあるそうだ。
もちろん二人に共通していないものは、共通しているものよりはるかに多い。ところが共有したつながりだけが、「驚くべき偶然の一致」として記憶に残るのである。
パウロスによると、予知夢にも同じことが言えるという。人はよく飛行機事故や地震などの夢を見る。そして翌朝の新聞を読み、それが実際に起こつているのを発見する。けれど全米でざっと二億五〇〇〇万もの人が、毎晩数時間は夢の世界をさまよっている以上、「それぐらいのことは当然だ」と彼は言うのである。「現実の世界で、想像できる限り最も信じられない驚異的な偶然は、偶然の一致がまったく存在しないことのほうだ。」
もっとも、ときには偶然の一致が深い真理を示していることもある。たとえばアインシュタインが頭を悩ませたのは、わが宇宙では重力と慣性がぴったりと釣り合っているという既知の事実だった。ボーリングの球とゴルフボールを高いところから落とすと、同時に地面に着くのはこの理由による。つまり、重力はボーリングの球をより強く引っ張るが、慣性が引きに対してより大きな抵抗力を及ぼすのである。 アインシュタインは、この不思議な等価がただの面白い偶然の一致であるはずがないと睨んだ。この認識が、重力と慣性は時空の湾曲というもっと大きい状況の局面なのだというアイデアに彼を導いたのである。
喫煙家は煙草を吸わない人よりも肺癌になることが多いが、この事実の背後には、やっぱりたんなる偶然の一致以上のものがある。つまり偶然の一致が、ときに原因を示すこともあるのだ。
それにしても、どうすれば原因に基づいて起こった偶然の一致と、ただの偶然との違いを見分けられるのだろう？ それを見分けるのに、統計学者はありとあらゆる種類のフィルターを使う。だが数学嫌いの人でも、自己暗示にかからないよう簡単なガイドラインを利用することはできる。
たとえば、多数あるものには何であれ、必ずと言ってよいくらい偶然の一致が起こるものだということを念頭に置くこともーつ。つまり米国に住む二億五〇〇〇万人のうち、二日あたり少なくとも二五〇人は、何の原因もない純粋な偶然だけで、一〇〇万に一つの偶然の一致を経験するはずなのだ。
また、同じ年のうちに同一人物が二回も宝くじに当たることは稀とはいえ、以前宝くじに当たったことのある何百万という人のうち、一生のあいだにもう一度くじに当たる人が出る可能性はかなり大きい。 実のところ、日ごろ人が絶対ありそうにないと思っているできごとの多くは、ちっとも珍しくなんかなく、起こる可能性があることなのだ。コインを一〇〇回投げて同じ面が長く続いて出る可能性は、どちらかと言えば大きいのである。そんなものは「驚くべき偶然の一致」ではなくて、自然が普通にふるまっているだけのことなのだ。
あるいはスタンフォード大学の数学者ペルシ・ディアコニスが言うとおり、偶然の一致は「この世界の活動とできごとにラベルをつけたがるわれわれの癖」によって起こるのだと言ってもよい。
P163 変化 †
四十八歳の男が薬局の店頭で薬を万引きしたというかどで、カリフォルニア州のスリーストライク法［有罪判決を三度受けると、自動的に重刑を科される法律］により終身刑になろうとしていた。アスピリンを盗んだというだけで、人一人を一生牢に閉じこめるなど阿呆らしいにもほどがある、と批判者は言い張ったけれど、検察官は、その男が「おそらく常習犯で、放っておけばこれからもー生、犯罪を犯し続けるにちがいない」と言って譲らなかった。
つまり人間は決して変わるものではない、というのである。
この宇宙で変わらないものは「変化」自体しかない以上、これはずいぶんおかしな言い分ではないか。そもそも、すべてが変わりうるという認識こそ、現代科学のもっとも深遠な洞察なのだから。
事実、ほんの二、三〇〇年まえまで人々は−わからぬことではないが−地球が不動であり、空の星は街灯のようにじっと固定したもので、（人類を含む）種はすべて今のとおりの姿で地球上にあらわれたものと信じていた。
けれど今日の私たちは、地球が不動どころか、地に住む者を時速一六〇〇キロもの速さでめまぐるしく回転させるだけでなく、太陽のまわりを一年につき九億四〇〇〇万キロも動いているのを知っている。 おまけに微動だにしないと信じて歩きまわっていた足元の地面がスローモーションで漂っており、大陸が遊園地のバンパーカーみたいにぶつかり合っていることもわかってきた。その過程で海底は持ちあがって山頂となり、大陸は沈んでいく。
となると不動の大地も、もはやこれまでだ。
ハッブル望遠鏡のおかげで、私たちは広大な星間の「揺りかご」である星雲内で、新しく生まれた星が瞬きはじめるのを見ることができた。また、死んでいく星の末期の息が荷電ガスの環となって光り、ついで爆竹さながら爆発してブラックホールの中に消えていくのも見ている。
さらにまた、宇宙背景放射探査機（COBE）のような衛星のおかげで、私たちは宇宙そのものの誕生の形跡すら見ることができるようになった。一三〇億年まえに生まれた灰が、絶対零度より三度だけ高い冷たさで、いまだにぼうっと光っているのである。つまり私たちは、すべてのはじまりを振り返って見ることができると言ってもいい。けれどここで肝心なのは、そもそも宇宙が「はじまった」ということ。そして、それ以来ずっと進化し続けてきたという点である。宇宙は膨張し、冷え、固まって銀河や星群をつくってきたのだ。
物質にさえ歴史というものがある。原子未満の粒子は、無、すなわち何もない空間の純粋なエネルギーから生まれてきた。物質は形を変化させ、まるで（百面相の）ジム・キャリーみたいに、一つの原子未満の種から別な種へと、くるくる姿を変えてきたのだ。星はまさに錬金術師さながら、水素とヘリウムを炭素と珪素、酸素と金に変えたのである。
私たちの住む三次元の空間自体も、九ないし一〇次元から発展してきたもののようだ。宇宙がはじまって間もないころ、空間は指数関数的な膨張をとげ、宇宙をヘリウムの風船みたいに膨らませたのである。
過去一三〇億年かそこらのあいだ、宇宙の膨張速度はかなり落ち着いてきた。それが今再び速度を増しはじめていると言う宇宙学者もいる。そのあげく大宇宙は薄く引き延ばされ、私たちには自分の銀河系しか見えなくなるかもしれない、ということらしい（でも心配はご無用。そんなことになるのは、まだ一三〇億年くらい先のことだ）。
時間そのものも、ある時点からはじまったはずだと考えている物理学者は多い。こうして過去から未来へとなめらかに流れ、宇宙の既定の構造の一部としか思えない時間も、残念ながら自然の法則に書きこまれたものではない。時間の矢、つまり方向も、あるときから進化してきたものなのだ。
それでは生命はどうだろう？ たとえどんな生まれ方をしたとしても、地球で最初の息をついた生命と、今日私たちの知っている生命とは、似ても似つかぬものだったはずだ。そもそも初期の生命は、酸素など呼吸してはいなかったのである。酸素は初期の有機体が吐きだした毒気で、そのとき存在していた生命体の大部分を殺してしまった。そしてそこにまったく新しい（結局は私たちも含む）生命体が生じたのである。
おまけに二十世紀には遺伝子が跳び移ったりすることが発見され、脳も経験、ホルモン、損傷、疾患、感情的ショックの反応によって変化することがわかってきた。それだけではない。私たちの脳は、成長するにしたがって変わってくるのだ。最近の研究によると、子どもの脳と大人の脳には、はっきりした違いがあることもわかっている。どうりで私たちは若者の心が理解できないわけだ。
とはいえ「個人」は変わるものだろうか？ 科学に関していえば、私たちの才能や関心は、幼いころからあらわれる。今日のノーベル賞受賞者は、まだよちよち歩きのころから深い思いにふけり、家の電気回路に火事を起こした人々なのだ。
けれど最近こんなことがあった。私の古い友人ポール・ヒユーイットは、高校と大学レベルの物理学の教え方に大変革をもたらした著書『物理のコンセプト』で有名な物理の教師である。夕食の席で私は彼がいつ物理学に興味をもちはじめたのか、何げなくたずねてみた。
この話のオチは読者もご存じかもしれない。彼は二十五歳になるまで、物理学には目もくれなかったのである。それまでの彼は、大学教育など受けたこともないペンキ屋だったのだ。
生命とは豊かで、不思議で、いつも予期できないものである。それは宇宙そのものによく似ている。だから、もし生命が絶対に我慢できないものがあるとしたら、それは変化がまったく起こらない、静止状態なのだ。
十二月三十一日の大晦日の日、娘と私は、新年を西海岸時間の午前零時で迎えようか、それともタイムズ・スクエアで大きな銀のボールが落ちるニューヨークの午前零時にしようか、あるいはそんなことを問題にする価値があるかどうか決めかねていた。とそのとき娘がこう聞いたのである。そもそも時間なんていつはじまったの？時間のはじまりは、科学のなかでも最も興味津々な疑問を呼び起こす問題である。
たとえば二〇〇三年だが、いったいこの年はいつはじまったのだろうか？ニューヨークの人々がシャンパンで乾杯したときだろうか？それとも東京の人、あるいはシベリアの人がおめでとうを言ったときなのだろうか？ 宇宙から地球を見下ろし、ある時間帯から次の時間帯へと世界中で新年が次々と明けていき、とうとうその環が一周してどの地も皆二〇〇三年になるところを想像していただきたい。すべてのシャンパングラスが空になったとき、この新年が公式にはじまったと言えるものだろうか？
いやそれより、地球最初の年はどうだろう？いったいそれは正確にはいつのことなのだろうか？
地球が太陽のまわりの軌道を一周することを一年と考えると、「年」というものは太陽系ができあがってから生まれたことになる。
では、宇宙の塵の塊が今私たちの知る地球として固まり、安定した軌道に落ち着いて最初の一年を印したときとは、正確にはいつのことなのだろうか？それを突きとめるのは、まさに至難の業だ。
第一日日を決めるにあたっても、同じことが言える。一日というのは地球が自転を一回完了することだから、第一日日は地球が回転をはじめてからのことにちがいない。けれど後に地球を形づくることになった塵や岩の塊は、くっつき合う以前から、とっくに回転していたのだ。いまでさえ空から回転しながら降り注いでくる新しい塊が、毎日地球に回転を追加しているのである。
私たちにはっきりわかっている一つのことは、初期の地球が現在よりずっと速く回転していたということである。だから地球の第一日日がいつであれ、それは二〇〇三年一月一日より、はるかに短かったことは確かだ。つい九億年ぐらいまえまで、地球の一日はたった十八時間程度しかなかった。
もちろん、規則的なリズムで地球を訪れる光と闇のパターンと、潮汐のように去来する季節を人間がはじめて気づくまで、年月を論じても無駄だと言うこともできる。そもそも生命体は、はじまりについて思惟するだけの意識をいつからもちはじめたのだろう？意識的思考とは、人間とともにはじまったものなのだろうか？ もしそうだとしたら、いったい人間性とはいつからはじまったのか？いやそもそも生命とはいつはじまったのだろう？こうした疑問は、一ダースの学者が一ダース（あるいはもっと多く）の答えを出すほど、諸説紛々としている。
奇妙なことに、私たちがはじめからあったと思いこんでいるものにも、はじまりがあるのだ。たとえば死がそうである。
マサチューセッツ大学の生物学者リン・マーギユリスの主張によると、単細胞生物は二つに分裂することによって子孫を増やすので、実際には決して死ぬことがなく、子孫の体内にいつまでも生き続ける。生き物が性的に生殖をはじめたとき、固体の死というものがはじまったのだ。つまり死は私たちがセックスのために支払う代償なのだ、とマーギユリスは言う。
物質にもまた歴史がある。宇宙がはじまった一三〇億年ほどまえ、空間にはエネルギーが充満していた。それが冷えてクォークやその他の素粒子となり、最終的に原子などがつくられたのだ。そのエネルギーはビッグバン。つまり宇宙、生命、そしてすべての原因となった原始の大爆発とともに、どこからともなく現われた。では、そのビッグバンはいつはじまったのだろうか？
この質問には、ただそれがはじまったときにはじまったのだというほかに、答えようがない。宇宙がはじまるまえには時間も空間もなかった以上、時間それ自体が宇宙とともに生まれたことになるからだ。宇宙はゼロ時点ではじまった。それ以前の時間などは、想像すらできない。
この話をとらえどころがないと感じる人に、物理学者スティーブン・ホーキングは、北極の北は何かを想像してみるよう勧めている。そんなところは存在しないのだ。
もちろん人類は、アインシュタイン以来、私たちの貧弱な時計で測る時間など大部分は幻のようなものと承知してはいる。動いている物体の互いに対する速度によって、時間は速くなったり遅くなったりするのだ。
ジェット機に乗せて世界を一周した時計が、地上に置いておいた同じ時計より遅れているのは、このせいである。
時間はまた、重力にも引きずられる。太陽では地球上よりも時間がゆっくりと進むし、ブラックホールの緑の時間は静止している。とはいえ、時間については、最も単純なことでさえまだほとんどわかっていないのだ。たとえば、なぜ時間は一方通行なのだろう？ 空間ならば私たちは右でも左でも自在に動けるというのに、どうして時間のなかでは一方向にしか動けないのだろうか？ アインシュタインが示したように、時間と空間は時空の同じ布地の一部なのに、なぜ時間は相棒である空間とこれほど異なったふるまいをするのだろう？
詩人オクタヴィオ・パスの言葉を借りると「現代科学の偉大な教訓は……起源と終焉に関する疑問が最も重要であるということだ。」
そしてそれはまた、最もつかまえどころがない疑問でもある。
P308 不自然さ †
これほど豊かな自然界の誘いを無視できる人がいるだろうか？ 草の輝き、かぐわしい牧草のかおり、ほとんど罪深く感じられるほど柔らかな薔薇の花びら。
日曜日の朝市のうっとりするような匂いや、公園で戯れ、入り乱れて駆けまわる犬たちの匂いには、どこかしら心を惹かれるものがある。木目の美しい床や、暖炉、海の眺望ほど、家の売れ行きを早めるものはない。
私たちが人工品を嫌うのは、ごく自然なことだ。人工品を見ると、まるで肌を逆撫でされたような気持になってしまう。だから、最近増えてきた遺伝子組み替え作物を、人々が不安に感じるのも決して不思議ではない。それに対する抗議運動はヨーロッパ中のあちこちに芽生えており、フランスではそうした産物を「フランケンフード」と呼びだすありさまだ。
そのような遺伝子は、トウモロコシを害虫から守るのかもしれないけれど、やっぱり細菌の遺伝子で「質を向上させた」トウモロコシを食べるのは、どうも気色が悪い。
ただし、私たちは次のようなことも念頭におく必要がある。つまり、ダリアや飼い猫はもちろんのこと、農夫の露店から私たちを招くうまそうなメロン、トウモロコシ、トマトなどは、完全な「有機栽培」と銘打ってあっても、どれ一つとして「自然」なものではありえないのだ。異種交配による遺伝形質の操作は、別に今はじまったことではなく、ほとんど文明の歴史ほど古い。白桃だって、私の台所の戸棚に入っている「自然食品」というふれこみのシリアルが木に実るわけでないのと同じに、「自然」な果物とは言えないのだ。パンやワイン、それにピーグル犬のどこにも、自然なところなどありはしない。
しかしそれを言うなら、この私たちにも「自然」なところはちっともないのである。実のところ、地球の前住人である微生物が酸素と呼ばれる「毒」ガスで地球を汚染したからこそ、その酸素のなかで繁栄する私たち人類とその祖先は進化できたのだ。
これを聞いて頭がこんがらかってくるとしても、それはもっとものことだ。おまけにそれは生き物の世界に限ったことではない。たとえば、ほとんどの人はプラスチックが絶対に「不自然」なものだと言う。しかし、化学者のロアルド・ホフマンの指摘どおり、プラスチックの大部分は石油製品からできており、その石油は太古の植物が何百万年ものあいだ地球の臓腑の中で醸成されたあげくできあがったものなのである。
したがって、ある意味でプラスチックは木に実ったことになる。
物理学者でさえ、長いあいだ「自然」の法則をめぐつて混乱を続けてきた。たとえばアリストテレスは、雲のように軽いものが空に浮かび、岩みたいに重いものが沈むのは、「自然」だと思いこんでいた。また天体が輪を描いて動くのも「自然」なことだと信じていた。
後の物理学者たちは、岩を地に、惑星を軌道に引きつけているのが、重力だということに気がついた。岩も惑星も「自然」のまま放っておけば、ただあてどなく宇宙にフワフワ浮かぶだけなのだ。
それからさらにのち、アインシュタインは落下する物体や軌道上を回る惑星が、湾曲した四次元の時空に刻まれた「自然な」経路にしたがって動いているだけだということを発見した。一事が万事このとおりである。
今日物理学者たちは、宇宙を構成しているいわゆる素粒子に不自然なところを見つけはじめた。地球上のすべてのものは、お馴染みの電子、陽子、中性子からなっている。けれどこうした粒子は一つ残らず、もっと重い「従兄弟分」をもっているのだ。
それがなぜなのかは誰も知らないけれど、とにかくこれは不自然に見えてしかたがない。こうした「余分の」粒子の第一号「ミューオン」が発見されたとき、物理学者�機Ν機Ε薀咾�「だれがこんなものを注文したんだ？」と言ったのは有名な話だ。
それ以来、物理学者はいまだにその間いに答えようと努力を続けている。
アインシュタインによると、彼が最も答えたいと思う質問は、宇宙を創造したとき神にはもっとほかに選択の余地があっただろうか、ということだった。そもそも私たちはミューオンをもつ必要があったのか？ 重力がもっと強いことがあったのだろうか？
言い換えると、自然の法則自体、世界の「自然な」特徴なのだろうかということだ。それとも別な宇宙であれば、自然の法則も異なっていたのだろうか？
何が「自然」であるかは、むろんその前後関係による。カウンターの上の角氷が溶けるのは自然だけれど、北極で溶ければこれは不自然だ。アメリカ大陸を最初に占領したヨーロッパ人にとって「自然」だった病気も、「自然」な抵抗力がなかった原住民のあいだでは、死病となって広がったのである。
また数学にすら「自然」な数と「不自然」な数がある。好んで自然数（正の整数として定義される）ばかりに偏っていようものなら、私たちは代数は言うに及ばず引き算さえもできなくなってしまう。
でもこのようなことと、遺伝子を組み替えた食べ物と、どんな関係があるのだろうか？
私たちが世界的な農業関連産業の動機や方法に疑いの目を向け、進化をいじくりまわして未知の遺伝的雑種を野に放つ危険を懸念するのは、おそらく賢明なことだろう。
ただし自然とか不自然とかいうことが肝心なのではない。遺伝子の組み替えは、常時起こっていることなのだ。恋に落ちるのも、種を遺伝的に改善する自然の方策だと言える。それをコントロールするのが、たち騒ぐホルモンであろうと、試験管のなかでこしらえた誂えのDNAであろうと、どこが違うというのだろう？
われわれは進化する、ゆえにわれわれは存在する。その他のすべての植物も動物もまたしかり。トウモロコシであれ、人類であれ、犬であれ、どんな種の歴史であろうと、今のこの時点が別に特別だというわけではない。私たちは皆、どこからか来てどこかへ行く途上にあるのだ。遺伝的組み替えの真の問題は、それが安全か、有効か、その利益はリスクを犯すほどの価値があるか、ということである。
もしかすると神は、宇宙の進化をどう指揮するかについて、選択の余地がなかったのかもしれない。
けれど人間にはその余地があるのだ。
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