「1930年代 日本の観光ポスター」は美しかった|2014年のポスターは美しくないのか?

 創造力のない人間が書いた記事の典型だ。至言「人は今も昔も変わらない。変わったという人は昔を知らないだけ」で指摘されている通りだ。「2014 年に 1930 年代のイラストを見たら美しく感じる」というだけなのだ。

 1930 年代に生きていた人にとって、これらは美術館に飾ってめでる物ではなかっただろう。もっと生活に密着した、「外国のデザインを取り入れたおしゃれな広告」でしかなったはずだ。それ以上でもそれ以下でもない。今なら海外ブランド品のTVCFのようなものだ。今のCMを美術館に置いて鑑賞するなどということはないだろうし、数年後には古臭く感じてしまうに違いない。そう、iOS や Mac OSX のデザインのようにだ。数年前にはスキューモーフィックを絶賛していたおしゃれなデザイン系の人がこぞって「フラットデザイン最高。スキューモーフィックは古臭い」と言い出したようなものだ。フラットデザインが普及してGUI全てがフラットデザインになったら、「6 までの iOS のデザインは美しかった」とか言い出すんじゃないのwww

 自分が子供の頃はテレビではミニのワンピースが流行っていた。自分が大学に入る頃にはそんな服を着ている女性は皆無で、当時はデザイナーズブランドの服が流行りで真っ黒だった。男はツータックで肩パッドの入った1930年代のようなスーツが流行っていた。今ではそんな服を着ている人はいないだろう。しかし、20年もしたらぶり返すかもしれない。その程度のものだ。

 日本のデザインが面白いのは1930年代に始まったものではない。むしろ、このデザインは江戸時代の浮世絵がフランスに輸出されて生まれたポスターの逆輸入だ。この記事を書いた人は富嶽百景とか見たことがないのかもしれないが。そして、ここで注意したいのは(自分的にだがw)、浮世絵もポスターも美術館に展示してしかめっ面して鑑賞するようなゲージツではないということ。生活に密着して、庶民が「お、この絵(版画だが)ええやん」として売買されたものだ。今ならCDやDVDのおまけやカレンダー、コミケのコンテンツみたいなものだ。当時の庶民の願望や欲望がそこにあることだ。

 美術館にある「作品」にならないと良さがわからないのは貧しい。いま、街にあるものも同じように「評価」できないのは、芸術そのものを見ているのではなく、他人が評価したものを見ているだけだ。こんなことはウォーホルが見せてくれたことだ。自分は常に、身近にある今の大衆芸術と美術館にある芸樹を同じ土俵で鑑賞したいと思う。値札で価値を計るしか脳のないのは見ていないのと一緒だ。

「1930年代 日本の観光ポスター」は美しかった

日本では、1930年代初頭から中頃にかけて、国立公園や温泉など各地の観光名所を宣伝する、美しいポスターが制作された。日本国外に流通することは珍しかったこれらのビンテージ・ポスターには、古い寺の塔や満開の桜の光景が、鮮烈な色合いと、すっきりした幾何学的なデザインで表現されている。

当時の名古屋市や大阪市、あるいは仙台市の鉄道局が制作し、日本のアール・デコ調デザイン全盛期を伝えるこれらのポスターは、非常に稀少なため、博物館や美術館の展示品としても価値があるものだが、その存在は米国ではこれまでほとんど知られていなかった。

アンティーク収集家であり、ビンテージ・ポスターにも詳しいルディー・フランチ氏は次のように述べている。「これらは、ほとんど偶然に発見された。ポスターを相続した若い男性は、それらに価値はないと考えていたのだが、あるとき偶然、ビンテージ・ポスターについての解説を無料で提供している私のウェブサイトを訪れたのだ。私は、彼のポスターを調べ始めて間もなく、これらが大量の宝物であることに気づいた」

これらの前衛的なポスターは、長い年月を経て、稀少価値の高い芸術作品へと変化を遂げた。今回の出来事は、今は大事にされていない広告チラシなども、いつの日か、博物館の壁に展示されるほどの価値を持つようになる可能性があることを示している。

これらの観光ポスターは、「Heritage Auction」が米ダラス市で2014年3月22日、23日に開催予定の「Vintage Movie Poster Signature Auction」(ビンテージ映画ポスターおよびサインのオークション)に出品される。予想落札額は、500ドルから800ドルの間だ。

寺院の形 P330 テスト続き

 安国寺に行った時に見た面白いもの。

IF 刃の外周がギザギザでどんな植物を形どったものなのか全然わからない。エキゾチックな印象で面白い。

IF 可愛い花。刃削り跡が見える。何百年か前の職人の職場が目に浮かぶ。と同時に、製作時の生地そのままだった頃や寺院建立時になされていたであろう極彩色の頃を想うと感慨深い。


GLASS 懐かしい木製のガラス窓。自分が育った家の窓はこのタイプで風が吹くとガタガタと鳴ってうるさかった。一枚一枚のガラスが窓枠と当たって音がする。ガラス一枚一枚がスピーカーの振動板のようなものなので大音量だった。アルミサッシの家に引っ越ししたときに風が吹いても窓が音を立てない時に驚いたものだった。この写真からはわからないかもしれないが、一枚一枚のガラスも平面ではなく微妙な湾曲した面で懐かしかった。

 オリジナルはhttp://www.flickr.com/photos/geek-panhead/をどうぞ。

帝塚山学院大学人間文化学部IT講座 第5回

帝塚山学院大学人間文化学部IT講座 第5回
「花のドット・コム」開催のお知らせ
「交流の脳・共感の胸」
|メディア|クオリア|ユビキタス|

http://www.tezuka-gu.ac.jp/newsletter/index.html

という催しに行ってきた。面白かった。詳細は後で。

金子國義☆富士見ロマン文庫コレクシォン

 昨日、関心空間で知った「金子國義☆富士見ロマン文庫コレクシォン(価格は2800円)」が届いた。BK1で買ったが、翌日に届いた。限定1000部だから、欲しい人はすぐに発注だ。

 俺はこれの文庫本を集めていて、30冊くらいある。昔は普通に書店や古本屋に並んでいたのに、最近は1冊1000円以上になってしまっている。すっかりコンプリートは諦めていた(というより、何冊あるのかすら知らなかった)が、このセットで一気にコンプリートできた。まあ、カバーとして描かれた絵をカードにしても、レプリカでしかない。場所を取らないというメリットはあるが。それと、このシリーズは内容的には、エロ本なので、あんまり大っぴらに読めないしね。まあ、買ったものの読んでいないのが大半だが。

 ただ、サドの「ジュスティーヌ物語」「ジュリエット物語」「ソドム120日」もこのシリーズに入っていることは付け加えておく。

携帯電話のデザイン

 infobarのデザインで、コンセプトモデルほど突き抜けていない理由がわかった。量産化・一般市場供給を考えた場合、強度や製造コストで妥協することが必要となる。これも、そのひとつの例だろう。

コンセプトモデル
アンテナも見えないし、ボタンのRも微妙で美しい。

量産モデル
コンセプトモデルではボタンが全面を完全に覆っているが、量産バージョンでは枠にはまっている。コンセプトモデルのような配置では外のボタンが取れてしまうトラブルが目に見えているからだろう。マグネシウム製の外枠の前後長を長くし、折り曲げ圧力に対する強度を出すのかもしれない。

AUのコンセプトモデル
面白いが、回転に必然性が感じられないのが難か。湾曲した液晶が開発できない限り実現は不可能だろう。

こちらは、コンセプトモデルと量産バージョンという意味ではないが、なんだかとってもよく似た、というよりまねしたとしか思えない回転機構を持ったパナソニックの新型docomo端末P505is。しかし、これもまた、何で回転させる必要があるのか不明。待ちうけをメイン液晶が見えない状態で行うなら、普通に開くだけで十分。かといって、横回転を活かすなら縦開きの必要はまったくない。


伊藤忠太展を見てきた

 大阪難波のキリンビールの美術館で伊藤忠太展を見てきた。

 色々、面白いものがあったが、残念なのは二楽荘について全く触れられていなかったこと。しかし、ほとんど同じ様式の建築物を作っていたことが分かった。それは、京都に現存しているらしい。

 建築探偵の講演とか建築物バスツアーもあったらしいことを会場で知った。

 個人の墓もたくさん設計していたことを知った。紀行文をたくさん残していて、海外経験の乏しい当時の日本人への土産話が盛りだくさんだった。受け入れる側も日本人が珍しいらしく、時に歓待をうけたり、珍奇なもてなしを受けたことが書いてあった。自由に閲覧できるコーナーがあって、椅子もあったのでゆっくりと読めたが、時間切れで3冊のうち1冊しか読めなかったのは残念だった。

 設計図に人物を描きいれていることや、ほとんどボツになったようだが、屋根の端や欄干などに怪物の像を置こうとしていたのも面白かった。中世ヨーロッパの建築物などにある悪魔像に影響を受けたようだ。また、怪物についても、興味を持っていたらしく、訪れた国々でいろんな怪物像を写生している。日本の怪物像が凡庸なことを嘆いていたりもする。

 テキストでは、「何でもいいから怪物を描いてみろといわれても、なかなか過去にあるものから抜け出ることは難しい。」と書いている。人間の想像力の限界について考察しているものは面白かった。

ボローニャ国際絵本原画展

 毎年この時期に西宮市大谷記念美術館
で開催される、2003イタリア・ボローニャ国際絵本原画展に行ってきた。

 いつもは、夏休みが終わる直前に行くのだが、今年は月末が忙しくて今日になった。今日は駐車場に待たずに入れたし、それに比例して客も多少は少なくて観やすかった。来年も9月に入ってからにしよう。

 今日感じたのは、CGを使った作品が多くなったということ。そして、それらの作品がCGを使ったことを意識させないものになってきたこと。CGも表現手段を拡張させるツールとして定着したのだろう。絵筆や絵の具、エアブラシなどが絵画に影響を与えたのと同じように、CGを鉛筆や絵筆のように使いこなすアーティストが増えるのだろう。

 シンセサイザーが音楽に新しい可能性をもたらしたのと一緒だ。

 こういう流れに嫌悪感を表す人もいるのだろうが、俺は積極賛成派だ。俺は、音楽も絵画も表現の一つだと考える。音楽も絵画も演者や作成者の脳内にある妄想(といって悪ければイメージ)を他の人に味わってもらうためのコミュニケーション手段と考える。だから、それを卑近な技術的レベルで語ることは無意味だと思う。早く弾くとか大きな手と筋力を使って従来の人間ができなかったピアノの弾き方をするといったことは、音楽の質と技術を混同した評価だ。コンピュータを使った表現を蔑むのも間違いだ。

 もちろん、コンピュータを使うことを目的としたような作品もカスだ。それは、手書きで作った資料をExcelに転記してプリントして喜んでいるカス以下の低能と同レベルに害だ。それはコンピューターを使って行う仕事(作品)を貶めるものだ。

The Art of STARWARS

The Art of STARWARSに行った。3人で行くとなると電車代もかかるので、車にした。京都駅南の市営駐車場に置いて歩いたが、博物館の方角にも何件かバブル崩壊パーキングがあって、ちょっと損をした気分になった。

 The Art of STARWARSの展示は面白かった。もっと巨大な展示物が空中に浮いているのかと思っていたので、少し拍子抜け。

 今回、The Art of STARWARSより俺が面白かったのは常設展示。文化財クラスのオリジナル仏像がある。妄想から生まれたとしか思えないような、像はSTARWARSよりインパクトがある。だって、手がいっぱいとか頭がいっぱある神様だぞ。STARWARSがあの時代にも関わらず、技術の水準にかせをはめられていて、少し古く見えるのに対して、仏像は完全に「いっちゃってる」からね。

 帰りに、プレハブでやっている小さなうどん屋でうどんを食べて帰った。息子は定食俺は大盛り、娘は普通サイズ。これで1280円という信じられない低価格。味はなかなか行けていた。うどんやのばしょ

 時間も早かったので、帰りは高速代をけちって山を越えることにした。これが大失敗。道が変わっていて、遠回りを繰り返して30分以上余分にかかってしまった。行きは1時間20分くらいでついたのに、帰りには2時間30分近くかかった。疲れた・・・暑かったし・・・ハッキリ、沖縄より暑かった。

これはあかんやろ


 京都国立博物館The Art of STARWARSというイベントをやっているらしい。

 息子がSWシリーズを好きなので、夏休みに行ってみようかと思う。

 しかし、京都国立博物館のサイトには問題がある。トップページに特別展示としてThe Art of STARWARSがあるのは当然。しかし、そのメニューは単にThe Art of STARWARSサイトへのリンクにすぎない。しかも、このThe Art of STARWARSのサイトは、NTTフレッツユーザーにしか見られないコンテンツが大半だ。

 営利企業であるLucasFilmがNTTとタイアップしてフレッツユーザーへの特典的サイトを構築するのは構わない(同じことは他の接続業者でもやっていることだ。

 問題なのは、国立博物館が国立博物館で行われるイベントの紹介を営利団体に全面的に依存しているということだ。国立博物館でやっているイベントについては国立博物館のフォーマットで紹介し、その中からオフィシャルサイトへのリンクとして営利企業のサイトへのリンクは行うべきだ。なぜなら、国立博物館は国立博物館だから。国民全員が平等にアクセスできなければならないところだから。