本:夏目漱石「自転車日記」「余と万年筆」

 下には、画像を拝借するために Amazon へのリンクを貼ってあるが、両作品とも青空文庫に収録されている。短い作品なので、こんなブログを読む暇があったらお好みのリーダーアプリやブラウザでお読みいただきたい。青空文庫HTML版 自転車日記青空文庫HTML版 余と万年筆

夏目漱石 自転車日記 イギリス留学中に自転車に親しむ(ww)ようになった経緯を綴った日記。自嘲的な軽い筆致は今のブログにも通じる(このブログという意味では、もちろん、無い)。

 森見登美彦の作品が好きな人なら楽しめる作品と思われる。自分は森見登美彦の文体が好きな上に自転車も好きなので、大いに楽しんだ。

夏目漱石 余と万年筆 この文章が書かれてから 100 年以上経った今でも道具を排除することを良しとする人はいる。キーボードで入力された文章には心がこもらないとか、手書きの温もりとかいう輩だ。自分はこれらの考えとは正反対。鉛筆も万年筆もボールペンもサインペンも筆もチョークもスプレーもパソコンのキーボードもテキストデータを記録する道具としては同価値。利便性によって選ぶべきものでしかない。

 夏目漱石にも同じ思想を感じた。彼はつけペンと万年筆の比較から、当時新技術である万年筆の利便性を高く評価している。つけペンへの懐古趣味などみじんもない。万年筆が不調でつけペンで「」を書いた時に最後まで万年筆にしなかったことについて「『彼岸過迄』の完結迄はペンで押し通す積つもりでいたが、其決心の底には何どうしても多少の負惜しみが籠こもっていた様である。」と自らツッコミを入れている。

 さらに「酒呑さけのみが酒を解する如く、筆を執とる人が万年筆を解しなければ済まない時期が来るのはもう遠い事ではなかろうと思」ったとおり、つけペンの時代は終わり、あっという間に万年筆もボールペンに覇権を譲っり、ボールペンもキーボードに席を譲って現在に至った。この後、音声入力や脳波入力の時代が来るかもしれない。

 なお、手書きの美しさや芸術的な価値について否定はしない。美しい字を書ける人が画像として文字をやりとりする文化は無くならないだろう。テキストをやりとりするメディアの一部としてのテキストデータとは別の「モノ」だからだ。それはテキストの持つ情報とは異質の価値を持つ紙本と同じ性格のものだ。

 ところで、あまり意識していなかったが、Amazon の青空文庫で入力された作品の表紙に「青空文庫」というロゴが入るようになった。しかし、iBooks の書籍には青空文庫はない。Amazon の青空文庫の作品には青空文庫のデータの末尾に付加された決まり文句「このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。」が入っているが、iBooks にはこれもない。残念だ。

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