本:おしゃべりな宇宙 常識はずれ

 「おしゃべりな宇宙―心や脳の問題から量子宇宙論まで」を読んだ。興味深い話題満載だが、特に興味深い所を引用する。ぜひお買い上げいただきたい(自分は図書館で借りたが)。

 自分の中の「常識」や偏見が覆される痛快なフレーズに満ちている。「常識」が単なる偏見と浅い思考の産物でしかない事が分かる。

 「生命には酸素が絶対必要だという常識的な考えは、歴史の記録を完全に歪めてしまっている。そもそもその辺に浮かんでいる酸素など、この地球にとって新参者であり、太古の緑色植物が大気中に吐きだした毒気のことなのだ。また、大気中に吐きだされた二酸化炭素は、地球を「汚染」するという昔ながらの知識とは反対に、実は大気を自然な状態に戻すのである」

 一番面白かったのが「もちろん人類は地球にとって「自然」の存在ではないのだから、大気が自然な状態に戻るといった劇的変化には耐えられない。まあしかし、そんなことは宇宙全体から見れば取るに足らないことなのだ。」という一文。環境保護至上主義者やキリスト教原理主義者、「意識の高い人」などが聞いたら卒倒しそうだwww

 もちろん、これらは警句として反常識的に書かれている。自然を原初の地球と定義すれば人類は「反自然」だが、自然の変化に対応して進化してきた人類も自然の一部だ。これからどんな生物が地球上の覇権を握るかは分からないが、その時々の地球の環境に合わせて生き残ったものならそれらは全て「自然」といえる。数億年語の地球が氷に覆われているか海の面積がほとんどなくるほどに蒸発した状態かは分からない。どちらにしても人類は絶滅するだろうが、その状態もまた自然だろう。

 宇宙レベルから考えれば、惑星上の生物の生成も滅亡もとるに足らないことでしかない。「地球を大切に」などというスローガンは近視眼的な利己主義でしかない。ただ、人類がここまで築き上げたものを失いたくないなら、目の前の自然を大切にするしかない。だから、自然環境の保護はこの視点から行うべきだ。「人類が生き残れるように環境を保護しよう」というのが環境保護の目的だ。ここからスタートすべきなのだ。

P55 常識はずれ
 科学者を蹟かせるものが山つあるとしたら、それは「常識」だろう。常識は真実にいたる道のおよそ当てにならない案内人として、科学の歴史に繰り返し登場してきた。

 天文学を例にとってみよう。一八二五年フランスの哲学者オーギエスト・コントは、人類は星が何でできているかを決して解明できまいと断言した。これほど合理的な言い分もあるまい。なにしろ実験室で分析しようにも、星は遠すぎて手が届かないからだ。

 ところがそれから百年も経たないうちに、天文学者たちは星の発する光のスペクトルの明暗を読み取って、そこから星の構成要素はおろか、その温度や年齢、運動まで探りだせるようになった。

 では生物学はどうか。十七世紀にオランダの科学者レーウェンフックが簡単な顕微鏡で唾液を観察し、人体に多種多様なバクテリアが潜んでいることを発見したのだが、それまではそんなことが起こっているなど、いったい誰が想像できただろう?けれど今日の私たちは、地上や海中に住む地球上の生命体の大部分が、顕微鏡をとおさなければ目に見えないことをちゃんと承知している。私たち人間みたいな毛のはえた哺乳類なんぞ、およそ不格好な例外にすぎないのだ。

 もっと近年になると、生物学者は、生命というものは太陽の光と酸素がなければ絶対に生きていけないという常識的な結論に達した。ところがそう結論したとたんに、海底の完全な暗闇の中、他の穴から吹きだし、熱く煮えたぎる硫黄の蒸気によって繁殖する生命体の集団が見つかったのである。事実、生命には酸素が絶対必要だという常識的な考えは、歴史の記録を完全に歪めてしまっている。そもそもその辺に浮かんでいる酸素など、この地球にとって新参者であり、太古の緑色植物が大気中に吐きだした毒気のことなのだ。

 また、大気中に吐きだされた二酸化炭素は、地球を「汚染」するという昔ながらの知識とは反対に、実は大気を自然な状態に戻すのである(もちろん人類は地球にとって「自然」の存在ではないのだから、大気が自然な状態に戻るといった劇的変化には耐えられない。まあしかし、そんなことは宇宙全体から見れば取るに足らないことなのだ)。

 比較的安定した地球や惑星を研究する地質学者ですら、常識が生みだす危険を避けられなかった。なにしろ彼らは、大陸が動きまわって遊園地のバンパーカーのようにぶつかり合っては、その過程で地震を引き起こしているという(一見とんでもないが)紛れもない事実を、最近になってやっと信じはじめたぐらいである。

 それでは、火星からやってくる、太古の化石を思わせる模様のついた岩石はどうだろう?隕石が偶然にその赤い惑星にぶつかって弾き飛ばしたかけらが、太陽系を一六〇〇万年ものあいだ漂ったあげく、やっと南極の氷原に落っこちてきたのだ、というのが惑星科学者の解釈だ。ところがつい二、三年まえまで、学者たちは火星の破片が地球に届くなどとは頭から信じていなかった。しかし今日の推定では、毎年約五〇キロもの火星のかけらが、地球に降り注いでくるのである。

 しかし、そのなかでも常識をあまりに度々ひっくり返すので最も悪名高いのは、数学者だろう。まず明らかに理屈にあわない「負数」を発明したのが第一(マイナス二個のリンゴを持っているとは、そもそもどういうことだろう?)。それから今度は「π(パイ)」のように永遠に尽きない無理数を発見してのけた。伝説によると、この無理数という文字通り無理なアイデアは当初、太陽の周囲を球形の地球が回転するという理不尽なアイデアと同様の扱いを受けたそうだ。そんなとんでもない考えを言いだした科学者は、嘲られるか、もっとひどい目にあわされるのがおちだったのである。

 今日の数学者は虚数をはじめ超越数、他のすべての無限大よりもっと大きな無限大から、二〇次元の幾何学にいたるまで、すべてを受け入れている。かつては幽霊みたいな「無限小」を扱う不条理な学問だとして非難されていた微積分も、今では高校で必ず教える科目になっているのだ。

 自然にとって人間が考える「常識」など何の意味もないというこの真理は、人をたいへん不安にする。だが、偉大な科学者の面々は、私たちよりずっと寛容にこの真理を受け入れるようになってきた。

 アイザック・ニュートンは、「何もない空間に広がる目に見えない力」という考えに基づく自分のとんでもない重力理論など正気の人間なら誰一人信じはしまいと、自ら予言したぐらいだ。けれどもこのニュートンの考えだした理論こそ、NASA(米航空宇宙局)が火星へ宇宙船を打ち上げることを可能にし、また、火星の岩石を南極に送り届けたのである。ここで私たちが肝に銘ずべきなのは、理屈に合おぅと合うまいと、当たりまえであろうとあるまいと、もしうまくいくようなら、それはおそらく自然が意図したことなのだ、という教訓である。

 物理学者のフランク・オッペンハイマーは、科学であれ社会政策であれ、とにかく「常識」に従って世界をあるがままに受け入れろと人に言われるたびに腹を立てた。そして、繰り返しこう言って聞かせたものだった。「常識的な世界なんてのは本当の世界じゃないんだ。そんなものはしょせん人間がでっちあげたものなんだよ。」

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