国家社会主義ドイツ労働者党 Nationalsozialistische Deutsche Arbeiterpartei ナチ党はヴァイマル共和国において民族主義と社会主義の折衷的な政策を掲げ、党首アドルフ・ヒトラーの指導の下にヴェルサイユ体制を激しく攻撃して広い層から支持を得た。また、人種を国家の根本としてドイツ民族の優越と反ユダヤ主義を綱領に取り入れた。 政策については25カ条綱領も参照せよ。 ナチ党は1919年1月5日バイエルン州都ミュンヒェンで錠前師アントン・ドレグズラーとスポーツジャーナリストのカール・ハラーによって「ドイツ労働者党」として結成された。 結成当初は第一次世界大戦におけるドイツ帝国の敗北とそれにともなう革命に紛然とする世相に乗じた、わずか40人程度の泡沫政党に過ぎなかった。その母体であったトゥーレ協会の会員には、ナチ党初期のイデオローグとして活躍したアルフレート・ローゼンベルク、ディートリヒ・エッカートや、のちに副総統となるルドルフ・ヘスなどがおり、協会の異教的神秘主義・反ユダヤ主義はナチ党の思想に大きな影響を与えた。 アドルフ・ヒトラーが入党したのは1919年9月12日の集会に参加した数日後で、すぐに党になくてはならない演説者となった。ヒトラーはドレグズラーと共に党綱領の整備に取り組み、反ブルジョワ・反ユダヤ・国粋主義などを訴える25カ条綱領を作成した。この綱領には反ユダヤ主義・国粋主義も見られたが、最も顕著なのは産業の国有化・福祉政策の推進など社会主義的な要求であった。 またヒトラーの発案で党章の図案が募集され、歯科医クローンの提案した鉤十字(ハーケンクロイツ)に修正を加えたものが党章・党旗として制定された。同じ頃、週刊紙『ミュンヒェナー・ベオバハター』を買い取り、機関紙『フェルキッシャー・ベオバハター』(民族観察者)として創刊している。これらの政党運営手法は敵である共産党を範としたものであり、ナチ党の無定見な性質を表していると言える。しかし原則にこだわらないこれらの手法により、ナチ党は急進的な泡沫政党から大衆政党へと急成長を遂げていくことになる。-wikipedia.jp |